AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:フラッシュバック

Schoolboys of Japan

ある知人の話

 ある知人から、次のような話を聞いた。

 毎朝、出勤するとき、自宅から駅まで歩き、そこから地下鉄に乗る。普段は、午前6時台に家を出るため、同じ時刻に出かけるサラリーマンや犬を散歩させる高齢者以外を見かけることはあまりない。

 ところが、ときどき、午前8時前後に出かけることがある。そして、そのようなときには、駅まで歩いて行く途中、近くの学校に向かう小学生や中学生の集団に遭遇することが少なくない。しかし、住宅街の中の道を歩いていて、小学生や中学生の集団が向こうから近づいてくるのがわかると、道を変えることにしている。すれ違うのがどうしても嫌だからである。正確に言えば、身の危険を感じるのである。

 もちろん、少し冷静に考えるなら、自分が小学生や中学生に朝の市街地で襲われるはずがないことは明らかである。それでも、向こうから近づいてくる小学生や中学生を回避することができず、彼ら/彼女らとすれ違うことを余儀なくされるときには、いつも軽い恐怖を覚える……。

 職業柄、人前で話す機会はそれなりにあって、大きなホールで目の前に大人が何百人が坐っていても、身動きがとれなくなるほど緊張することはないが、小学生や中学生が遠くに見えるだけで、気持ちがざわつく。

 知人は、このように語っていた。

 この知人は、小学生のころ、ひどい「いじめ」にあい、さんざんな生活を送っていたようである。「今にして思えば、よく生きて小学校を卒業できた」と知人は語っていた。登校する小学生や中学生の集団を見ると恐怖を覚えるのは、おそらく、この「いじめ」の経験があるからなのであろう。知人によれば、「『いじめ』の被害者としての経験は、ことによると自分の行動パターンに、知らずしらずに何らかの影響を与えている可能性はあるとしても、『いじめ』を思い出すことは、普段はあまりない。ただ、たとえば小学生や中学生の集団とすれ違ったり、「いじめ」と深い関連のある場所に身を置いたりするときには、昔のことが総集編のように記憶に甦り、鮮明に思い出される」ということであった。いわゆる「フラッシュバック」と呼ばれているものである。

「学校に通う」という惰性から一度は距離をとることが大切

 学校の授業や課外活動、また、学校での人間関係にどのくらいの価値を認めるのか、これは、人によりまちまちであろう。したがって、「いじめられるくらいなら、退学したり転向したりして、精神衛生上いくらか『まし』な環境に自分自身を移す」ことを選択する児童や生徒もいれば、反対に、(私自身には理解することができないけれども、)「今の環境にとどまり人間関係を再編成する可能性に賭ける」児童生徒もいるかも知れない。また、保護者の意向が本人の要求とは異なる可能性もある。したがって、少なくとも本人や保護者については、「いじめ」にあったときに講じるべき対応に「正解」があるわけではないと考えるべきである。

 ただ、少なくとも次の点は確かであるように思われる。すなわち、少なくとも保護者が、自分の子どもについて、「学校には行くのは当然」「学校をちゃんと卒業するのは当然」「友だちとちゃんと付き合うのは当然」「課外活動にちゃんと参加するのは当然」などの先入見を一度は捨て、学校と学校教育を相対化する視点を獲得しないかぎり、「いじめ」の問題は決して解決しないという点である。たしかに、保護者自身は、自分の子どもの学校生活を評価するとき、みずからが小学生や中学生であったころの生活を知らずしらずのうちにモデルとして前提しがちであり、このモデルに従うよう子どもを反射的に促してしまいがちであるように思われる。しかし、これは、子どもから選択肢を奪うばかりではなく、保護者自身からもまた選択肢を奪うことになる。

 もちろん、現在の日本の教育制度の場合、完全にドロップアウトしてしまうと、キャッチアップがきわめて困難であることは事実であり、キャッチアップすることができないと、社会生活において重大な不利益を被る危険があることもまた確かである。

 しかし、自主的に勉強を進める条件をみずから整えることができるかぎりにおいて、小学校や中学校に通わなくても、課外活動に参加しなくても、友たちを作らなくても、卒業することができないわけではないし、その後の進路に直接の悪影響が及ぶわけでもない。「周囲から浮く」というような、実に日本的な気がかり、しかし、非本質的な気がかりを一度は捨てることは、どうしても必要であるように思われるのである。


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 「あなたは今までに何人の最期を看取りましたか。」

 あなたがこの問いに「ゼロ」と答え、しかも、あなたの年齢が40歳以上であり、かつ、介護の経験がないのなら、あなたは、ある意味では幸せであると言える。(この場合の「最期を看取る」とは、臨終にいたるまで病人に付き添って看病することを言う。)

 もちろん、大家族の場合、一緒に暮らしていた者の最期を看取ることは、珍しいことではなく、むしろ、日常を構成する要素であるかも知れない。しかし、現在では、核家族化が進んでいるから、40歳以上でも、誰の最期も看取ったことがない人、つまり、(大抵の場合は高齢の)親族が病気にかかり、そして、亡くなるまでに何らかの仕方で立ち会った経験を持たない人は少なくないであろう。

 現在、私は40代後半であるが、これまでに3人の最期を看取ってきた。この世代としては多い方だと思う。(なお、私よりも年長で、私が生まれたときのことを知る親族は、今はもうひとりも残っていない。)たしかに、これは、貴重な経験であると言えないことはないが、それでも、私のごく個人的な感想としては、親族の最期を看取る行為は、現代では、精神衛生上必ずしも好ましいことではなく、可能であるなら、回避する方がよいものである。

 細部にわたることは一々書かないが、少なくとも、次のようなことは確かであると思う。

 つまり、病を抱えた親族の面倒を、何ヶ月か、あるいは何年か、ある程度以上の期間にわたって最後まで見続けるなら、あなたは、看病される者が病に負け、彼/彼女の「人間性」が試練にさらされ、やがてこれが剥落して行く場面にかなりの確率で否応なく立ち会うはずである。親しい者のそのような姿など目にしたくないと思っても、大抵の場合――あなたが看病しているのは、他に代わる者がいないからであることが多い――あなたは、その場から逃れる自由を奪われており、病院の病室において、あるいは、自宅において、彼/彼女の最後の姿を見守り続けるをえない。これは、大きなトラウマとなる。

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それほど病が篤くない段階で「お見舞い」に行ったり、臨終の場に立ち会ったりするだけであるなら、誰でも、故人の思い出を美しく心に抱くこともできるであろう。しかし、あなたが「最期を看取る」者であり、特に、逃げ場がない状態で看病を続けた者であるなら、あなたの記憶に鮮明なのは、病に苦しみながら人間性を少しずつ剥落させて行く者の姿であり、病室、手術、点滴、効果のない治療や処置、医者や看護師の(無)表情、検査結果を記した書類、X線フィルム、故人との言い争い、消毒薬のにおいなどであるに違いない。故人との暮らしが何十年にもわたるものであるとしても、また、その何十年かがかけがえのない時間であったとしても、あなたがさしあたり繰り返し思い出すのは、その年月であるというよりも、むしろ、時間的にもっとも近い過去の「看取り」とならざるをえない。かけがえのないはずの何十年かは、これによって封印されてしまう。最期を看取ることは、親しい者ほど避けるのがよいかも知れないと私が考える理由である。

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