AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:テレビ

people-431943_1920

通りすがりに入ったカフェがテレビで紹介された店だった

 今日の午後遅く、移動中に東京都心のあるオフィス街を徒歩で通過した。たまたま、次の予定までに1時間ほど時間が空いていたため、近くにあったカフェに入った。

 カフェのガラス戸を開けたとき、中から店員がやってきて、人数を不安そうな顔で私に尋ねた。私が「1人」と答えると、少し安心したような顔になって、すぐに席に案内してくれた。

 なぜ店員の顔に懸念の色が現われていたのか、そのときにはわからなかったけれども、席に着き、コーヒーとホットケーキ(←その店の名物の一つのようであった)を注文してから周囲を見渡してみて、その理由が何となくわかってきた。店の壁に、テレビ番組の取材で訪れたと思われる芸能人の色紙が何枚も飾られていたのである。

 色紙をよく見ることで、異なる番組の取材で異なる芸能人が異なる時期に店を訪れたことがわかった。つまり、この1年くらいのあいだに、テレビ番組でこの店が何回か紹介されているということなのであろう。私自身は、問題の番組を1つも見ておらず、当然、その店がテレビで紹介されたことも、壁に飾られた色紙を見るまで気づかなかったけれども、当然、大半の客にとり、この店を選ぶ理由は、「テレビで紹介されていた店」である点にあると考えるのが自然である。

 実際、私が店に入ることができたのは、幸運だったようである。私が店に入ったとき、店は1人分の席1つを除きすべて埋まっており(←客は私以外は全員女性)、そこに私がすべり込んだことになる。私が店に入った直後、店の外に10人近い行列(←全員女性)が一度に出来上がり、私が店を出るときにも、行列(←全員女性)は完全には消えていなかった。私は、行列がちょうど途切れたタイミングで店にすべり込んだことになる。

 店の入口で私を迎え撃った店員の顔が不安そうだったのは、客が複数名だった場合、路上で待つように言わなければならないと覚悟していたからに違いない。(それにしても、私が一人でこのタイプのお洒落なカフェに入ると、ほとんどの場合、なぜか「便所の隣」「レジの前」「厨房の出入り口」などに坐るよう求められる。今日も店でも、私が坐らせられたのは、厨房の出入り口であった……。なぜこのような条件の悪い、うるさい席に坐らせられるのか、これは私にとっては謎である。)

「行列に並んでまで」店に入りたいのか、それとも「行列を作るのが楽しい」のか

 私自身は、行列が大嫌いであり、一人のときには、飲食店の前に行列ができていたら、行列があるということを理由にその飲食店には近づかない。誰か知り合いと一緒に飲食店に出かけ、そこで列を作って順番を待たなければならなくなったときにも、基本的には、並ばずに入ることができる別の店を探す。考えが少し古いようであるけれども、商店や飲食店の前にできる行列というのは、社会の貧困の証のように思われるのである。おそらく、戦後間もない時期の日本の行列や、旧ソ連の行列を映像で何度も見ているからであろう。だから、列に並んで順番待ちしている客に気持ちが私にはわからない。

 しかし、形式的に考えるなら、列を作る理由は、次の2つに限られるように思われる。すなわち、順番待ちしてまで食べたいもの、あるいは、手に入れたいものが店にあるからであるか、あるいは、知り合いと一緒に列を作って順番を待つことがそれ自体として楽しいのか、これら2つ以外に理由は認められないはずである。

 テレビで紹介されていたという理由で客が殺到することが店にとってありがたいのかどうか、私にはわからないけれども、そのような客が常連となり、繰り返し店を訪れることは必ずしも期待することができないことは確かである。私自身は、自分が実際に訪れて居心地のよさを覚えた店を何回も訪れることが、店に対する礼儀であるような気がしている。今日の午後のカフェの前には、しばらくはまだ、テレビを見て訪れる客が列を作っていることであろう。私は、当分のあいだ、この店に行く予定はないけれども、テレビで紹介されたことが忘れられ、少し客が減ったころ、あらためて行ってみるつもりである。

2409560593_be04d9bde8_b

 以前、次のような記事を投稿した。


「さあて、今日は何をしようかな?」 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

無為の理想と無償の行為について哲学的に考える。


 この記事において、私は、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやきながら、鳥のさえずりとともに目を覚まし、朝食を摂りながらその日の予定を考えるような生活が理想であるという意味のことを書いた。

