AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:コミュニケーション

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パワーポイントによるプレゼンテーションはいたるところで行われている

 マイクロソフトが販売するソフトウェアに「パワーポイント」がある。よく知られているように、これは、プロジェクターを用いたプレゼンテーションのためのスライドを作成するソフトウェアである。

 職場での仕事の内容によって多少は異なるかも知れないが、民間企業で働いているなら、パワーポイント(またはこれと同等のソフトウェア)で作成されたスライドを使ったプレゼンテーションに立ち会ったり、みずからパワーポイントを使ってプレゼンテーションを行ったりした経験がない者はほとんどいない違いない。

 現在では、パワーポイントは、同じマイクロソフトのエクセルやワードとともに、ビジネス用のソフトウェアの中心に位置を占めていると言うことができる。

スライドの作り方に決まりはない

 しかし、パワーポイントで膨大な数のスライドが作られ、会議、説明会、講演、授業などで繰り返し使われてきたにもかかわらず、「プレゼンテーションのための理想のスライドとは何か」という点については、明確な合意が形成されていないように見える。

 そして、「理想のスライド」に関し明瞭な合意が欠けているということは、同じように、「理想のプレゼンテーション」についてもまた、誰もが同意するような基準がないことを意味するはずである。

プレゼンテーションはコミュニケーション

 それでも、次の点だけは、確実であるように思われる。

 そもそも、私がプレゼンテーションを行うとするなら、それは、いかなる場合においても、「アリバイ作り」のためであるはずがない。

 私は、自分の主張を聴き手に理解させ、私の言葉に対する聴き手の同意を獲得し、そして、可能なら、私の望むように聴き手を行動させることを目的としてプレゼンテーションするのである。

 つまり、プレゼンテーションは、1人が語り、多数がこれを聴くという形式を免れることはできないとしても、情報の機械的な伝達にすぎぬものではなく、相手の立場や気持ちに寄り添いながら意思疎通することにその本質があると考えるのが自然である。プレゼンテーションとはコミュニケーションなのである。

 そして、パワーポイントがプレゼンテーションの所期の目標にとって有効なスライドを作成するソフトウェアであるなら、スライドの「よさ」とは、コミュニケーションを促進する手段としての「よさ」以外ではありえないことになる。

言いたいことを直観的に伝えるスライドが歓迎される場面がないわけではない

 しかし、「スライドをどのように作ればよいのか」あるいは「効果的なコミュニケーションがどのようにして可能であるのか」という問いに答えることは容易ではない。

 私たちは、スライドを作るとき、みずからが実際にスライドを映して聴き手に語りかける場面を繰り返し心に浮かべる。しかし、最終的には自分なりの工夫が必要であるとは言っても、ルールや標準のようなものがあらかじめ設定されている方が心強いには違いない。

 実際、このようなルールや標準を提示し、プレゼンテーションにおけるスライドの作り方や使い方を記述するマニュアルのようなものがが何点も出版されている。私自身は、次の著者による一連の出版物を参照することが多い。

プレゼンテーションZEN 第2版

プレゼンテーションZENデザイン

裸のプレゼンター

ガー・レイノルズ シンプルプレゼン

世界最高のプレゼン教室(80分DVD付き)

 これらの本において、著者は、スライドの具体的な作り方を説明している。著者の提案するスライドの作り方は、日本人の平均的な「スライド観」(?)には必ずしも合致しないであろう。というのも、説明の前提となっているのは、おおよそ次のような理解だからである。

      1. プレゼンテーションの主役は人間のスピーチであり、パワーポイントではない。(退屈なプレゼンテーションの効果には”death by PowerPoint”の名が与えられている。)
      2. スライドは、スピーチの効果を上げるための補助的な手段であり、自立したものとする必要はない。(=スライドは資料でも原稿でもない。)
      3. スライドは、言いたいことの枠組を直観的、視覚的に伝えるものであり、詳細な情報は印刷して資料として配布すべき。資料からそのまま作られたスライドを著者は”slidument”と呼ぶ。

