AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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酒とスマホと、どちらが有害か

 携帯電話、タブレット型端末、ゲーム機などのデジタル機器を未成年に持たせるべきではないと私は考えている。未成年にとって、このようなデジタル機器は有害だからである。未成年に酒や煙草が禁じられているのと同じ理由で、このような機器も禁止すべきなのである。

 飲酒や喫煙は、健康を損ねるおそれがあるという理由で、未成年には認められていない。大人になり、自分の健康を自分で管理することのできる(ということになっている)年齢に達してから、自分の責任において酒や煙草を手に入れればよいのである。

 実際、酒と煙草に関する規制は、社会において広く受け容れられているはずである。少なくとも、未成年の飲酒と喫煙を禁じる法的な規制に対する露骨な異議申し立てというものを私は知らない。たしかに、次のような主張がまったく見出されないわけではない。

酒や煙草の依存症が生まれるのは、成人に達するまでこれらにアクセスできず、酒や煙草に対する幻想を抱くからである、したがって、子どものころから酒や煙草に慣れさ、酒や煙草との正しい付き合い方を覚えさせれば、酒や煙草について余計な幻想を持たずに済むから、大人になってから酒や煙草に溺れて健康を損ねるリスクを減らすことができる。

 しかし、多くの日本人は、このような主張を極端な少数意見、考慮するに値しない意見と見なすであろうし、実際、そのとおりであろう。

 ところが、デジタル機器については、事情は正反対である。デジタル機器、特にインターネットに接続可能なものについては、これらが依存症を惹き起こすことが20年以上前から実験や観察によって繰り返し確認され、この事実が社会において広く共有されているにもかかわらず、したがって、未成年の精神的、身体的な健康を脅かすことが明らかであるにもかかわらず、未成年のデジタル機器の使用を法律によって規制すべきであるという声は驚くほど小さい。(少なくとも、私自身は耳にしたことがない。)

 デジタル機器の使用を法律によって規制すべきであるという主張を耳にすると、多くの人は、次のように反論するであろう。

現代社会では、デジタル機器を使いこなすことができなければ生産的な活動に従事することができない。デジタル機器に早くから慣れさせ、ネットとの正しい付き合い方を覚えさせれば、デジタルやネットについて余計な幻想を持たずに済むから、デジタル・デバイドになったり情報弱者になったりネット中毒になったりするリスクを減らすことができる。

 驚くべきことに、これは、子どものころから酒や煙草に親しむことを推奨する上記の極論と同じ論法であるにもかかわらず、多くの日本人がこれを受け容れている。これは、実に不思議なことである。

未成年のデジタル機器の使い方は「子ども英語」と同じ

 もちろん、子どものころからデジタル機器に親しんでいれば、現代社会において生産的な活動に従事することができるのという相関関係が明瞭であり、大きなメリットがあるのなら、未成年のデジタル機器には少なからぬ危険があるとしても、いわば「ホメオパシー」のようなものとして、デジタル機器を子どもに使わせることは、現実的な選択となりうる。しかし、もちろん、子どもにデジタル機器を持たせてもよいのは、この相関関係を確認することができるかぎりにおいてである。

 それでは、子どものころからネットに接続した機器を使っていれば、社会に出たときに、これを使いこなして生産的な活動に従事することができるようになるのであろうか。両者のあいだに相関関係を認めることができるのであろうか。もちろん、私たちがよく知る事実が示しているように、この問いに対する答えは「否」である。

 スマートフォンやタブレット型端末を自由自在に使いこなしている(ように見える)若者でも、就職してから、パソコンによるデータの処理、資料の作成、メールの送受信などの基本的かつ初歩的な作業すらできないことが少なくない。そもそも、そのため、30歳以上年長の、社会人になって初めてパソコンに触れたような世代から「情弱(=情報弱者)」などと呼ばれているのである。

