AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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Entice

デスクワークが続くと運動不足になるが……

 今、私の職場は「春休み」中である。職場に毎日出かけて行かなくてよいという意味では、1月下旬から4月上旬までが春休みに当たるけれども、この時期は、春休みであるばかりではなく、年度末でもある。つまり、この時期には、定期試験の監督と採点、入試の監督と採点、そして、年度末と新年度の行事によって規則的な生活がもっともひどく攪乱されることになる。(この種の雑用のスケジュールは、曜日に関係なく設定されるため、世間のリズムとのズレも大きくなる。)

 それでも、今は、まだ少し生活に余裕がある。去年も一昨年も、この時期には、締め切りが近い原稿、あるいは、締め切りが過ぎた(!)原稿を抱えていた。そのため、春休み中は、各種の雑用を片づけながら、大学に行かない日には、

    • 日の出前に起き、
    • 半分くらい寝ぼけながら、ただちに仕事場のパソコンの電源を入れ、
    • パソコンが起動するまでのあいだに朝食をパソコンの前に運び、
    • 朝食を口に詰め込みながら原稿を書き始め、
    • 昼食もそのままパソコンの前で原稿を書きながら済ませ、
    • その後も、コーヒーを浴びるように飲みながらさらに原稿を書き続け、
    • 日が傾き、アタマが働かなくなったら、原稿を保存してパソコンの電源を切り、
    • 朦朧とした状態で夕食を口に運ぶ

という単純きわまる日課が繰り返された。机と洗面所と台所と本棚のあいだの往復だけが唯一の運動であり、1日の歩数はあわせて1000歩にもならない。近所のスーパーマーケットで食料品を調達するため、3日に1度は玄関から外に出るけれども、それ以外は、自宅にこもりきりであった。

ストレスにさらされると間食が増えてしまう

 このような生活を続けていると、運動不足になるばかりではない。どうしても間食が増えるのである。

 全体がこのブログの記事のように千文字か2千文字程度であるなら、力まかせに一気にまとめてしまうことができる。しかし、通常の学術論文なら短くても1万5千文字、本になると、もっとも短い新書サイズでも10万文字を超えるのが普通である。しかも、この10万文字は、ブログとは異なり、バラバラのテーマの千文字の文章が100篇集まったものではなく、内容的に全体が連関して一つの全体を形作らなければならない。当然、これを1日で書き上げることは不可能であり、短い論文の場合でも数日、本を書くには数週間から数ヶ月、1つのテーマについて繰り返し考えながら机に向かう作業が続く。

 このような作業は、大変に大きなストレスになる。筆――あるいは入力(?)――が順調に進んでいるときには何の問題もないけれども、書き淀んだり、以前に書いた部分に修正すべきところを見つけたりすると、そのたびに、最後まで辿りつくことができないのではないかという気がかりで心が一杯になる。ときには、血の気が引くような思いをすることもある。

 それでも、私など、締め切りの圧力が特に大きいわけではないし、また、アカデミックな文章については、最終的に戻って行くべき文献や資料や証拠があるから、筆が進まなくなっても、最低限の精神の安定を保っていられる。おそらく、有名な作家の場合、締め切りをいくつも抱えている上に、扱うのがフィクションであるから、そのストレスは途方もないものとなるに違いない。

 そして――これは、私に固有の事情であるかも知れないが――ストレスが大きくなるほど、これをかわすため、間食が欲しくなる。何かを甘いものを口に入れ、これを噛んでいると、気分が少し落ち着くのである。

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 よく知られているように、正岡子規は、酒を飲まず、甘いものを好んで食べていた。子規と同じように、私もまた、酒を飲まず、甘いものが大好きである。

 しかし、以前、子規の評伝を読んでいたとき、子規があんパンを一度に7個か8個食べたという記述が目に入り、私もあんパンを食べたくなった。(だから、慌てて本を閉じ、他のことを必死で考えた。)私があんパンを子規と同じように食べたら、体重の増加が避けられないことは確かである。それでも、原稿を書いているときには、パソコンに向かいながらあんパンをいくつも口に放り込むことがある。(子規は、あんパンばかりではなく、甘いもの全般を好物としていたようである。いつか、子規が食べた甘いものをすべて調べて食べてみたいとひそかに考えている。)

 もちろん、これは、きわめて不健康な習慣である。実際、何か長いものを書くと、決まって体重が増え、原稿を仕上げたあとには過酷な食餌制限が待っている。そして、体重がある程度まで減ったころには、次の原稿の締め切りが近づいてくるのである……。