 このような理解を前提として作成されるスライドからは、当然、余計な情報が切り捨てられ、ミニマリスティックなものとなる。著者の指示にすべて従い、練習を繰り返すなら、最終的には、途方もなく洗練されたスライドを用いた「スティーヴ・ジョブズみたいな」プレゼンテーションが可能となるはずである。

 たしかに、たとえばTEDCreative Morningsの動画を見ていると、使われるスライドがおおむねミニマリスティックであり、スピーチに対する「挿絵」の役割しか担っていない(=それだけ眺めていても脈絡がわかるようになっていない)。スライドがこのように使われる場面が少なくないことがわかる。

プレゼンテーションの価値は聴き手が決めるもの

 しかし、残念ながら、プレゼンテーションとは何であり、スライドとは何であるかという点に関し、万人が上の著者に同意するわけではない。

 むしろ、プレゼンテーションとはスライドをそのまま朗読することであり、スライドはそのまま印刷して資料として利用可能でなければならないとかたく信じている聴き手は決して少なくないはずであり、このような聴き手を前にするとき、「スティーヴ・ジョブズみたいな」プレゼンテーションは、聴き手の期待に応えるものではなく、したがって、何の効果も挙げられないに違いない。

 そもそも、プレゼンテーションがコミュニケーションであるかぎり、その成否を決める権利を持つのは、語り手ではなく聴き手である。(コミュニケーションとは、聴き手のためにあるものだからである。)スライドがどれほど洗練されていても、聴き手が理解も同意も示さなければ、プレゼンテーションは失敗である。

聴き手に応じてスタイルを変えるのが「正解」

 プレゼンテーションのスタイルは多様であり、そこに「正しいプレゼンのスタイル」などというものはない。

 たしかに、TEDやCreative Morningsでスピーチするのなら、徹底的に洗練されたスライドを作り、言葉と一体になって流れて行くよう工夫しなければならないであろう。

 しかし、日本の多くの企業の内部で行われるプレゼンテーションのように、野暮で見づらい”slidument”を要求するような聴き手の前では、この要求に応えないかぎり、自分のメッセージが伝わらないはずである。

 プレゼンテーションを成功させることを望むのなら、スライドを作ったり情報を整理したりする前に、聴き手が何者であるのか、どのような意見の持ち主であるのか、これまでどのようなプレゼンテーションに馴染んできたのか……、このような点を慎重に調べ、その上で、伝え方を工夫することが必要であり、他に道はないように私には思われる。

the KKK rally (circa early 70's)

見ず知らずの相手とのコミュニケーションが含む不確実性

 私は、SNSには原則として近づかないことにしている。ツイッターは気まぐれにしか使ってこなかったし、フェイスブックのアカウントは持っていない。直接の知り合いか、あるいは、私の仕事に何らかの関係がありそうな相手ならばともかく、完全な見ず知らずの相手とのネット上でのコミュニケーションは、大きな不確実性を含んでいるからである。見ず知らずの相手との意思疎通の困難については、以前に2回、別の観点から書いたことがある。


共生の悪夢と社会の「融和」 : アド・ホックな倫理学

昨日、次のような記事を見つけた。「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている 高等学校卒業が最終学歴である人々と、大学卒業が最終学歴の人々とのあいだに、社会に対する見方に関し大きな隔たりが生れ、しかも、たがいに相手が社会をどのように見てい


「狂信」の背後にあるものがわかったとしても、意思疎通が可能になるわけではない : アド・ホックな倫理学

狂信の政治 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。 特に、マスメディアにお

 SNSにおけるコミュニケーションの不確実性というのは、一言で表現するなら、相手が何者なのかよくわからないことに由来する不確実性である。私が何かを発信する場合、私の言葉を相手がどのように受け止めるのかまったく見当がつかない。同じように、相手から私に向けて差し出された言葉を正確に理解するためには、言葉の背後にある暗黙の了解や文脈を共有しなければならないけれども、見ず知らずの相手の場合、このような点については、乏しいサインを手がかりにただ想像するほかはない。少なくとも、私の乏しい経験の範囲では、SNSで不意打のように成立する見ず知らずの相手とのコミュニケーションについて、上手く行ったという手応えが得られることは滅多にない。

