AD HOC MORALIST

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「繊細チンピラ」は統合失調型パーソナリティ障害?

 しばらく前、次の記事を読んだ。

被害妄想が強い...「繊細チンピラ」あるある - NAVER まとめ

 私は、精神医学に詳しいわけではないけれども、ここに記されているふるまいはいずれも、統合失調型パーソナリティ障害の特徴と一致する。「繊細チンピラ」とは「SNS上でのみ認められるパーソナリティ障害」を患った者であると言うことができるかも知れない。

統合失調型パーソナリティ障害 - Wikipedia

人間は、他人の幸福には共感できないのか

 人間は、他人の不幸に対しては共感能力を発揮するが、他人の幸福は、つらい「妬み」を惹き起こすばかりで、これに共感することはないと語ったのはジャン=ジャック・ルソーである。

 ルソーのこの見解に従うなら、人間の共感する能力には明瞭な限界があり、それは、決してプラスの方向には働かないことになる。つまり、不幸な人が目の前にいるときには、その不幸を想像し、不幸な人に同情することはできても、幸福な人が目の前にいるとき、一緒に喜ぶことは不可能なのである。

 これは、アダム・スミスを始めとする18世紀のイギリスの思想家たちが共感を無制限で全方位的なものと見なしたのとはいちじるしい対照をなす考え方である。もちろん、この見解には、ルソー自身の性格が影を落としているに違いない。

 ある意味において、ルソーは、18世紀を代表する「繊細チンピラ」であり、当然、かなり重度の統合失調型パーソナリティ障害を患っていたと思われるが、自分の複合感情(コンプレックス)を普遍妥当的な思想へとまとめ上げ、全世界にこれを押しつける才能を具えていた点において、単なる「繊細チンピラ」とは決定的に異なる。

誰の妬みも刺戟せず、毒にも薬にもならないことだけ言い続ける

 なぜSNS上では誰もが統合失調型パーソナリティ障害の徴候を示すのか、私にはわからない。SNS、特にツイッターに何かを書き込む行動が障害を惹き起こすのかも知れないし、反対に、ツイッターが特定の性格の持ち主に好まれるのかも知れない。

 もちろん、SNS上には、「繊細チンピラ」ではなく、統合失調型障害とも無縁の人々がいる。そして、あなたがその一人であるなら、SNS上では、当たり障りのないふるまいを心がけた方が無難である。 ルソーの見解が妥当であるなら、残念ながら、他人の妬みを少しでも刺戟することにより、際限のない面倒の端緒が拓かれてしまう可能性があるからである。注意を惹かぬようふるまうことが、SNSを使って平穏に暮らすための秘訣であることになる。

the KKK rally (circa early 70's)

見ず知らずの相手とのコミュニケーションが含む不確実性

 私は、SNSには原則として近づかないことにしている。ツイッターは気まぐれにしか使ってこなかったし、フェイスブックのアカウントは持っていない。直接の知り合いか、あるいは、私の仕事に何らかの関係がありそうな相手ならばともかく、完全な見ず知らずの相手とのネット上でのコミュニケーションは、大きな不確実性を含んでいるからである。見ず知らずの相手との意思疎通の困難については、以前に2回、別の観点から書いたことがある。


共生の悪夢と社会の「融和」 : アド・ホックな倫理学

昨日、次のような記事を見つけた。「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている 高等学校卒業が最終学歴である人々と、大学卒業が最終学歴の人々とのあいだに、社会に対する見方に関し大きな隔たりが生れ、しかも、たがいに相手が社会をどのように見てい


「狂信」の背後にあるものがわかったとしても、意思疎通が可能になるわけではない : アド・ホックな倫理学

狂信の政治 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。 特に、マスメディアにお

 SNSにおけるコミュニケーションの不確実性というのは、一言で表現するなら、相手が何者なのかよくわからないことに由来する不確実性である。私が何かを発信する場合、私の言葉を相手がどのように受け止めるのかまったく見当がつかない。同じように、相手から私に向けて差し出された言葉を正確に理解するためには、言葉の背後にある暗黙の了解や文脈を共有しなければならないけれども、見ず知らずの相手の場合、このような点については、乏しいサインを手がかりにただ想像するほかはない。少なくとも、私の乏しい経験の範囲では、SNSで不意打のように成立する見ず知らずの相手とのコミュニケーションについて、上手く行ったという手応えが得られることは滅多にない。