情報の「捨て方」 知的生産、私の方法

 上の本において、著者の成毛眞氏は、若者の大半がデジタル機器を使いこなすことができない情報弱者であるという意味のことを語っているけれども、これは、私の印象に合致するばかりではなく、私の世代のサラリーマンの多くが日々実感していることでもあるに違いない。実際、次のような記事をネットで見ることができる。

日本の学生のパソコンスキルは、先進国で最低レベル

NEWSポストセブン|パソコンを使えない新入社員増 スマホネイティブの弊害│

「PCを使えない学生が急増」の問題点 (1/5)

 ただ、少し冷静に考えてみれば、デジタル機器に早くから親しむことと、大人になってからの生産性とのあいだには何の関係もないことは、実験や観察によらなくても、誰にでもわかるはずである。というのも、社会に出る以前の(大学生を含む)子どもが日常生活おいて必要とするデジタル機器のスキルは、社会に出てから要求されるスキルとはまったく異なるからである。スマホをダラダラといじったりゲームに興じたりしていても、生産性を向上させるためのスキルが身につくわけではないのである。

 子どものころに英語圏で何年か生活し、表面的には英語がペラペラに喋ることができるように見える大人がいる。しかし、このようないわゆる「帰国生」(最近は「帰国子女」と呼ばれなくなっている)の英語は、ネイティヴ・スピーカーからは必ずしも評価されない。なぜなら、子どものときに現地で習得した英語というのは、基本的に「子ども英語」だからである。帰国生が現地で身につけてきた英語は、子どものあいだでの会話に最適化された英語であり、大人の耳には、舌足らずで幼稚で乱暴な英語と響く。帰国生であるとしても、英語力のアップデートを普段から心がけ、「大人英語」を身につけないと、ある程度以上フォーマルな場面で通用する英語にはならないのである。

 デジタル機器の使用についても、事情は同じである。大人として社会に出たときにデジタル機器を使いこなして生産的な活動に従事することができるかどうかは、大人の社会に最適化されたデジタル・スキルを身につけたかどうかによってのみ決まるのであって、子どものときからデジタル機器に親しんでいることは、子供の将来にとって何の役にも立たない。それどころか、スマホやゲームによって貴重な時間が奪われているにすぎず、この意味では、子どもにデジタル機器を持たせるなど、害しかないように私には思われる。


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 上手く行かないことが一日のうちに続けざまに起こることがある。予定していた会合が急にキャンセルになったり、書類にミスが見つかったり、仕事上の関係者の不手際のせいで面倒な雑用が急に飛び込んできたり……。このようなとき、その日にするはずだったことが片づかないばかりではなく、何となく消耗して意気阻喪し、生産的な仕事に着手する気が失せることがある。また、このような気分をおして無理に何かを片づけようとすると、新たなミスが発生するのではないかという気がかりに襲われ、ミスを避けることに注意がさらに奪われて消耗することになる。

 このような悪循環が生れる原因の1つがオーバーワークにあることは確かであり、このような場合、仕事量を減らし、自分の目の前のスペースを片づけるだけで、生活に秩序が戻ることは少なくない。

時間に余裕がなければ、目をつぶって深呼吸する

 しかし、「今日は何もかも上手く行かない」と思ったら、ほんの少しでもよい、仕事の手(あるいは足)を止めて、別のことをすべきである。私自身は、仕事に余裕がないときには、目をつぶって2分か3分のあいだゆっくり深呼吸する。思い切り深呼吸しながら呼吸の数を数えていると、少なくともそのあいだは、注意が数えることに完全に奪われるから、今日の上手く行かなかったことを考えずに済ませることができる。もちろん、深呼吸しても、問題の根源がどこにあるのかわかるとはかぎらないけれども、それでも、少しだけ問題から距離をとって落ち着くことができるに違いない。