 そもそも、SNS、特にツイッター上で、わずか140文字で見ず知らずの他人が言おうとしていることを正しく把握するなど、ほぼ不可能である。「正常な」コミュニケーションをツイッターで実現するためには、140文字を丹念に読み、前後のツイートを読み、誰をフォローし、誰にフォローされているかを確認することで、相手がどのような人間であるのかをあれこれと想像することが必須である。また、私が使う言葉は、慎重に選ばれなければならない。このような作業には、多くの時間と体力が必要となる。ツイッターは、スマートフォンで気軽に使うことができるようなものではない。しかし、ここまで用心しても、地雷を踏んでしまう危険がなくなるわけではない。

池に落ちた犬を叩く者たち

 自分の何気ない投稿に対して、見ず知らずの人間から意味不明な言いがかりをつけられ、この言いがかりが周囲に拡散して面倒なことになった経験がある人がいるかも知れない。もちろん、直接に対面しているのなら、あるいは、ブログやウェブサイト上での長文でのコミュニケーションなら、相手の誤解を解く余地、あるいは、落としどころを見つける余地が多少は遺されていると考えてよい。何と言っても、あなたがブログやウェブサイトに投稿した記事が問題であるなら、言いがかりをつける方もまた、あなたの立場を背景を含めて理解するために、それなりに時間をかけてあなたの言葉を読んでいるわけであるから、あなたは、言いがかりをつけてきた相手に対し、あなたの説明を聴き、あなたの言いたいことを理解する努力をいくらか期待することが許される。

 ところが、ツイッターの場合、誰かに言いがかりをつけられた瞬間にはすでに、さらなるコミュニケーションの可能性は閉ざされている。相手は、一種の狂信者であり、自分と違う考え方、自分と違うあり方を一切認めない。彼らは、何かに対し居丈高に怒り、何かに対し聞くに堪えない罵声を浴びせ、何かを吊し上げたいだけであり、このような人間にとって、あなたの言葉をあなたの身になって正しく理解したり、あなたの発言の背後にある前提や文脈を想像するなど、最初から関心の外にあると言ってよい。あなたは、マッチに点火するのに必要なマッチ箱の側面のようなものにすぎないのである。

 あなたに対する言いがかりが周囲に拡散するとしたら、それもまた、いかなる意味でもコミュニケーションではなく、ただ、あなたを晒し者にする一種の祭りに参加し、刹那的な偽りの一体感を体験したいだけであり、そこには、人間としてのあなたの尊厳への気遣いなど何もない。騒ぎがある程度以上大規模になるとき、これが「ネット私刑」などと呼ばれる理由である。

 現実の世界でも、サイバースペースでも、コミュニケーションの基本は、「相手の身になること」である。相手の身になり、相手のことを理解する努力が(たとえコミュニケーションが敵対的なものであっても)意思疎通の前提である。ただ、残念なことに、人間には、「相手の身にならないこと」「意志疎通の努力を放棄すること」がつねに可能である。実際、ネット上の見ず知らずの者たちの「交流」では、「誹謗中傷をこれ以上続けたら、相手は社会的に葬られてしまうのではないか」「これだけ大量の憎悪表現を寄ってたかって浴びせ続けたら、相手は立ち直れないのではないか」などの気遣いは、必ずしも前提とはならない。実際、ツイッターには、自分が罵声を浴びせる相手が精神を病もうと、自殺しようと、社会から抹殺されようと、そのようなことには一切頓着しない者たちが跋扈する一種の無法地帯としての側面がある。なぜ人間がそこまで思いやりを忘れることができるのか、これは人間の存在をめぐる1つの謎である。

Appetizers Winter 2011

 もう何年も前になるが、ある講演を聴いたことがある。それは、動物行動学に関係あるらしい自然科学系の分野の研究者による一般向けの講演であったが、独立の講演会ではなく、ある財団が主催する別のイベントの前座として行われたものである。私は、イベントの本体に参加するために出かけたついでに、その講演を聴くことになったのである。