 そもそも、SNS、特にツイッター上で、わずか140文字で見ず知らずの他人が言おうとしていることを正しく把握するなど、ほぼ不可能である。「正常な」コミュニケーションをツイッターで実現するためには、140文字を丹念に読み、前後のツイートを読み、誰をフォローし、誰にフォローされているかを確認することで、相手がどのような人間であるのかをあれこれと想像することが必須である。また、私が使う言葉は、慎重に選ばれなければならない。このような作業には、多くの時間と体力が必要となる。ツイッターは、スマートフォンで気軽に使うことができるようなものではない。しかし、ここまで用心しても、地雷を踏んでしまう危険がなくなるわけではない。

池に落ちた犬を叩く者たち

 自分の何気ない投稿に対して、見ず知らずの人間から意味不明な言いがかりをつけられ、この言いがかりが周囲に拡散して面倒なことになった経験がある人がいるかも知れない。もちろん、直接に対面しているのなら、あるいは、ブログやウェブサイト上での長文でのコミュニケーションなら、相手の誤解を解く余地、あるいは、落としどころを見つける余地が多少は遺されていると考えてよい。何と言っても、あなたがブログやウェブサイトに投稿した記事が問題であるなら、言いがかりをつける方もまた、あなたの立場を背景を含めて理解するために、それなりに時間をかけてあなたの言葉を読んでいるわけであるから、あなたは、言いがかりをつけてきた相手に対し、あなたの説明を聴き、あなたの言いたいことを理解する努力をいくらか期待することが許される。

 ところが、ツイッターの場合、誰かに言いがかりをつけられた瞬間にはすでに、さらなるコミュニケーションの可能性は閉ざされている。相手は、一種の狂信者であり、自分と違う考え方、自分と違うあり方を一切認めない。彼らは、何かに対し居丈高に怒り、何かに対し聞くに堪えない罵声を浴びせ、何かを吊し上げたいだけであり、このような人間にとって、あなたの言葉をあなたの身になって正しく理解したり、あなたの発言の背後にある前提や文脈を想像するなど、最初から関心の外にあると言ってよい。あなたは、マッチに点火するのに必要なマッチ箱の側面のようなものにすぎないのである。

 あなたに対する言いがかりが周囲に拡散するとしたら、それもまた、いかなる意味でもコミュニケーションではなく、ただ、あなたを晒し者にする一種の祭りに参加し、刹那的な偽りの一体感を体験したいだけであり、そこには、人間としてのあなたの尊厳への気遣いなど何もない。騒ぎがある程度以上大規模になるとき、これが「ネット私刑」などと呼ばれる理由である。

 現実の世界でも、サイバースペースでも、コミュニケーションの基本は、「相手の身になること」である。相手の身になり、相手のことを理解する努力が(たとえコミュニケーションが敵対的なものであっても)意思疎通の前提である。ただ、残念なことに、人間には、「相手の身にならないこと」「意志疎通の努力を放棄すること」がつねに可能である。実際、ネット上の見ず知らずの者たちの「交流」では、「誹謗中傷をこれ以上続けたら、相手は社会的に葬られてしまうのではないか」「これだけ大量の憎悪表現を寄ってたかって浴びせ続けたら、相手は立ち直れないのではないか」などの気遣いは、必ずしも前提とはならない。実際、ツイッターには、自分が罵声を浴びせる相手が精神を病もうと、自殺しようと、社会から抹殺されようと、そのようなことには一切頓着しない者たちが跋扈する一種の無法地帯としての側面がある。なぜ人間がそこまで思いやりを忘れることができるのか、これは人間の存在をめぐる1つの謎である。

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