 上手く行かないことが続き、これに注意を奪われていると、呼吸が浅くなる。深呼吸に効果があるのは、身体が酸素不足の状態になっているからであるのかも知れない。ただ、私はこの点について詳しい知識を持っているわけではないから、断定的なことは言えない。

少し時間があるなら、軽い筋トレを

 30分くらいなら時間をとることができるとき、私は、仕事を中断し、軽い筋トレをすることにしている。筋トレのメリットは、深呼吸と同じである。つまり、自分の身体に負荷をかけるときには、身体に注意を否応なく集中させるから、今日の自分の不運など考えている余裕はなくなるのである。

 同じ運動と言っても、ジョギングやウォーキングのような有酸素運動は、他のことを考えながらでも続けることが可能である。だから、「今日は上手く行かない」という気分は、有酸素運動では解消することができない。スポーツジムに行くなら、トレッドミルの上を歩くのではなく、マシンやフリーウェイトを使った筋トレをすべきであろう。また、その方が、ダイエットにとってもまたはるかに効果的である。

 私は、下の本の著者のように筋トレがすべての問題を解決するとは思わないけれども、それでも、筋トレが精神衛生に与える影響は、もう少し認められてもよいとひそかに考えている。

筋トレが最強のソリューションである マッチョ社長が教える究極の悩み解決法

スマホをいじったり、テレビを観たりするのは逆効果

 なお、深呼吸や筋トレとは異なり、スマホをいじったり、テレビを観たりすることには、仕事を中断して気分と態勢を立て直す効果はなく、むしろ、私の個人的な経験では、これは逆効果である。たしかに、スマホやテレビの画面に注意を向ければ、そのあいだは、自分のことを考えずに済む。しかし、スマホやテレビは、深呼吸や筋トレのように「頭の中をカラにする」のではなく――非科学的な言い方になるが――別の気がかりや別の情報によって頭を満たしてしまう。だから、中断した仕事に戻ろうと思っても、頭の中に霞がかかったような状態になり、生産性はむしろ損なわれるように思われる。


Vintage Flip Cell Phone

デジタル機器の交替に乗り遅れると

 携帯電話について、今でも忘れられない光景がある。

 私が携帯電話を初めて手に入れたのは、1998年夏である。ちょうどそのころ、秋葉原の電気街で、ある店に入ってフラフラと歩いていたとき、私は、かなり高齢の女性が修理受付のカウンターの前で小型の縦長の弁当箱くらいの大きさの灰色の機械を鞄から取り出し、修理可能かどうか店員に尋ねているのを見かけた。その機械が何であるのか、携帯電話を買った直後の私にはすぐに見当がついた。それは、1990年代前半に発売された携帯電話の端末であった。

 1998年ごろというのは、携帯電話の小型化と多機能化が急速に進んだ時代であり、私にとっての最初の携帯電話は、体積の点でも重量の点でも、私が現在使っているスマートフォンの半分くらいしかなかった。それだけに、高齢の女性客が鞄から取り出した弁当箱大の端末は、いかにも「事務機器」風であり、発売から10年も経っていないにもかかわらず、化石のような印象を与えた。私自身が小型の携帯電話を手に入れた直後だったからなのかも知れない。

 女性に応対した店員は、「残念ながら、その端末はすでに製造中止になっており、部品も調達できない」という意味のことを説明し、最新の小型のものへの買い替えをすすめていた。しかし、女性は、持参した端末を鞄にしまい、沈んだ表情でそのまま店から出て行った。

 私は、この光景を見て、デジタル機器には、適当な移行の時期というものがあるらしいことを悟った。(「イノベーター」や「アーリー・アダプター」となり、新しい流れに早めに乗るのはかまわないとしても、)ある時代に社会に広く普及したデジタル機器をあまりにもながいあいだ使い続けていると、新しいタイプの機器が登場して普及し、社会のインフラになって行くとき、これを使いこなせず、社会の動きから取り残されてしまう危険があるのである。

