AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

スマホ

carl-heyerdahl-181868

久しぶりに「デジタル断食」してみた

 しばらく前、「デジタル断食」を実行した。仕事のデッドラインに追われていたため、およそ1年ぶりである。

 私の職場が休みだった平日の24時間――正確には、前日の夜から翌日の朝までの36時間――を、パソコン、スマホ、タブレット(私は所有していない)、そして、テレビの電源をすべてオフにして過ごすことに決めた。当日、デジタル機器に一応分類されるもので電源が入っていたのは、自宅の固定電話だけである(が、実際には、一度も鳴らなかった)。

 以前に投稿した記事に書いたように、「デジタル断食」と言っても、特別なことは何もない。だたデジタル機器の電源をオフにするだけである。


24時間「デジタル断食」のすすめ 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

週末の24時間をデジタル・デトックスに使う方法とその効用。

 当然、最初のうちは、手持ち無沙汰に苦しめられる。これもまた、次の記事に書いたとおりである。


無為を自分に強いることについて、あるいは「手持ち無沙汰」と生産性について 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

手持ち無沙汰の効用について哲学的に考える。

 「デジタル断食」の1日は長い。時間が経つのが遅いと感じられるのも原因の1つであるが、最大の原因は、パソコンやスマホをいじることで失われていた時間が私たちの手もとに戻ってくることにある。1日の多くの時間をパソコンやスマホの操作で無駄にしていることに気づき、「デジタル断食」のたびに愕然とする。

「デジタル断食」を実行すると、眠っていた生産性が刺戟される

 逆説的なことに、「デジタル断食」を実行し、外部からの刺戟を遮断すると、失われていた知的生産性が回復する。少なくとも、パソコンやスマホを前にしているときよりも、脳の活動が活発になっていることは確かである。

 私は、日中のほぼすべての時間を本を読んで過ごしたけれども、たとえ時間があっても、パソコンやスマホの電源が入った状態では、集中力が続かない。デジタル機器から離れただけで、1つのことに注意を向け続ける力が蘇ることは明らかであった。

 そもそも、ある程度以上の時間パソコンやスマホの画面を連続して眺めていると、脳波が睡眠時と同じような状態になることは事実として以前からよく知られている。ネットやスマホの使用に中毒性があると言われる所以である。パソコンやスマホをいじると脳の生産的な活動が抑制されるのは当然なのである。

 だから、解決すべき問題を抱えていたり、何かに関して行き詰まりを感じていたりするなら、デジタル機器から距離をとった状態で時間を過ごすことは、有効であるばかりではなく、必要ですらある。

 デジタル機器と完全に絶縁して生きることは、現代ではほぼ不可能であるかも知れないが、私たち一人ひとりの内部にあり、そして、意思決定において重要な役割を担うはずの「本能的なもの」あるいは「野生」を目覚めさせるためには、わずか1日でもよい、「デジタル断食」の実行は必須であるように思われるのである。

Texting

「なすべきこと」を「何となく」やりたくないとき

 勉強したくない、本を読みたくない、会社に行きたくない、家事をやりたくない……、人は、このような気分に陥ることが少なくない。身体を動かすことすら面倒くさいともある。そして、このような気分は、労働の生産性をいちじるしく損ねたり、家族や友人との関係を危うくしたりする場合が少なくない。

 もちろん、目の前にある「なすべきこと」から逃れたいと考える理由が明確であるなら、そこには何の問題もない。「なすべきこと」をしない理由を周囲に説明し、納得してもらえばよいだけのことである。

 しかし、私たちが「なすべきこと」をやりたくないときには、理由を問われても、「何となく」としか答えようがないことがある。「何となく」やりたくないのであるから、原因を明らかにすることもできないし、理由を明らかにして「なすべきこと」から逃れるわけにはも行かない。そのため、このような気分に陥ると、私たちは、このような気分に陥ったという事実が原因となって、ますます追いつめられることになる。しかし、この気分が精神障害によるものでないのなら、これを解消して生活に生産性を取り戻したり、家族や友人との関係を回復したりすることは、必ずしも難しくはないように思われる。

暇つぶしを追放し、手持ち無沙汰の状態をあえて作り出すと、自分の抱えていた問題が見えてくる

 あらかじめ言っておくなら、このような気分に陥ったとき、決してやってはいけないことがいくつかある。それは、テレビをダラダラと見ること、スマホをダラダラといじること、あるいは、同じようなことであるが、パチンコをダラダラと続けること、さらに、他人には言えないような恥ずかしいことにふけること……、などである。つまり、何かを「ダラダラ」と続けて気を紛らわせるというのは、「なすべきこと」を「何となく」やりたくないときには、決してしてはならない禁忌である。これは、時間の空費と問題の先送りでしかないからである。

