AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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2ボタンのスーツでは、第1ボタンのみを留めるのが普通

 平日の街を歩いていると、スーツ姿の男性のサラリーマンを大量に見かける。これらのサラリーマンの半分以上は、いわゆる「シングル」のスーツを着ており、さらに、その大半は、「2ボタン」のスーツを着ている。そして、「2ボタン」のスーツを着ているサラリーマンのうち95%以上は、第1ボタンのみを留めているか、あるいは、ボタンを留めていないかのいずれかである。

 シングルの2ボタンのスーツでは、第1ボタンのみを留めるのが一般的であり、場面によってはボタンを留めないことも許容される。(あらたまった場面、たとえば賞状を受け取るようなときには、ボタンは留める方がよい。)これは、私などが言うまでもなく、スーツを着るときの基本的なルールとしてよく知られていることである。スーツを初めて買ったり作ったりするとき、店で教えてくれることが多いはずであるし、店で教えてもらう機会がなくても、スーツの着こなしに少しでも興味があるなら、これがもっとも基本的なルールであることはすぐにわかるに違いない。

 実際、2ボタンのスーツの第2ボタンは、事実上の飾りであり、大抵の場合、留められないことを前提に仕立てられている。2つのボタンを無理に留めると、生地が前方に集まり、裾のベントが開いてしまうはずである。

2ボタンのスーツの両方のボタンを留めるサラリーマン

 ところが、ごくまれに、2ボタンのスーツの両方のボタンを留めているサラリーマンを街で見かけることがある。調べたわけではないけれども、サラリーマンの100人に1人くらいは、ジャケットのボタンを上下とも留めて街を歩いているように思われる。

 もちろん、下で述べるように、ジャケットのボタンを2つとも留めることがそれ自体として禁じられているわけではないが、第1ボタンのみを留めることが事実上のルールになっている状況のもとでは、ボタンを2つ留めたサラリーマンは非常に目立つ。このようなサラリーマンは、2ボタンのスーツでは留めるのは第1ボタンだけであることをどこでも教えられなかったのであろう。このサラリーマンがボタンを2つ留めていることから、彼の父親もまた、ボタンを2つとも留めていたこと、あるいは、父親がスーツを身につける職業に就いていなかったことを想像することができる。

 私自身、あまり偉そうなことは言えないけれども、スーツをどのように着るか、とか、スーツと靴をどのように合わせるか、とか、このようなごく基本的なことは、家族から教わって習得するものであるように思われる。男性の場合、何をどのように着ているかにより、その人がどのような環境で生活してきたのか、何となくわかる場合が少なくない。

「パドック・スーツ」なら、2ボタンのジャケットでも、両方のボタンを留めてよい

 もっとも、2ボタンのジャケットのボタンを2つとも留める場合がまったくないわけではないようである。下のリンクの写真は、ウィキリークスの創始者ジュリアン・アサンジであるが、写真では、この人物は、2ボタンのジャケットのボタンを両方とも留めている。


Julian Assange tweete une photo de lui heureux alors que la Suède classe sans suite l'enquête pour viol

Julian Assange est (presque) libre. VOIR AUSSI : "MacronLeaks" : Comment WikiLeaks et Julian Assange ont outrepassé leur rôle de lanceurs d'alerte Et il a l'air évidemment ravi par cette nouvelle : Le parquet suédois annoncé vendredi 19 mai qu'il abandonnait l'enquête pour viol, en cours depuis sept ans contre le fondateur de WikiLeaks.