 私の家族の1人は、ワープロ専用機をごく初期から使っていたが、そのために、パソコンの普及から完全に取り残されてしまった。1990年代後半以降、ワープロ専用機の製造が中止になり、修理のための部品を手に入れることも困難になって行く中で、ワープロ専用機をあえて使い続けることは、「次に故障したら2度と使えなくなるのではないか」という恐怖との絶えざる闘いのように見えた。21世紀に入ってからもワープロ専用機を使い続けていたせいで、周囲とのコミュニケーションに非常に大きな支障をきたしたことは、誰でも想像することができるであろう。

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 私自身は、ワープロ専用機を1997年に処分し、パソコンを初めて購入した。これは、現在まで続くパソコン中心の社会の動きに辛うじて乗り遅れずに済むタイミングとしてはギリギリであったに違いない。

「あいのこ」が出てきたら、新しい機器に乗り換えるべきとき

 大体において、デジタル機器の交替は、「あいのこ」が登場したときが潮目であると言ってよい。パソコンがワープロ専用機を駆逐する過程において登場したのは、見かけを可能なかぎりワープロに似せたパソコンであった。「ワープロライクなパソコン」を必要とする階層が現われたときには、もはやワープロ専用機の命脈は尽きたと考えるのが自然である。

 同じように、「ガラホ」なるものもまた、フィーチャーフォンが消滅に向かうことのサインとして受け止めるべきなのであろう。「ガラケーライクなスマホ」を必要とするのは、イノベーター理論が「ラガード」(のろま)に分類する最後尾の階層のはずだからである。

 私は、個人的にはスマートフォンが嫌いである。しかし、これからしばらくのあいだ市場に流通する「ガラホ」は、とどまることなく畸形化し、やがて、知らぬ間に姿を消す運命にある。スマートフォンの次に何が現われるのか、私などには予想もつかないけれども、当面は、スマートフォンが社会において支配的なデジタル機器の1つであり続けることは確かであり、私たちは、これに耐えることを学ばなければならないのであろう。

 そう言えば、2005年から11年までアメリカで放映されていたテレビドラマ「ミディアム 霊能捜査官アリソン・デュボア」では、いわゆるNokia Tuneと呼ばれる独特の着信音が繰り返し流れる。

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The Nokia Tune: Grande Valse

 ドラマが放映されていたころには、ノキアがアメリカの携帯電話市場で大きなシェアを占めていたから、Nokia Tuneが何であるか、誰もが知っていたのであろう。しかし、今から10年後にこのテレビドラマを初めて観る者には、なぜこの着信音なのか、特別な説明が必要となるに違いない。


NoPhone

 今日のウォールストリート・ジャーナルに、次のような記事が載っているのを見つけ、少し興奮した。
何もないスマホ「ノーフォン」に秘められた機能とは

 ここで取り上げられているのは、NoPhoneと呼ばれる「スマートフォン」である。下の公式ウェブサイトにあるように、この電話機には、何の機能もない。(だから、ある意味では、スマートフォンサイズの黒いプラスチックの函にすぎないとも言える。)価格は10ドルである。カップルで「使う」場合を想定し、2個なら18ドルとなる。「ファミリープラン」と名づけられた5個のセットは45ドルである。また、画面の部分が鏡になった”NoPhone SELFIE”も販売されており、これは18ドルである。

 さらに、最近は、”NoPhone Air”なる「新型」が発表された。これは、NoPhoneから筐体を取り除いたものであり、単なる空気である。(だから、包装のパッケージだけが販売される。)まだ販売は始まっていないが、1個3ドルのようである。

The Official NoPhone Store

 私は、以前から、スマートフォンが有害であると考えてきた。

24時間「デジタル断食」のすすめ 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

デジタル断食してみた 今年に入ってから、「デジタル断食」を何回か自宅で実行した。期間は、1回につき24時間であった。 デジタル断食またはデジタル・デトックス(digital detox) は、インターネット接続を完全に遮断した状態で時間を過ごすことを意味する。ネットによって