 それでは、これが私の理想の一日の始まりの光景であるとするなら、その一日は、どのようにして終わるのであろうか。つまり、一日の理想的な始まりに対応する理想的な終わりとは、どのようなものなのであろうか。しかし、この点についてもまた、私には、明確な姿があり、理想の一日がこのようにして終わればよいと考える光景がある。

 この理想的な光景に登場する私は、テレビの前に置かれたソファーに腰を下ろし、テレビをつけたままうたた寝している。テレビを見ながら、居眠りしているようである。理想の一日は、テレビの前でのうたた寝で終わるわけである。

 テレビを見ながらのうたた寝は、もう20年以上前から、私の理想とする老後の一日の終わらせ方であった。原稿の締め切りに追われることもなく、職場での雑用に頭を悩ませることもなく、穏やかにテレビを見ながら眠りにつく……、たしかに、これは、いくらか自堕落な生活ではあるけれども、それでも、かぎりなく心穏やかな生活でもあるように思われる。

 「老後」の生活は、現在の私の心を占領しているいくつもの関心や気がかりからは無縁であるかも知れないが、その代わり、「老後」なりの気がかりや苦労がそこには見出されるには違いない。それでも、(どのような番組かはわからないが)一日をテレビの前で穏やかに終わらせることができる生活を手に入れることができるなら、私としては十分に満足であろうと思う。

 ところで、アメリカのテレビドラマや映画を見ていると、テレビの前に置かれた二人掛けのソファーにカップルが腰を下ろし、男性が女性の肩に腕を回して二人でテレビを見ながらうたた寝する場面にときどき出会う。これもまた、私の理想とするところではあるが……。

Master Control 02

 昨日、NHKで次のような番組を観た。

続ける?やめる? "24時間型社会"ニッポン - 放送内容まるわかり! - NHK 週刊 ニュース深読み

 最近、24時間営業をやめるコンビニエンス・ストア、ファストフード店、ファミリーレストランなどが増えてきたというニュースが取り上げられ、「24時間型社会」の功罪が論じられていた。私自身は――自宅のすぐ裏に24時間営業のコンビニがあるのだが――24時間営業の店を深夜に訪れたことがなく、そのありがたみが実感としてはわからないのだが、それなりの需要があるということなのであろう。

 しかし、夜というのは、常識的には、人間が活動せず、休息や睡眠をとるべき時間帯であるから、この時間帯には、休むわけには行かない特別な施設(警察署、消防署、発電所、気象台など)を除けば、さしあたり業務を中断するというのが自然である。小売店、民間企業、官公庁、公共の交通機関など、日の出とともに順次業務を始め、日没とともに順次業務を終えることにすれば、健康的な社会が出来上がるように思われるのである。

 しかし、これら以上に無駄であるのは、テレビの24時間放送である。21世紀になるまで、テレビ局は、必ずしも番組を24時間放送してはいなかった。だから、昔は、深夜から早朝にかけての何時間かは、テレビのスイッチを入れると「サンドストーム」(砂嵐)――正確には「スノーノイズ」と言うらしい――が画面に現れた。(デジタル放送ではこのノイズは生まれないようである。)


 午前0時から午前5時までは、すべての局が一斉に放送をやめればよい。深夜にどうしても必要なのはニュースだけであり、大きな事件や事故があったときに臨時で放送されれば十分であると私は考えている。テレビが24時間放送をやめれば、製作しなければならない番組の数が減り、その分、番組の質が向上するに違いない。番組を放映する時間を確保するためにチャンネルを増やしたり放送時間を延長したりするのならばともかく、現状では、チャンネルと放送時間を埋めるために、番組を作らざるをえないようになっているはずだからである。

 いや、これだけたくさんのチャンネルがあるのだから、テレビの放送は、どの局も1日8時間程度に制限すればよい。すべての番組の視聴率は上がるであろうし、番組の質もまた向上するであろう。当然、広告料も上がるに違いない。

 テレビの放送時間が減少しても、ネットに視聴者を奪われるのではないかという懸念は杞憂である。不思議なことに、ネット上のコミュニケーションの話題は、今の私がそうしているように、その多くを――ネット上に直に流された情報ではなく――テレビ番組、特に地上波のテレビ番組に仰いでいるからである。テレビ番組の質は、ネット上のコミュニケーション、特にSNSのトラフィックに大きな影響を与える。だから、それぞれの放送局が放送時間を短縮し、番組の質を向上させるなら、それは、社会全体に好ましい影響を与えることになるはずである。


↑このページのトップヘ