Which one to choose

分類整理が現実的なのは、蔵書の量が一望できる範囲に収まっているときだけ

 蔵書が増えてきたとき、これを利用しやすくするために誰の心にも浮かぶのは、「本をどのように書架に並べるか」という問いであろう。

 たしかに、蔵書全体を一望のもとに見渡すことができる場合、この問いには意味がある。たとえば、1つの部屋の1つまたは複数の壁に固定された書架に蔵書が収まる程度であるなら、たとえばテーマ別、使用頻度別、著者名のアルファベット順、あるいは、背表紙の色ごとなど、自由な並べ方が可能であり、実際、それによって、蔵書が機能するであろう。

 しかし、本の分類整理は、あくまでも、すべての蔵書を一度に視界に収めることができる場合にのみ意味を持つ。蔵書が1つの空間内に固定された書架には収まらず、したがって、蔵書を一望することができない場合、本を分類整理しても無駄である。少なくとも、分類整理のためにおびただしいエネルギーが必要となり、分類整理のためのエネルギーは、蔵書の活用から生まれる効用を上回ってしまうはずである。蔵書が複数の空間に分かれているなら、本を「正しく」並べる手間をかける余裕があるかどうか、自分に尋ねてみる方がよいであろう。

 たとえば、図書館のように内容に従って本を分類して排列する場合を考えてみる。個人の蔵書は、図書館の蔵書とは異なり、原則として、所有者自身の必要にもとづいて集められた本からなっているはずである。したがって、すべての本は、所有者にとって使う可能性がある。ところが、蔵書を保管する書架が複数の空間にあり、しかも、本が内容別に分類、配列されているときには、どうしても、「使う本が別の部屋にあり、取りに行かねばならない」という事態を避けられない。そのため、本を取りに行くため、あるいは、本を戻すために席を立つことが面倒くさくなり、時間の経過とともに、本の配列が乱れることになる。配列方法が違っても、事情は基本的に同じである。複数の本を同時に並行して使用することがなく、書架からの本の出し入れの頻度が低い――つねに「何もないテーブルの上に本が1冊だけ」という状態――読書スタイルならばともかく、一般に本の分類製整理は維持に手間がかかるものであり、放っておけばエントロピーが増大する傾向にあるという事実は、つねに考慮すべきであるように思われる。

一度書架に収めたら、本の位置は大きく変えない方がよい

 蔵書が1つの空間に収まらなくなるとともに、蔵書の分類整理、および分類整理された状態の維持にかかる手間は飛躍的に増える。私の場合、蔵書は、自室ともう1つの部屋の合計2つの部屋におよそ20%対80%の割合で分かれている。したがって、もう1つの部屋の方にある80%については、分類整理を諦めている。

 ただ、これら自室の外にある本については、書架に収める際、棚の1つひとつに番号([1][2][3][4][5]……)を振り、本をブクログに登録する――私は、蔵書の管理にブクログを使っている――とき、本が収まる棚の番号を「タグ」欄に記入しておく。ブクログを見ることで、どの本がどこにあるか、ただちにわかるようになっている。自室の書架の棚には番号を振らず、自室にある本には[0]というタグを一律につける。よほど広い部屋でないかぎり、見渡すことで、目指す本がどこにあるかすぐにわかるからである。

 ただ、別の部屋にある本を自室に持って来たら、ブクログを開いて「タグ」欄に記入された棚番号を[0]に変更する作業は必要であり、逆もまた同様である。そして、このような作業をしばらく繰り返していると、やがて、本を移動させる機会は減る。(面倒くさいからである。)最終的に、使用頻度の高い本が手もとに自然に集まり、あまり使わない本は別の部屋の書架に収まることで、本を運ぶ手間は少なくなって行くはずである。

 なお、自室にある本は、場所を頻繁に変更しても大した問題は起こらないが、別の空間にある書架に収められた本は、よほどの必要がないかぎり、位置を大きく変えない方がよいと私は考えている。というのも、本の位置を書架の中の位置や背表紙の配列で記憶していることが多いからである。「あの本はたしか『七つの習慣』と『サテュリコン』のあいだにあったはずだ」「あの写真集は、あの書架の下の方から飛び出していたはずだ」などの空間的な記憶は、本を素早く見つける手がかりとなる。

 とはいえ、次のことには注意が必要である。すなわち、見渡すことのできる範囲にない蔵書の分類整理はせず、本が収められている棚の番号のみを記録しておくこと、そして、これらの本については、できるかぎり位置を変えないこと、このような点に注意して蔵書を管理しても、書架の眺めは決して美しくならない。「美しい書架」を作ることを最優先にするのなら、「維持がラクである」とか「使いやすい」とか、このような実際的な観点は度外視し、美しい本を美しく並べる手間を惜しんではいけないのであろう。