スマホを手放せない人間は障碍者だと思って今後は同情することにした : アド・ホックな倫理学

他人との交流の多くがネットで行われる中、あえてSNSを利用しないティーンがいる。友達からの「いいね」を求める生活を拒否し、フェイスブックやインスタグラムも利用しないが、彼らは何を得て何を失っているのだろうか。情報源: 米国ではSNSに背を向ける10代も - WSJ


 日常的にスマートフォンを使わざるをえないのなら、せめて1週間のうち連続した24時間、デジタル機器の電源を完全に落とすべきであり、パソコンでも用が足りるなら、スマートフォンなど最初から持つべきではないというのが私の意見である。ウォールストリート・ジャーナルの記事を俟つまでもなく、スマートフォンが社会の健全性を損ねていることは明らかだからである。

 もちろん、これはラッダイト運動ではない。私が理想とするのは、すべてのデジタル機器を社会から追放し、100年前の世界へと戻ることではなく、どのような場面でつながり、どのような場面でつながらないか、これをコントロールする本能と権限が私たち一人ひとりの手に戻ってくることである。そのためには、スマートフォンのどれになって、ゲーム、SNS、ニュースなどを餌に分別を奪われ、そして、時間とエネルギーと健康を吸い取られて行くことに断固として抵抗し、自己支配を目指すことが必要となる。

 NoPhoneの企画は、単なる冗談ではない。デジタル機器とインターネットに縛りつけられた、あるいは、デジタル機器に対する依存症に陥った私たちの生活のあり方に対する危機感の反映なのである。NoPhoneは、このような危機感の記号として受け止められているからこそ、すでに1万個以上が製造、販売されていると考えるのが自然である。

 スマートフォンをどうしてもいじりたくなったときには、このNoPhoneを手にすると、スマートフォンを使って何をしようとしているのか、冷静になって考えることができるはずである。これがNoPhoneのただ1つの、そして、本当の機能であるに違いない。







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スマートフォンを手放して禁断症状が起きた

 私は、2011年春から2013年春まで2年間スマートフォンを使っていた。その後、2015年秋までの2年半、フィーチャーフォン(=「ガラパゴス携帯」)に戻し、2015年秋からふたたびスマートフォンを使い始めた。スマートフォンに戻ってかちょうど1年になる。

 以前にデジタル断食について書いたことに関連して、私の個人的な体験を記しておきたい。

24時間「デジタル断食」のすすめ 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

デジタル断食してみた 今年に入ってから、「デジタル断食」を何回か自宅で実行した。期間は、1回につき24時間であった。 デジタル断食またはデジタル・デトックス(digital detox) は、インターネット接続を完全に遮断した状態で時間を過ごすことを意味する。ネットによって


 2013年春、2年間の契約期間が終わりかけたとき、このままスマートフォンを使い続けるか、それとも、ここで使うのをやめるか、しばらく考え、そして、解約することに決めた。こま切れの時間ではあるとしても、スマートフォンを朝から晩まで繰り返し手に持っていじっており、その時間の合計がバカにならない量になっていたからである。このままでは依存症になるのではないかという危機感が私にはあった。ともかくも、スマートフォンとの縁を「物理的」な仕方で断ち切り、これが私の生活に本当に必要なものなのかどうか、「スマホのない生活」を送ることで検討してみようと考えた。これは、少なくとも当時の私にとっては、一大決心だった。

 しかし、スマートフォンを手放した直後から、禁断症状が始まった。

 それまでの2年間に、生活のいろいろなタイミングでスマートフォンの画面を眺めるのがルーチンになっていた。たとえば電車に乗り、座席に坐ったとき、職場に到着したとき、就寝の前など、天気やニュースやメッセージを反射的に確認していた。手が空くと、すぐにスマートフォンを見る癖がついていたのである。

