私は、鉄道で旅をするとき、グリーン車がある列車では必ずグリーン車を使うことにしている。距離、時間、列車の種類などには関係なく、座席を確保することができるかぎり、乗るのはいつもグリーン車である。
私がグリーン車に乗ると決めたのは、今から20年以上前、大学院生だったころのことである。それ以来、どれほど懐が寂しくても、移動のストレスを軽減するためなら、カネはケチらないことにしている。
念のために言っておくなら、私は基本的にはケチである。移動手段を選ぶときと本を買うときには値段を考慮しないけれども、それ以外のもの、特に生活必需品ではないものは、値段を見てから購入するかどうか決める。当然、デパ地下で値段の高い惣菜を買うことはない。私にとり、それは、無駄遣い以外の何ものでもないからである。
「庶民的」金銭感覚の喪失 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST
週に1回か2回、平日の昼間に新宿三丁目駅で地下鉄を降りることがある。そして、地上に出るときには、伊勢丹の地下1階を通り抜けて地上に出ることが多い。 伊勢丹の地下1階の食品売り場、いわゆる「デパ地下」を通り抜けるとき、いつも感じることがある。それは、「どこが
グリーン車では「静寂」を期待することができる
子どもや団体客に代表される「ノイズを発生させるかも知れない乗客」に出会い、これと空間を共有するというのは、移動中にさらされるストレスのうち、もっとも大きなものの一つである。私がグリーン車を選ぶのは、グリーン車では、このようなストレスにさらされずに済む可能性が高いからである。これは、私がグリーン車に乗る理由の一つである。
車内が騒がしい場合、新幹線のグリーン車なら、騒いでいる乗客に対し、乗務員に頼んで静かにするよう注意してもらうことが可能である。
実際――真偽は確認することができないけれども――ある人物は、以前、次のように語ったようである。
最近ね、子供連れがグリーン車に乗ってくるでしょ。あそこはね、静寂を買う場所なんですよ。それなのにガキがうるさくて!
— 池上 彰(非公式bot) (@AkiraIkegami_b1) 2011年4月3日
「上客」として扱われることに慣れる
しかし、グリーン車に乗るのには、もう一つ理由がある。それは、「上客として扱われることに慣れる」ことである。
以前、私は、次のような記事を投稿した。
高額な商品を買うと優遇されることへの違和感 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST
ある1年間にある金額以上の商品を購入した客を、次の1年間、何らかの形で「優待」する小売店は――通販でも、現実の店舗でも――少なくない。それは、割引であったり、ポイントの付与であったり、何らかの――予約を優先的に受け付けたり、イベントに招待したりする――優
何か高額な商品を購入することで、次に同じものを購入するときに割引を受けたり、飛行機のマイルを貯め、何らかの特典を手に入れる……、これらの場面において、私たちは、たしかに「上客」として扱われてはいる。しかし、この場合の優遇や優待とは、他の客が手にするのと同じものを安く――あるいは無料で――提供されることを意味するのであり、そこで特別なふるまいが私たちに要求されるわけではない。
これに対し、若干の追加料金を支払ってグリーン車を使うとき、その金額がたとえわずかであっても、グリーン車の客であるあいだ、私たちは一人ひとり、グリーン車の客にふさわしい扱いを受ける権利を獲得し、それとともに、グリーン車の客にふさわしくふるまう義務を負う。少なくとも私は、このように考えている。
グリーン車の客としてある時間を過ごすことにより、私は、公共の空間で支払った料金にふさわしくふるまうこと、少なくとも、卑しいふるまいを避けることをみずからに課している。また、「上客」にふさわしくふるまう者は、「上客」にふさわしく扱われることを体験によって理解し、これに慣れることで、社会的な地位にふさわしい行動――あるいは、上客にふさわしい社会的な地位への志――を忘れないようにしているわけである。