 むしろ、最初になすべきことがあるとするなら、それは、時間の使い方を再検討することである。具体的には、あえて手持ち無沙汰を作り出すことである。

 まず、1週間あるいは1ヶ月を振り返り、何ににどのくらい時間を使ったかを思い返してみるとよい。何にどのくらいの時間を使ってきたか、大雑把な仕方で確認するためである。何に時間を使ってきたかがわかったら、「労働」(「介護」や「育児」を含む)と「睡眠」を除き、もっとも多くの時間を費やしてきたもの、つまり、生産的な活動以外でもっとも多くの時間を占領しているものを生活から排除するのである。1日のうち、テレビを見るのに2時間使っているのなら、スマホで動画を見るのに2時間を使っているのなら、あるいは、パチンコに2時間を使っているなら、これをやめるということである。

 テレビを見たり、スマホをいじったり、パチンコ台の前に坐ったりすることが、生活に必要不可欠であることは滅多になく、ほとんどの場合、こうした行動は、暇つぶしのためのルーチンにすぎない。手持ち無沙汰になると煙草を吸うのと同じである。これは、もともと、浪費されていた時間なのであるから、テレビやスマホやパチンコを生活から追放しても、生活が効率的になるだけであり、何らかの悪影響が及ぶ可能性はゼロに限りなく近い。

 しかし、これまで多くの時間を占領してきたルーチンを生活から排除すると、私たちは必ず、恐るべき退屈に襲われる。つまり、禁断症状が出るのである。たしかに、この禁断症状は苦痛であるけれども、「なすべきこと」を「何となく」やりたくない気分に陥ったとき、これを解消するためには、この禁断症状に耐えることが絶対に必要であると私は考える。というのも、暇つぶしのためのルーチンを繰り返すことで、私たちは、自分が抱えている問題から不知不識に逃避しているからである。誰でも、この「強いられた無為」の中にあえてとどまり、自分の本当の姿について考えざるをえないような状況に自分を追い込むことにより、暇つぶしのルーチンとは異なる「何か」をやるようになることは確かである。

 これは以前に書いたことであるが、デジタル断食(あるいはデジタル・デトックス)の意味もまたここにある。デジタル断食は、スマホの使用をコントロールする技術の獲得を目標とするものではない。そうではなくて、手持ち無沙汰を自分に強いることにより、それまで無駄なことに時間を浪費してきたことがわかり、それによって、生活全体の枠組みを見直し、スマホとの関係を見直すことができるような「私自身のあり方」を取り戻すことができる。これがデジタル断食の意義なのである。


24時間「デジタル断食」のすすめ 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

デジタル断食してみた 今年に入ってから、「デジタル断食」を何回か自宅で実行した。期間は、1回につき24時間であった。 デジタル断食またはデジタル・デトックス(digital detox) は、インターネット接続を完全に遮断した状態で時間を過ごすことを意味する。ネットによって



  無為を自分に強いること、手持ち無沙汰に耐える機会を作ることには、大きな効用がある。「なすべきこと」を「何となく」やりたくないときには、暇つぶしの時間を排除することは、1つの有効な手段であるように思われる。


luke-porter-92450

酒とスマホと、どちらが有害か

 携帯電話、タブレット型端末、ゲーム機などのデジタル機器を未成年に持たせるべきではないと私は考えている。未成年にとって、このようなデジタル機器は有害だからである。未成年に酒や煙草が禁じられているのと同じ理由で、このような機器も禁止すべきなのである。

 飲酒や喫煙は、健康を損ねるおそれがあるという理由で、未成年には認められていない。大人になり、自分の健康を自分で管理することのできる(ということになっている)年齢に達してから、自分の責任において酒や煙草を手に入れればよいのである。

 実際、酒と煙草に関する規制は、社会において広く受け容れられているはずである。少なくとも、未成年の飲酒と喫煙を禁じる法的な規制に対する露骨な異議申し立てというものを私は知らない。たしかに、次のような主張がまったく見出されないわけではない。

酒や煙草の依存症が生まれるのは、成人に達するまでこれらにアクセスできず、酒や煙草に対する幻想を抱くからである、したがって、子どものころから酒や煙草に慣れさ、酒や煙草との正しい付き合い方を覚えさせれば、酒や煙草について余計な幻想を持たずに済むから、大人になってから酒や煙草に溺れて健康を損ねるリスクを減らすことができる。

