THE FIGHTER - red carpet, in Hollywood, California

 今日、次の記事を読んだ。

ベッキーさん、九州玄関口の"顔"に JR博多シティのCMキャラに起用、福岡限定CMにも出演

 私は、普段、民放の番組を見る機会があまりない。当然、誰の人気があるのか、誰のことは知っていないければならないのか……、このようなことはまったくわからない。また、芸能関係のニュースを几帳面に追いかけているわけでもないから、スキャンダルの類にも不案内である。だから、芸能人の具体的な言動についてあれこれと批評する資格は私にはないように思う。(「ベッキーが好きなのか?」と尋ねられたら、私は、「特に好きではないが、私にとっては、名前と顔が一致する数少ない芸能人の1人ではある」と答える。私でも知っているくらいだから、よほど有名なのであろう。)

 ただ、最近10年か15年くらいのあいだ、芸能人の「ありがたみ」がずいぶん薄れてきたことは確かであるように思われる。芸能人らしさの一部が芸能人から失われているように見えるのである。

 平均的な日本人の多くは、芸能人の姿をテレビを通して眺めている。しかし、芸能人というのは、テレビに出演し、何らかの役割を演じているだけの存在であるわけではない。

 民放がテレビドラマを作るとき、名の通った俳優やタレントやアイドル――たがいにどう違うのかわからないが――を使う代わりに、出演者のすべてを無名の役者や完全な素人から選ぶことは不可能ではないし、ドラマの質だけを考慮するなら、その方がすぐれた作品が出来上がるかも知れない。しかし、顔を見たこともない、名前を聞いたこともない出演者ばかりが画面に登場するドラマなど、民放の番組の普通の視聴者は興味を示さないであろう。視聴者が見たいのは、ドラマではなく有名な芸能人だからである。

 そして、芸能人に人々が注目するのは、露出の機会が多いからだけではなく、むしろ、本質的には、平均的な日本人の生活から何らかの仕方で乖離した生活を送っているように見えるかぎりにおいてである。だから、芸能人の私生活は、よくわからないままであるか、あるいは、いくらか風変りであるのが望ましいことになる。芸能人の生活を覗き見た普通の視聴者が、自分の生活と大して変わらないという感想を抱くことがないようにすることは、芸能人にとって必須である。ある芸能人がごく平均的な生活を送っているとしても、自分のごく平均的な生活をあるがままに暴露したら、その芸能人は、自分の評判を少なからず傷つけることになるはずである。

 だから、芸能人の言動は、それが本当の意味における犯罪に当たるものでないかぎり、これを世間の普通の尺度で評価してはならない。世間の常識をよくわきまえ、小市民的な生活を送っていることを公言する芸能人というのは、どのような状況のもとでも決して魅力的ではないけれども、特に世間が不況に苦しんでいるときには、魅力に乏しいばかりではなく、有害ですらあるように思われる。このような芸能人の生活を垣間見ても、模範的な家庭生活の退屈な見本を見せられるだけだからである。

 むしろ、芸能人に社会的な使命があるとしても、それは、模範的な生活を人々に示すことではない、謎に満ちた生活、微妙にいかがわしい生活、普通の人間には真似ができないような派手な生活、あるいは、極端に禁欲的な生活など、標準からはずれた暮らしを人々の前で演じることにより、人々がくすんだ日常を忘れたり、励まされたりする点にある。だから、テレビ番組や映画に出演するだけではなく、画面の外部においてもまた、芸能人は、普通の市民ではなく、芸能人としてふるまうことが望ましい。ウディ・アレンの映画「カイロの紫のバラ」(1985年)は、1930年代のハリウッドのスターが社会に対しこのような役割を担っていたことを教えてくれる。


Amazon | カイロの紫のバラ [DVD] -映画

ミア・ファロー, ジェフ・ダニエルズ, ダニー・アイエロ, ダイアン・ウィースト, ヴァン・ジョンソン, カレン・エイカーズ, カミーユ・サヴィオラ, ウディ・アレン 邦画・洋画のDVD・Blu-rayをオンライン通販アマゾンで予約・購入。お急ぎ便ご利用で当日・翌日にお届け。


 実際、当時のハリウッドを代表するスターの一人ジョーン・クローフォードは、大恐慌の時代、人々が不況に苦しみ、社会的な不安の中で節約に努めているとき、あえて派手な生活を演じ、非日常を人々に見せることがスターの社会的な使命であるという自覚のもと、次のように語ったと伝えられている。(微妙に異なるバージョンがあるようであるが、ここでは最大公約数的なものを記す。)

私はジョーン・クローフォードです。私はドルを信用しています。私は、稼いだものは全部使います。

I am Joan Crawford.  I believe in the dollar.  Everything I earn, I spend.

 平均的な日本人の中に溶け込み、「等身大」の「普通」の存在になることは、芸能人の社会的な使命の放棄以外の何ものでもないと私は考えている。(「会いに行けるアイドル」など、もってのほかである。)

 むしろ、芸能人が、良心の欠如が疑われるような仕方で派手な不倫を経験したり嘘をついたりしても、小市民的な(善悪でしかものを評価することのできない狭量な)道徳的尺度をこれに適用してはならず、むしろ、それもまた一種のドラマとして楽しむべきであるように思われるのである。