AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:ダイエット

Pressure cooker

「煮る」手間を極限まで省いてくれるのが圧力鍋

 私は、圧力鍋を持っている。持っているだけではなく、最低でも週に1度は使う。毎日使うこともある。これは、私がもっとも好む調理器具である。一般的に言って、自炊を習慣とするひとり暮らしの男性にとり、これ以上に便利なものは他にないような気がする。(私の場合、電子レンジよりも使用頻度が高い。)

 圧力鍋というのは、小回りの利く調理器具ではない。作ることのできるメニューはすべて、基本的には「煮込み料理」か「蒸し料理」である。(だから、「煮るだけ」あるいは「蒸すだけ」では完成せず、さらにいくつもの手間がかかる料理の場合、圧力鍋の恩恵はいくらか目減りする。)

 とはいえ、「煮る」というのは、素材に含まれる(加熱によって損なわれないかぎりの)栄養をすべて摂取することが可能な調理法であるから、生命と健康の維持が第一の目標であるかぎり、これ以上に効果的な調理法はない。そして、圧力鍋は、この「煮る」作業に必要な時間を短縮し、ガス代(あるいは電気代)を節約するのに役に立つ道具であると言うことができる。

圧力鍋で肉を「蒸す」ことで脂が落ちる

 ただ、私の場合、真冬を除くと、圧力鍋は「蒸す」ために使うことが多い。

 食べるもののカロリーは減らしたいが、タンパク質を減らすわけには行かない――ダイエット中にタンパク質の摂取量を減らすと、筋肉量が減少してかえって痩せにくくなる――ときには、圧力鍋を使って大量の野菜と適量の肉を一緒に蒸して食べることにしている。

 圧力鍋で蒸し料理を作るためのカゴ(あるいは網)――大抵の場合、鍋に最初から附属しているが、別に買うこともできる――を鍋に入れ、その上に、鍋いっぱいの野菜を載せても、その嵩は、加熱によって劇的に減ってしまう。大量の野菜を短時間で調理し、そして、摂取するのに、圧力鍋による加熱以上に簡単な方法はないに違いない。

 なすべき具体的な作業は、素材をカゴ(または網)に積み上げたあと、コップ1杯程度の水を入れ、蓋を閉じて加熱し、水が沸騰したのちに短時間加圧することだけである。3分も加圧すれば、ニンジンのような堅い根菜もクタクタになる。(一口大に切ったブロッコリーやカボチャを他の素材と一緒に3分加圧すると、柔らかくなるのを通り越して粉砕されてしまい、蓋を開けたときに繊維しか残っていないことがある。)

 肉の場合、蒸すことにより、脂がカゴ(または網)の下に落ち、カロリーが小さくなる。(このようにして蒸し上がったものにノンオイルのドレッシングをかけて食べるわけである。)

圧力鍋で蒸す野菜は、神経質に洗わなくてもかまわない

 ところで、野菜の中には、調理に先立って下準備に時間がかかるものが少なくない。普通の葉物野菜に範囲を限るなら、下準備がもっとも面倒なのは、ホウレンソウであろう。

 ホウレンソウを食べるためには、根元の泥を落とした上で全体をよく洗い、その後、1分か2分茹でて冷水にとり、きつく絞ってアクを抜く作業を省略することはできない。「おひたし」であれ「ソテー」であれ「カレー」であれ、ホウレンソウを素材とするかぎり、このプロセスはどうしても必要である。

 しかし、圧力鍋を使って野菜を蒸す場合、この下準備を省略することが可能である。軽く洗って泥を落とし、生のまま適当な大きさに切ってしまえば、加熱しているあいだに汚れとアクはほとんど落ちてしまう。ホウレンソウを含む野菜や肉を蒸したあとに鍋の底に溜まった水分を見ると、肉の脂やアクとともに、ホウレンソウから出たアクの色がついており、蒸しているうちにアクが抜けたことがわかる。ただ、ホウレンソウの仕上がりの色はあまり美しくならない。

※注意:ホウレンソウのアクが問題なのは、「シュウ酸」が含まれているからである。シュウ酸は、カルシウムと結合するため、骨粗鬆症や結石を惹きこす危険がある。したがって、すでに骨粗鬆症や結石が確認されている場合、あるいは、こうした病気のおそれが高い場合、ホウレンソウを生のまま圧力鍋に放り込むのはやめて、普通の鍋で丁寧に茹でたあと、水にさらして徹底的に絞るという通常の手順に従う方が望ましい。