 しかし、多くの日本人は、このような主張を極端な少数意見、考慮するに値しない意見と見なすであろうし、実際、そのとおりであろう。

 ところが、デジタル機器については、事情は正反対である。デジタル機器、特にインターネットに接続可能なものについては、これらが依存症を惹き起こすことが20年以上前から実験や観察によって繰り返し確認され、この事実が社会において広く共有されているにもかかわらず、したがって、未成年の精神的、身体的な健康を脅かすことが明らかであるにもかかわらず、未成年のデジタル機器の使用を法律によって規制すべきであるという声は驚くほど小さい。(少なくとも、私自身は耳にしたことがない。)

 デジタル機器の使用を法律によって規制すべきであるという主張を耳にすると、多くの人は、次のように反論するであろう。

現代社会では、デジタル機器を使いこなすことができなければ生産的な活動に従事することができない。デジタル機器に早くから慣れさせ、ネットとの正しい付き合い方を覚えさせれば、デジタルやネットについて余計な幻想を持たずに済むから、デジタル・デバイドになったり情報弱者になったりネット中毒になったりするリスクを減らすことができる。

 驚くべきことに、これは、子どものころから酒や煙草に親しむことを推奨する上記の極論と同じ論法であるにもかかわらず、多くの日本人がこれを受け容れている。これは、実に不思議なことである。

未成年のデジタル機器の使い方は「子ども英語」と同じ

 もちろん、子どものころからデジタル機器に親しんでいれば、現代社会において生産的な活動に従事することができるのという相関関係が明瞭であり、大きなメリットがあるのなら、未成年のデジタル機器には少なからぬ危険があるとしても、いわば「ホメオパシー」のようなものとして、デジタル機器を子どもに使わせることは、現実的な選択となりうる。しかし、もちろん、子どもにデジタル機器を持たせてもよいのは、この相関関係を確認することができるかぎりにおいてである。

 それでは、子どものころからネットに接続した機器を使っていれば、社会に出たときに、これを使いこなして生産的な活動に従事することができるようになるのであろうか。両者のあいだに相関関係を認めることができるのであろうか。もちろん、私たちがよく知る事実が示しているように、この問いに対する答えは「否」である。

 スマートフォンやタブレット型端末を自由自在に使いこなしている(ように見える)若者でも、就職してから、パソコンによるデータの処理、資料の作成、メールの送受信などの基本的かつ初歩的な作業すらできないことが少なくない。そもそも、そのため、30歳以上年長の、社会人になって初めてパソコンに触れたような世代から「情弱(=情報弱者)」などと呼ばれているのである。

情報の「捨て方」 知的生産、私の方法

 上の本において、著者の成毛眞氏は、若者の大半がデジタル機器を使いこなすことができない情報弱者であるという意味のことを語っているけれども、これは、私の印象に合致するばかりではなく、私の世代のサラリーマンの多くが日々実感していることでもあるに違いない。実際、次のような記事をネットで見ることができる。

日本の学生のパソコンスキルは、先進国で最低レベル

NEWSポストセブン|パソコンを使えない新入社員増 スマホネイティブの弊害│

「PCを使えない学生が急増」の問題点 (1/5)

 ただ、少し冷静に考えてみれば、デジタル機器に早くから親しむことと、大人になってからの生産性とのあいだには何の関係もないことは、実験や観察によらなくても、誰にでもわかるはずである。というのも、社会に出る以前の(大学生を含む)子どもが日常生活おいて必要とするデジタル機器のスキルは、社会に出てから要求されるスキルとはまったく異なるからである。スマホをダラダラといじったりゲームに興じたりしていても、生産性を向上させるためのスキルが身につくわけではないのである。

 子どものころに英語圏で何年か生活し、表面的には英語がペラペラに喋ることができるように見える大人がいる。しかし、このようないわゆる「帰国生」(最近は「帰国子女」と呼ばれなくなっている)の英語は、ネイティヴ・スピーカーからは必ずしも評価されない。なぜなら、子どものときに現地で習得した英語というのは、基本的に「子ども英語」だからである。帰国生が現地で身につけてきた英語は、子どものあいだでの会話に最適化された英語であり、大人の耳には、舌足らずで幼稚で乱暴な英語と響く。帰国生であるとしても、英語力のアップデートを普段から心がけ、「大人英語」を身につけないと、ある程度以上フォーマルな場面で通用する英語にはならないのである。

 デジタル機器の使用についても、事情は同じである。大人として社会に出たときにデジタル機器を使いこなして生産的な活動に従事することができるかどうかは、大人の社会に最適化されたデジタル・スキルを身につけたかどうかによってのみ決まるのであって、子どものときからデジタル機器に親しんでいることは、子供の将来にとって何の役にも立たない。それどころか、スマホやゲームによって貴重な時間が奪われているにすぎず、この意味では、子どもにデジタル機器を持たせるなど、害しかないように私には思われる。