 ジュリアン・アサンジという人物にどの程度のファッションのセンスがあるのか、私には判断がつかない。それでも、オーストラリア出身の白人としては平均以上のセンスは具えているはずであり、ジャケットのボタンに関する基本的な知識を欠いているとは考えられない。そこに何かの理由を想定することが自然であるように思われる。

 1960年代のごく短い期間――であると思うが――2ボタンのジャケットのボタンを両方とも留めることがお洒落として普及していた時期がある。ジョン・F.ケネディが公の場に姿を現すとき、2つのボタンを両方とも留めていることが多かったからである。(下のリンクの写真を参照。)現在のアメリカの大統領のドナルド・トランプが、そのファッションに関し現地の評論家やブロガーから烈しくダメ出しされているのとは対照的に、ケネディは、ファッションについても強い影響を周囲に与え、肯定的な評価を獲得していたことがわかる。

John F. Kennedy's Ivy League Style

 ただ、ケネディのスーツは、当然のことながら、完全なオーダーメイドであり、上の記事にあるように、ベントのないスーツであるとともに、また、下の記事にあるように、第2ボタンが高い位置に来るいわゆる「ハイ・ツー」の「パドック・スーツ」(paddock suit) (「パドック・カット」あるいは「パドック・スタイル」とも)に似た形に仕立てられていた。パドック・スーツは、2ボタンの両方を留めることを前提とする型のスーツである。

Paddock Suit - by Robert Goodman - Apparel Arts 1939

 とはいえ、街で見かけるサラリーマンは、ケネディの真似をしているわけではなく、もちろん、1930年代のファッションを模倣しているわけでもない。(ただ、2ボタンのスーツに関して言えば、「ハイ・ツー」はやや増加傾向にはある。)実際、大抵の場合、2つのボタンを両方とも留めたサラリーマンのジャケットは、おそらく既製品なのであろう、ボタンを留めたせいでもとの姿を完全に失っていることが多い。これは、基本的なルールに関する無知に由来するスーツの誤った着方として訂正されるべきものであるに違いない。

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政府が期間まで指定するとは

 「クールビズ」(cool biz) というのは、夏期の職場での軽装を指す和製英語で、環境省の主導で2005年に始まったものである。

 夏に軽装で仕事し、冷房の温度を高めに設定することにより、電気の使用量が減り、環境への負荷も軽減されるということであり、表面的に考えるなら、これは望ましいことであるには違いない。

 しかし、政府は、クールビズの期間、夏期の冷房の温度設定、許容される服装まで指定している。衣服というのは、各人が身体に合わせて着用するものであり、一人ひとりが状況を考慮して適切な服装を選択すべきものである。政府の指定は、明らかなお節介でありパターナリズムである。

会社員の服装は驚くほど画一的

 もっとも、街を歩いていると、政府がこれほどお節介なのには理由があるようにも思われてくる。服装に無頓着なのか、それとも、服装に自分の好みを反映させ、職場で浮くことを恐れているのか、大半のサラリーマンが没個性的で画一的な服装に身を包んでいるのである。

 気温が25度くらいなら、街を歩いているサラリーマンの大半は、ネクタイを外しただけのスーツ姿である。30度を超えると、ジャケットを脱ぐことになる。ノーネクタイを前提にシャツにボタンダウンのものにしているサラリーマンが若干いるけれども、大半は、「ただネクタイを外しただけ」「ただジャケットを着ていないだけ」である。

 これらを「クールビズ」と呼ぶことができるのかどうか、私自身は大いに疑問に感じるけれども、多くの民間企業では、服装の許容範囲が狭く、スーツが事実上の制服になっているのであろう。この点を考慮するなら、「クールビズ」がおざなりなものとなるのは、無理のないことであるかも知れない。

 なお、スーツが制服と見なされていることは、普段着について語るとき、「私服」という――私には違和感のある――言葉が使われていることによって明らかである。(「私服」は「制服」の反対語である。)

身体と季節に合った服装を考える習慣を身につけるべき

 今のところ、クールビズは――よほど体型がよい男性でないかぎり――だらしないだけの格好にすぎないように見える。

 政府がクールビズを本当の意味において「クール」なものにすることを望むのなら、何よりもまず没個性的で画一的な服装をやめさせ、どのような状況のもとで何を着るか、みずから考える習慣をサラリーマンに身につけさせるよう促すべきであろう。

Postkarte Kleider machen Leute

身体に合わない服を着ると行動や姿勢に悪影響を与える

 昨日は、スーツを着て出勤した。私は、夏の暑い時期を除けば、講義や会議があるときにはスーツを着ることにしている。だから、スーツを着ること自体は、普通である。しかし、昨日のスーツには、小さな問題があった。サイズが少し大きいのである。