 下準備が面倒であるという理由で野菜を食べないのなら、圧力鍋で蒸すことにより、面倒のかなりの部分から解放されるはずである。

depression

 秋、特に10月と11月は、私のもっとも嫌いな季節である。秋が嫌いな理由はいくつもあるけれども、そのもっとも大きなものの1つは、間違いなく健康診断である。

 私の場合、今のところ、BMIは標準であり、「メタボ」と見なされる恐れはない。また、酒ともタバコとも縁がない生活を送っている。血液検査の数値に深刻な異常が出たこともない。それでも、健康診断がたまらなく嫌であり、健康診断が終わるまで毎日、何度も健康診断のことを考え、そのたびに憂鬱になる。それなりに忙しい時期であるにもかかわらず、集中力と生産性は非常に低くなる。

 ネットで調べると、健康診断が嫌いであることを公言する人が少なくないことがわかる。しかし、その理由は必ずしも同じではない。バリウムを飲むのが嫌である(ただ、胃部X線検査は労働安全衛生法に定められた必須の項目ではなく、したがって、検査は拒否できる)とか、血液検査で針を刺されるのが嫌であるとか、色々な理由が記されている。健康診断がそれ自体として精神衛生上有害な影響を生活に与えているのである。

 私の場合、なぜ健康診断ごときでこれほど憂鬱になるのか。おそらく、場所の雰囲気に耐えられないからであると思う。よく知らない人たちと一緒に列を作り、特に何を話すわけでもなく、閉じた空間を何十分か回遊するのが嫌なのである。少なくとも私の職場では、よく知らない者たちが人口密度の高い同じ一つの空間を共有するという状況が出現することはない。(もちろん、会議のときには、会議室の人口密度は高くなるけれども、普通は、全員が顔見知りである。)検査する側の看護師や医師からは、「やる気」も人間味も感じられず、受診する側は、工場のベルトコンベアを流れてくるモノのように扱われる。今の職場では、尿検査のときの採尿には便所が使われるが、以前の職場では、健康診断が実施される部屋の中――つまり便所の外(!)――に便器が1つ設置され、そこで採尿することになっていた。

 私など、屠殺されるために引きずられて行く牛になったような気分で、虚ろな目をして列に並ぶ。今年も、あと2日で、もっとも嫌いな年中行事がやってくる……。


8 Signs You’re Eating Too Much Sugar

 前に、ダイエットによって背負うことになる不幸について書いた。ダイエットの本当の不幸は、食べたいものが食べられなくなることではなく、食べたいという素朴な欲求が損なわれることであるというのが、その内容であった。

ダイエットの不幸 : アド・ホックな倫理学

ダイエットの不幸というものがあるとするなら、それは、食べたいものを食べられないことにあるのではない。自分の好物を目にしたとき、これを食べたいと思う素朴な気持ちが失われてしまうことであり、自分の好物を食べるということが、「あとさきを考えない愚かなふるまい




 もちろん、ダイエットが原因で生れるこの不幸を経験することを願う者などいないであろうし、また、誰も、この不幸のうちにとどまっていたいとは思わないはずである。残念なことに、おいしいものを食べたいと思う素朴な欲求を取り戻す確実な方法はない。なぜなら、それは、単純な「無知」と「無垢」へと、つまり「子ども」へと回帰することであり、これは、誰ひとりとして辿ることの許されぬ道だからである。

 それでも、この不幸から一時的にでも逃れる手段がないわけではない。「何をいくら食べてもかまわない」という確信を持つことができるなら、食べたいものへの素朴な欲求は回復するであろう。

運動+食餌制限とチート・デイの組み合わせが不幸な気分を解消するのに役立つ



 ダイエットとの関係でこれを言い換えるなら、「何をいくら食べてもかまわない」という確信に辿りつくのに必要なことは2つある。

  1.  運動と食餌制限を日常的に続けることである。減量を習慣的に実践することは、食べることによる身体へのダメージを抑えられるという自信を私たちに与えるからである。
  2.  そして、運動と食餌制限を続けながら、何日かに1度、「チート・デイ」(cheat day) を設けるとよい。チート・デイとは、好きなものを好きなだけ食べる日のことであり、アスリートのトレーニングに取り入れられることも多い。プロのアスリートのように明確な目標がある場合でも、食べものに関する厳しい制限はストレスになる。だから、週に1度、10日に1度などの頻度でチート・デイを設定し、食べたいものを食べることをみずからに許すのである。