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

NoPhone

 今日のウォールストリート・ジャーナルに、次のような記事が載っているのを見つけ、少し興奮した。
何もないスマホ「ノーフォン」に秘められた機能とは

 ここで取り上げられているのは、NoPhoneと呼ばれる「スマートフォン」である。下の公式ウェブサイトにあるように、この電話機には、何の機能もない。(だから、ある意味では、スマートフォンサイズの黒いプラスチックの函にすぎないとも言える。)価格は10ドルである。カップルで「使う」場合を想定し、2個なら18ドルとなる。「ファミリープラン」と名づけられた5個のセットは45ドルである。また、画面の部分が鏡になった”NoPhone SELFIE”も販売されており、これは18ドルである。

 さらに、最近は、”NoPhone Air”なる「新型」が発表された。これは、NoPhoneから筐体を取り除いたものであり、単なる空気である。(だから、包装のパッケージだけが販売される。)まだ販売は始まっていないが、1個3ドルのようである。

The Official NoPhone Store

 私は、以前から、スマートフォンが有害であると考えてきた。

24時間「デジタル断食」のすすめ 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

デジタル断食してみた 今年に入ってから、「デジタル断食」を何回か自宅で実行した。期間は、1回につき24時間であった。 デジタル断食またはデジタル・デトックス(digital detox) は、インターネット接続を完全に遮断した状態で時間を過ごすことを意味する。ネットによって



スマホを手放せない人間は障碍者だと思って今後は同情することにした : アド・ホックな倫理学

他人との交流の多くがネットで行われる中、あえてSNSを利用しないティーンがいる。友達からの「いいね」を求める生活を拒否し、フェイスブックやインスタグラムも利用しないが、彼らは何を得て何を失っているのだろうか。情報源: 米国ではSNSに背を向ける10代も - WSJ


 日常的にスマートフォンを使わざるをえないのなら、せめて1週間のうち連続した24時間、デジタル機器の電源を完全に落とすべきであり、パソコンでも用が足りるなら、スマートフォンなど最初から持つべきではないというのが私の意見である。ウォールストリート・ジャーナルの記事を俟つまでもなく、スマートフォンが社会の健全性を損ねていることは明らかだからである。

 もちろん、これはラッダイト運動ではない。私が理想とするのは、すべてのデジタル機器を社会から追放し、100年前の世界へと戻ることではなく、どのような場面でつながり、どのような場面でつながらないか、これをコントロールする本能と権限が私たち一人ひとりの手に戻ってくることである。そのためには、スマートフォンのどれになって、ゲーム、SNS、ニュースなどを餌に分別を奪われ、そして、時間とエネルギーと健康を吸い取られて行くことに断固として抵抗し、自己支配を目指すことが必要となる。

 NoPhoneの企画は、単なる冗談ではない。デジタル機器とインターネットに縛りつけられた、あるいは、デジタル機器に対する依存症に陥った私たちの生活のあり方に対する危機感の反映なのである。NoPhoneは、このような危機感の記号として受け止められているからこそ、すでに1万個以上が製造、販売されていると考えるのが自然である。

 スマートフォンをどうしてもいじりたくなったときには、このNoPhoneを手にすると、スマートフォンを使って何をしようとしているのか、冷静になって考えることができるはずである。これがNoPhoneのただ1つの、そして、本当の機能であるに違いない。







withdrawal

スマートフォンを手放して禁断症状が起きた

 私は、2011年春から2013年春まで2年間スマートフォンを使っていた。その後、2015年秋までの2年半、フィーチャーフォン(=「ガラパゴス携帯」)に戻し、2015年秋からふたたびスマートフォンを使い始めた。スマートフォンに戻ってかちょうど1年になる。

 以前にデジタル断食について書いたことに関連して、私の個人的な体験を記しておきたい。

24時間「デジタル断食」のすすめ 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

デジタル断食してみた 今年に入ってから、「デジタル断食」を何回か自宅で実行した。期間は、1回につき24時間であった。 デジタル断食またはデジタル・デトックス(digital detox) は、インターネット接続を完全に遮断した状態で時間を過ごすことを意味する。ネットによって