 私が昨日着たスーツは、10年近く前に購入したもので、当時の体型からすると、少し小さく、最初は、ジャケットの前のボタンがかろうじてかかるような状態であった。

 しかし、その後、体重がかなり減ったため、今度は、私の体型が、このスーツにちょうどよいサイズよりも細くなり、スーツが大きく感じられるようになったのである。昨日、しばらくぶりに身につけて、このことに気づいたが、着替える時間の余裕がなく、そのまま出かけることにした。

 現在の紳士服の流行では、ジャケットの袖からシャツの袖が少し見えるのがよいと言われている。ところが、身体が細くなったせいで、ジャケットの袖が実質的にその分長くなってしまった。同じ理由により、裾の位置も少し下がった。

 身体に合わない服を身につけていると、気になって仕方がない。もちろん、自分の体型よりも1サイズ大きな(ゆったりとした)スーツを身につけている男性は多いから、スーツが少しゆるいからと言って、気にするほどのことはないのかも知れないが、やはり、道を歩いているとき、ガラスに自分の姿が映ると、思わず振り向いて姿を確認してしまう。

 このようなことを繰り返すうち、次第に気が滅入ってきた。夕方、自宅に戻るために街を歩いていて、ガラスに映った自分の姿を見たら、やや前かがみになり、うつむき気味になり、足を引きずっていることに気づき、服装が姿勢やふるまいに与える影響を実感した。

 私がこれほど身体に合わない服装の影響を実感したのは、この数年、身体にちょうどよいサイズ、しかも、やや細身に見えるスーツをイージーオーダーで作り、これを身につけるようにしているからである。

 もちろん、値段は、量販店の既製のスーツの5倍くらいするけれども、それでも、毎回同じ店に出向き、前回から体型に変更がないかどうか確認するために採寸してもらい、生地、全体のデザイン、ポケットの位置や形状、ボタンの色や材質などの細部を決めて自宅に届けてもらったものを身につけると、それは、常識の範囲で、そのときの私の外見をもっとも適切に飾ることが可能となるはずであり、このような「自信」(?)らしきもののおかげで、姿勢やふるまいが改善されるような気がする。

 実際、今日は、身体に合うサイズのスーツを着て出かけた。そのせいで、昨日とくらべ、万事がうまく進んだ。もちろん、これは、錯覚かも知れない。けれども、服装を工夫するだけで気分が改善されるのなら、(改善されるのが気分だけであるとしても、)これほど安上がりなものはないと私は考えている。やはり、「馬子にも衣装」(Kleider machen Leute) なのである。

Kleider machen Leute

衣装は自分で選ぶのがよい

 そして、服装にこのような効用があるとするなら、やはり、その日に着るものは、自分で決めるべきであるように思われる。

 街を歩いていると、仕立てのよいスーツを身につけ、シャツやネクタイとのバランスも見事なのに、「着こなし」がひどい中高年のサラリーマンを見かけることが少なくない。

 たとえば、スーツにまったく合わない重いショルダーバッグを肩からかけているせいでジャケットがよじれていたり、歩き方が野蛮な感じだったり、姿勢が非常に悪かったりするのをよく見かける。2ボタンのジャケットのボタンを両方ともとめている男性を見かけることもある。

 このような男性は、身につけるものを自分で選んでいるのではなく、着るもの一式を配偶者に決めてもらっているのであろう。だから、服装とふるまいが調和せず、悪い意味で目を惹くことになっているに違いない。

 だから、自分が身につけるものに最低限の気を遣い、自分が着る服は自分で選ぶことが重要である。自分が決めたものを身につけることにより初めて、自分の身につけたものにふさわしい動作や姿勢を心がけるようになり、それにより、服装に対しさらなる注意が向けられ、自分のふるまいもこれによって改善する……、このような循環が生まれるからである。少なくとも私自身は、このような効用を期待しながら、何を着るかを考えている。

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