 好きなものを好きなだけ食べると太ると思うかも知れないが、好きなものを好きなだけ毎日食べ続けると太るのであって、ときどき食べる分には、体重と健康に対する影響を考慮する必要はない。

チート・デイは決まった間隔で配置するのではなく、具体的なターゲットと関連づける方がよい



 それでは、チート・デイの頻度は、どのように設定すべきか。もちろん、週に1度、10日に1度などのように決まった間隔を空けてチート・デイを配置するのは1つのやり方であるが、これは、意志が弱いとすぐに破たんする。実際、私は失敗した。

 だから、たとえば、自分の仕事の目標と関連させて、「これだけの成果が挙がったら、好きなものを好きなだけ食べる1日を作る」と決めればよい。

 ただ、この成果は、必ず客観的に測定可能なものでなければならず、自分だけではなく、他人の目にも成果を確認することのできるものでなければならない。自分のチート・デイを公言し、他人に監視してもらうというのも、効果的であるかも知れない。

 なお、このとき「成果」は、体重や身体のサイズとは無関係のものに求めた方が安全である。「成果」を体重を関連づけると、ダイエットが上手く行かなくなる可能性が高いからである。

 「体重が何キロまで落ちたらチート・デイ」と目標を設定すると、ターゲットとなる体重まで無理に減量してチート・デイを「手繰り寄せ」がちである。しかし、この場合、チート・デイに一時的に体重が増加すると、必ず後悔することになり、結局、減量を継続する意欲が損なわれるのである。

Family Dinner

 ダイエットの不幸というものがあるとするなら、それは、食べたいものを食べられないことにあるのではない。自分の好物を目にしたとき、これを食べたいと思う素朴な気持ちが失われてしまうことであり、自分の好物を食べるということが、「あとさきを考えない愚かなふるまい」のように思われてくることである。食べたいものを食べたいと思う気持ち自体が損なわれるのがダイエットの不幸なのである。

 そして、この不幸は、たとえ減量に成功するとしても、消えることはない。ダイエットを長く続けているうちに、食べたいと思えるものが少なくなり、何を見ても、「これを食べるとブタになるのではないか」「血糖値が急激に上がるのではないか」というようなことばかりが気になり、美味しそうに見えなくなる。そのうち、食べること自体が苦痛になる。

 食生活に関係する健康情報というのは、基本的にすべて「うしろ向き」である。つまり、いかに健康になり、いかに若々しくなるかを教えるものではなく、いかに病気のリスクを減らし、いかに老化のスピードを抑えるかを教えるにすぎない。だから、健康情報を手がかりに食生活の改善を試みると、病人のような気分を味わわされることになる。

 残念ながら、ダイエットを一度始めたら、この不幸から逃れる術はない。食べることへの気がかりが、自分のあとを影のようにどこまでもついてくるからである。これで苦しい思いをしている人は少なくないであろう。私も、あまり楽しくない思いをしている一人である。

 テレビドラマの「孤独のグルメ」を観ていると、主人公の井之頭五郎が丼からメシをかき込む場面がよく出てくる。製作者は、「うまそう」という声を視聴者に期待しているはずである。しかし、糖質、特に白米による糖質の摂取が血糖値を急激に上げ、それが血管や内臓を傷つける危険があり、これが動脈硬化を惹き起こす可能性があるという知識を持っている視聴者は、井之頭五郎がメシをかき込むシーンを見ても、「うまそう」とは思わず、むしろ、「ああ、命削ってるんだな、大変だな」としか思えなくなる。(私も、そう思って見ている。)そして、同じシーンを見て「うまそう」などと言っている人間を見ると、そういう人間の無知を憐れむ。

 しかし、よく考えてみると、本当に憐れまれるべきなのは、井之頭五郎について「ああ、命削ってるんだな、大変だな」などという感想を持つ私のような人間であるのかも知れない。白いメシを腹いっぱい食べることの素朴な楽しみには、もはや決して与ることができないからである。

 続きは下の記事へ。 

ダイエットの不幸を克服するヒント : アド・ホックな倫理学

前に、ダイエットによって背負うことになる不幸について書いた。ダイエットの本当の不幸は、食べたいものが食べられなくなることではなく、食べたいという素朴な欲求が損なわれることであるというのが、その内容であった。ダイエットの不幸 : S氏のブログダイエットの不幸



 

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