 講演の内容は、もはやほとんど覚えていない。覚えているのは、私にはほとんどまったく理解できなかったこと、そして、何よりも、「目の前にいる人間の反応を無視して話せる人間がいるんだな」という雑な感想が自分の心に浮かんだことだけである。スピーカーの話は、最初から最後まで、化学物質、薬品、器具、手順などを表すらしい(が、説明がないから、ハッキリとはわからない)片仮名やアルファベットのテクニカルタームの羅列であり、これらの名詞を簡単な動詞、助詞、助動詞、接続詞などでつないだだけのものであった。私は、スピーカーが「マウスに××××を投与し、○○○○を使って△△△△を◇◇◇◇という条件で行うと、☆☆☆☆という結果が出るが、これに対し、◆◆◆◆を使って◎◎◎◎を行うと、※※※※という結果になり……」というような調子で、実験のデータと関連する映像をパワーポイントで次々と映し出しながら相当なスピードで話すのを約1時間にわたって聴かされたのである。

 当日の聴衆の半分は、文系の人間であった。そして、このことは、スピーカー自身、事前に知らされていたはずである。私がスピーカーなら、テーマを決めるに当たり、専門がまったく違う人間にもわかることを最優先で考慮する。万が一、テーマが自由に決められないとしても、完全な素人にも一応は理解できるよう心がける。これは、話す側の当然のマナーであるに違いない。いや、マナーである以前に、これは、講演というコミュニケーションを成立させるための最低限の条件である、小心者のせいか、私はこのように考えている。

 それだけに、目の前にいる人間が自分の話をまったく理解しなくても、一向に意に介さない人間がこの世にいて、しかも、国民が納めた税金を原資とする補助金を使って学術研究に従事しているというのが、私には不思議で仕方がなかった。もちろん、私は、「公金に頼って学術研究を続ける以上、全国民にわかるような結果を出すべきだ」と主張するつもりはない。実際、そのようなことは不可能であろう。しかし、自分の研究の意義を、関心を共有していない人々に説明する努力は、つねに必要であると思う。

 形式的に考えるなら、コミュニケーションというものは、「コミュニケーター」(communicator) つまり送り出す側と「コミュニケ―ティー」(communicatee) つまり受け取る側の両方がいないと成り立たない。また、すべてのコミュニケーションでは、(マス・コミュニケーションを含め、)コミュニケーターとコミュニケ―ティーの役割は、それぞれ異なる人間によって担われるのではなく、すべての当事者がこれら2つを同時に担う。

 しかし、両者は決して対等ではない。コミュニケーションにおいて決定的にに重要なのは後者、つまりコミュニケ―ティーの方である。なぜなら、それぞれのコミュニケーションの価値を決めるのは、コミュニケーターではなく、コミュニケ―ティーだからである。小説の価値を決めるのは、作家ではなく読者である。落語の価値は、落語家自身にとって面白いかどうかによって決まるのではなく、聴衆が面白いと思うかどうかによって決まる。作家は、読者に受け容れられるかどうかをつねに考慮しながら作品を執筆し、落語家の最大の関心事は、聴衆が自分の期待どおりに反応してくれるかどうかという点であるに違いない。これは、あまりにも当然のことであるけれども、残念ながら、私の狭い経験の範囲では、講演に関しこの点に配慮するスピーカーは、現実には決して多くはないように思われるのである。

 小説に関するかぎり、私たちは、これを読まない自由を持つ、同じように、落語を聴く義務が私たちに課せられているわけではない。しかし、世の中には、聴きたくなくても聴かなければならない話、読みたくなくても読まなければならない文章というものがある。そして、強いられた読者、強いられた聴衆をコミュニケ―ティーに持つコミュニケーションにおいてコミュニケーターになるときこそ、相手の関心、相手の期待への最大限の配慮が必要となるはずである。