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 人工知能が発達することにより人間の仕事が奪われるかも知れないという予想は、社会の中で広く受け容れられているものの1つである。

 たしかに、社会の中には、機械の性能が向上するとともに姿を消す可能性のある仕事は少なくない。実際、歴史を振り返るなら、技術の進歩とともに不要となった仕事はたくさんある。単純な肉体労働や事務作業というのは、「今は機械にはできない」仕事であるにすぎず――遠いか近いかは仕事の内容によって異なるとしても――将来のいずれかの時期に同じ作業に従事する機械が開発され、人間の仕事ではなくなるはずである。

 しかしながら、「今は機械にはできない」のではなく、「機械には決してできない」仕事というものがある。それは、直接に他人に対して責任をとるタイプの仕事である。

 もちろん、たとえば建設現場で足場を組んだり、オフィスで書類をコピーしたりするような作業に従事する者は、間接的には他人に対して責任を負っている。しかし、それは「業務を指示どおりに遂行する」責任であり、この意味において限定的な責任である。

 これに対し、社会には、「どう責任をとればよいかは相手により異なる」というタイプの仕事がある。たとえば、民間企業の場合、製品開発や市場調査、単なる広告や宣伝については、そのかなりの部分を人工知能に代行させることができる。また、医療や法律の分野でも、単なる情報の整理や書類の作成は、機械でも担うことができる。また、「グーグル・ニュース」がすべて機械によって編集されているという事実が雄弁に物語るように、新聞についても、近い将来、記事を配列し整理し配布する作業は、人間を必要としなくなるはずである。

 しかし、もっとも狭い意味での「営業」は、人工知能には担うことができない。これは、企業活動を構成する要素の中で、最後まで人間によって担われるはずである。それは「今はまだ」人工知能には無理なのではない。営業の本質が他人の話に耳を傾け、他人を説得することにあるかぎり、これは、人工知能には「決して」担うことができない。なぜなら、これは、人間の反応、具体的には満足/不満足に責任を負うものだからである。営業の仕事を人工知能に置き換えるなら、今度は、営業の成否についいて、人工知能を開発した者が責任を負うことになる。

 同じように、小学校から高等学校までの教員――さらに、幼稚園の教諭、あるいは保育士など――もまた、人工知能が代わることのできないものである。教員の仕事が「知識を提供すること」に尽きるのであれば、人工知能が教師の役割を担うことは容易であろう。しかし、実際の教員の仕事は、生徒や児童に対する「指導」であり、これは、子ども一人ひとりを観察し、いつ、どのような状況のもとで、誰に対し、どのような態度をとるか、その場で個別に決断することによってしか成り立たないものである。(人工知能にできることがあるとすれば、膨大な量のアドバイスをティップスとして蓄積し、状況に応じてこれを「提案」することであろうが、これは「指導」でも「教育」でもない。)そして、その「指導」は、指導する側が最終的な責任を負う。最終的な責任を負う仕事は、人工知能がどれほど発達しても、決してなくなることはない。(そもそも、人工知能には「人格」がないから、責任は一切負うことができない。)

 とはいえ、最終的な責任を負う者には仕事を人工知能に奪われるおそれがないことは確かであるとしても、このような仕事がつねに非常に大きなストレスを与えることもまた事実である。たとえば、教員なら、自分の指導に従わない生徒一人ひとりに向かい合い、関係を作って行くことがストレスになるばかりではない。上司、同僚、保護者などが突きつける要求を考慮することからも逃れることができない。実際、最近20年のあいだに新任の教員が少なくとも10人自殺しているようである。

新人教員 10年で少なくとも20人が自殺 | NHKニュース

 また、文部科学省は、2015年の1年間に精神疾患で休職した教員が5009人になるという調査の結果を公表している。この事実は、学校における教員のストレスの大きさを示している。

文科省調査:精神疾患で休職教員5009人 15年度 - 毎日新聞

 当然、民間企業で営業に従事する者もまた、客の気まぐれや手違いに振り回され、自分の予定や計画が狂い、これがストレスの原因になることがあるであろう。

 人工知能によって奪われない仕事は、最終的な責任を負う仕事である。しかし、それは、対人関係に由来する烈しいストレスにさらされる仕事であり、ことによると、給与に見合わない仕事、好んで就きたいと思う者が少ない仕事ということになるのかも知れない。


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