brain power

 「寿命がのびる」という表現が使われるときに一般に想定されているのは、身体の寿命がのびることである。もちろん、最近何十年かのあいだに身体の寿命がのびたのは、それ以前に生命を奪ってきた病気の多くについて、完全に撲滅されたり、完治を可能にするような治療法が見つかったりしたからである。現在では、何らかのがんが死因の上位を独占しているけれども、それは、何十年か前にがんよりも上位にあった多くの死因が次々と除去されて行った結果であり、がんに罹患するリスクが見かけ上高くなったのは、人口構成に占める高齢者の割合が増えたからにすぎない。

 どのくらい遠い将来になるかわからないけれども、がんを根治する方法が発見されたら、今度は、現在では下位にある死因の順位が繰り上がり、上位を占めるようになるはずである。ただ、100年後の死因の第1位を今から知ることは不可能である。ことによると、それは、特定の疾病ではなく、「交通事故」や「戦争」や「自殺」になっている可能性がないわけではない。この場合、100年後の医学は、病気の治療ではなく安全や平和を目指す一種の社会科学になっているであろう。

 しかし、身体の寿命とは異なり、脳の場合、人類が始まってから、基本的にその寿命に変化はないように見える。(もっとも、私は完全な素人だから、間違っている可能性はある。)つまり、適切に知覚し、判断し、行動する能力が身体の寿命とは関係なく、ある年齢以降とどまることなく衰える点については、現在も過去もあまり違わないように思われるのである。(なお、がんの場合と同様、認知症の患者が増えたのも、社会の高齢化が原因である。かつては、身体の寿命が短かく、認知症になるまで生きている人間が少なかったのである。)ニューロサイエンス(neuroscience=脳神経科学)において、脳の活動力を薬によって増強させることの可能性が検討され、ニューロエシックス(neuroethics=脳神経倫理学)において、この道徳的な是非が重要なトピックとして取り上げられてきたことにはそれなりの理由があると考えるべきであろう。

 人間の生命を奪ってきたさまざまな病気が治療可能となり、身体の寿命が延びたため、脳の方が身体よりも短命になった、これが現在の状況である。身体よりも脳の方が寿命が短く、脳の衰えの方が身体の衰えに先立つのであるから、人間の生死は、今や身体の生と死よりも、脳の生と死――これはいわゆる「脳死」とは別である――と深く関連すると考えねばならない。気力や知力などと表現することのできるものがいちじるしく衰えたとき、脳の機能を回復させ、明晰な思考と判断を維持することは、「脳の寿命」をのばすことであり、ニューロエシックスが何と言おうと、社会の活力を維持するためにどうしても必要であるように思われる。