 また、記録しておくべきことは、すべてEvernoteに入力していた。だから、買いもののメモもEvernoteであらかじめ作っておき、出先ではこれを見ながら用事を済ませていた。何かの不具合によってEvernoteが見られなくなったときには、どうしてよいかわからず、路上で途方に暮れたこともある。

 日常にこれだけ深く入り込んでいたスマートフォンと縁を切ったのであるから、禁断症状が起きるのは必然であった。いつもならスマートフォンを手に取るタイミングで肝心のスマートフォンがないと、しばらくのあいだ、他のことを何も考えられなくなる。また、Evernoteをメモ帳代わりに使うわけには行かなくなったから、外で必要になる情報はすべて、紙のメモ帳に書いておかなければならない。(パソコンからEvernoteに入力し、メールで送ることを試みたが、手間が煩わしく、続かなかった。)また、スマートフォンを使っていたあいだに、「ライフログ」などと称して何から何まで写真で記録する悪い癖がついてしまったらしく、外出先で何かを見かけると、すぐにカメラを向けてシャッターを切ろうとする。本当に記録するに値するものは何かを考え、最低限を紙のメモ帳で記録することができなくなっていたのである。

スマートフォンを使わないことによる解放感を味わう

 禁断症状は、解約してからおよそ2ヶ月続いた。最初のうちは、スマートフォンを持っていたらするはずのことが実行できず、イライラしたり、うわのそらになったりすることが多かったが、これが少しずつ減って行き、季節が変わるころには、禁断症状はほぼ収まった。生活のそれぞれのタイミングでスマートフォンを持っていたらしていたはずのことを思い出すことも少なくなって行った。2ヶ月かかって新しい行動のルーチンが出来上がり、スマートフォンを手放したことによって空いた穴が埋められたのである。

 もっとも気持ちがよかったのは、スマートフォンを解約してから2ヶ月経ったころには、「携帯電話を手に取ることが必要なタイミングなのかどうか」の見きわめができるようになり、手持ち無沙汰であるというだけの理由で何となく携帯電話をいじることがなくなった点である。自分の時間を自分でコントロールできるようになったことにより、私は、解放感を味わった。スマートフォンを経由してけじめなく流れ込んできた情報を自分でコントロールできるようなり、心の平穏が乱されることも少なくなった。

 当然、スマートフォンで絶えずつながっていなければ維持できないような人間関係も、スマートフォンと一緒に手放した。そのような人間関係は、自己支配を妨げる雑音にすぎないことに気づいたからである。これもまた、スマートフォンを使うのをやめた成果であった。(なお、私は、携帯電話の機種変更のたびに、連絡先を自動で移行させず、手で一つひとつ必要に応じてその都度入力し直すことにしている。機種変更から1年間経って新しい電話機に登録されなかった相手は、私にとって不要な存在であると判断することができるからである。)

スマートフォンをふたたび使い始めても、使用時間は増えなかった

 昨年の秋、2年半ぶりに機種変更し、スマートフォンをふたたび使い始めた。最初は、空いた時間にスマートフォンをいじり続けることになるのではないかと怖れていたが、幸いなことに、それから1年が経っても、「能動的に使用する」必要がある場合を除き、スマートフォンを手に取ることはなくなった。スマートフォンを手に持っている時間は、1日平均3分くらいではないかと思う。(このうち約2分は、電話として使っている時間である。)

 スマートフォンを手に取る必然性は何もないが、時間が空いているから何となくダラダラと画面を眺めている、スマートフォンを物理的に手放さなければ、このような時間を生活から追放するのは不可能であったに違いない。スマートフォンを一度は解約し、時間の遣い方を見つめなおすことは、生活の改善にきわめて有効であると私は考えている。スマートフォンに固有の機能を業務で使わなければならないのでなければ、スマートフォンを手放しても何ら不都合はないはずである。


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