 2013年春、2年間の契約期間が終わりかけたとき、このままスマートフォンを使い続けるか、それとも、ここで使うのをやめるか、しばらく考え、そして、解約することに決めた。こま切れの時間ではあるとしても、スマートフォンを朝から晩まで繰り返し手に持っていじっており、その時間の合計がバカにならない量になっていたからである。このままでは依存症になるのではないかという危機感が私にはあった。ともかくも、スマートフォンとの縁を「物理的」な仕方で断ち切り、これが私の生活に本当に必要なものなのかどうか、「スマホのない生活」を送ることで検討してみようと考えた。これは、少なくとも当時の私にとっては、一大決心だった。

 しかし、スマートフォンを手放した直後から、禁断症状が始まった。

 それまでの2年間に、生活のいろいろなタイミングでスマートフォンの画面を眺めるのがルーチンになっていた。たとえば電車に乗り、座席に坐ったとき、職場に到着したとき、就寝の前など、天気やニュースやメッセージを反射的に確認していた。手が空くと、すぐにスマートフォンを見る癖がついていたのである。

 また、記録しておくべきことは、すべてEvernoteに入力していた。だから、買いもののメモもEvernoteであらかじめ作っておき、出先ではこれを見ながら用事を済ませていた。何かの不具合によってEvernoteが見られなくなったときには、どうしてよいかわからず、路上で途方に暮れたこともある。

 日常にこれだけ深く入り込んでいたスマートフォンと縁を切ったのであるから、禁断症状が起きるのは必然であった。いつもならスマートフォンを手に取るタイミングで肝心のスマートフォンがないと、しばらくのあいだ、他のことを何も考えられなくなる。また、Evernoteをメモ帳代わりに使うわけには行かなくなったから、外で必要になる情報はすべて、紙のメモ帳に書いておかなければならない。(パソコンからEvernoteに入力し、メールで送ることを試みたが、手間が煩わしく、続かなかった。)また、スマートフォンを使っていたあいだに、「ライフログ」などと称して何から何まで写真で記録する悪い癖がついてしまったらしく、外出先で何かを見かけると、すぐにカメラを向けてシャッターを切ろうとする。本当に記録するに値するものは何かを考え、最低限を紙のメモ帳で記録することができなくなっていたのである。

スマートフォンを使わないことによる解放感を味わう

 禁断症状は、解約してからおよそ2ヶ月続いた。最初のうちは、スマートフォンを持っていたらするはずのことが実行できず、イライラしたり、うわのそらになったりすることが多かったが、これが少しずつ減って行き、季節が変わるころには、禁断症状はほぼ収まった。生活のそれぞれのタイミングでスマートフォンを持っていたらしていたはずのことを思い出すことも少なくなって行った。2ヶ月かかって新しい行動のルーチンが出来上がり、スマートフォンを手放したことによって空いた穴が埋められたのである。

 もっとも気持ちがよかったのは、スマートフォンを解約してから2ヶ月経ったころには、「携帯電話を手に取ることが必要なタイミングなのかどうか」の見きわめができるようになり、手持ち無沙汰であるというだけの理由で何となく携帯電話をいじることがなくなった点である。自分の時間を自分でコントロールできるようになったことにより、私は、解放感を味わった。スマートフォンを経由してけじめなく流れ込んできた情報を自分でコントロールできるようなり、心の平穏が乱されることも少なくなった。

 当然、スマートフォンで絶えずつながっていなければ維持できないような人間関係も、スマートフォンと一緒に手放した。そのような人間関係は、自己支配を妨げる雑音にすぎないことに気づいたからである。これもまた、スマートフォンを使うのをやめた成果であった。(なお、私は、携帯電話の機種変更のたびに、連絡先を自動で移行させず、手で一つひとつ必要に応じてその都度入力し直すことにしている。機種変更から1年間経って新しい電話機に登録されなかった相手は、私にとって不要な存在であると判断することができるからである。)

スマートフォンをふたたび使い始めても、使用時間は増えなかった

 昨年の秋、2年半ぶりに機種変更し、スマートフォンをふたたび使い始めた。最初は、空いた時間にスマートフォンをいじり続けることになるのではないかと怖れていたが、幸いなことに、それから1年が経っても、「能動的に使用する」必要がある場合を除き、スマートフォンを手に取ることはなくなった。スマートフォンを手に持っている時間は、1日平均3分くらいではないかと思う。(このうち約2分は、電話として使っている時間である。)

 スマートフォンを手に取る必然性は何もないが、時間が空いているから何となくダラダラと画面を眺めている、スマートフォンを物理的に手放さなければ、このような時間を生活から追放するのは不可能であったに違いない。スマートフォンを一度は解約し、時間の遣い方を見つめなおすことは、生活の改善にきわめて有効であると私は考えている。スマートフォンに固有の機能を業務で使わなければならないのでなければ、スマートフォンを手放しても何ら不都合はないはずである。


↑このページのトップヘ