Robbery

 何日か前、次のような記事を見つけた。

74歳女性が強盗撃退、ピストルを突き付け返す 米

 幸いなことに、私自身は、自宅で強盗に襲われた経験がない。だから、私が気をつけることと言えば、戸締りくらいしかない。強盗が来たときの対処法を普段から検討しているわけでもない。ただ、上の記事で紹介されているように、たしかに、銃を持って侵入してきた強盗を銃で迎え撃つのは、海外ではごく普通のことであるのかも知れない。去年の秋には、スウェーデンで次のような出来事があった。

【海外こぼれ話】マジ切れの店主怖い!...トイレに逃げ込んだ窃盗犯、警察到着に「感謝」

 侵入者の方が怯えてしまうとしても、もちろん、侵入した方が悪いのだから、「過剰反応」として非難されるいわれはないであろう。

 しかし、銃火器を含む暴力によらなければ強盗を撃退できないわけではないのかも知れない。たとえば、次の記事は、自分が働く売店に侵入してきた強盗に対し、紅茶を飲んでいるから終わるまで待つように言い、やがてナイフを取り出して強盗を追い払ったイギリス人の女性を紹介している。

英国のある店主の女性、「紅茶を飲んでいるから忙しい」と強盗を待たせる - AOLニュース

 また、次の記事では、店に侵入した強盗を単純に無視することで撃退したニュージーランドの例が紹介されている。

ケバブ屋に強盗が入るも、ガン無視されてすごすご帰る事案が発生 ニュージーランドで

 相手が設定した(無視を含む)コミュニケーションの土俵に乗ってしまうと、強盗の方も、身動きがとれなくなるのであろう。

 とはいえ、やはり、日本人としては、次の撃退法を忘れてはならない。

 これは、今から5年前、2012年7月4日の名古屋市での強盗未遂事件に関する毎日新聞(7月5日付、中部版朝刊23面)の記事である。

強盗未遂:女性宅に覆面男 「はあ?」で撃退--名古屋・昭和区

 4日午後8時35分ごろ、名古屋市昭和区鶴羽町3のマンション2階に住む女性会社員(21)方で、玄関に侵入した男が簡易ライターに火をつけ、「金を出せ」と脅した。会社員が「はあ?」と聞き直したところ、男は何も取らず逃げた。愛知県警昭和署は強盗未遂事件として男の行方を追っている。

 同署によると、会社員は1人暮らし。室内でテレビを見ていた時に物音がしたため、振り向いたところ、男が玄関にいたという。玄関は鍵をかけていなかった。男は20代とみられ、身長170センチ前後。サングラスをかけ、水色のタオルで覆面していたという。【渡辺隆文】

 私は、強盗には一切同情しない。また、強盗に入ることは弁解の余地のない悪であると考えている。

 それでも、強盗に入り、住人に「カネを出せ」と言ったところ、「はあ?」という反応が戻ってきたため、そのまま退散した強盗の気持ちはよくわかる。自分が何かを誰かに語りかけ、これに対して「はあ?」(「あ」の部分が特に高くなる)という反応が戻ってきたら、非常に不快であり、また、ガッカリさせられるからである。血圧が一気に上がる人もいれば、意気阻喪して何もかもいやになる人もいるであろう。

 「はあ?」は、単純な無視以上に冷たいコミュニケーションの拒絶の意思表示であり、相手が提供するコミュニケーションの内容と枠組を一度に斥ける強力な手段である。どこかに侵入し、「はあ?」という反応に出会ったら、侵入者からは、言葉による脅迫という選択肢が奪われてしまうから、残されるのは、本格的な暴力に訴えるか、あるいは、そのまま黙って退散するか、2つの選択肢だけである。常識的に考えて、「簡易ライター」が威嚇の手段とはなりえない以上、もはや逃げ出す以外に道はなかったのであろう。

 「はあ?」というのは、きわめて否定的な作用をコミュニケーションに与える発言である。私自身は、一度も使ったことがないし、使うべきではないと考えているが、それだけに、危機的状況の下では思わぬ役割を担うことになるのかも知れない。(ただ、当然のことながら、すべての強盗が「はあ?」で撃退可能であるわけではない。この点には十分に注意し、戸締りを怠らないことが大切である。)


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