AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:プライバシー

220/365+1 Tax Return

個人番号制度は、表向きは税負担の公平のために導入されたもの

 「マイナンバー」というのは、2015年から国民に割り当てられるようになった「個人番号」に政府が与えた「愛称」(?)である。

 忘れている人が多いかも知れないが、この個人番号制度は、1980年代に導入が検討され、しかし、烈しい反対に遭って姿を消した国民総背番号制度が形を変えて実現したものである。国民総背番号もマイナンバーも、国民一人ひとりを確実に識別することにより、税負担の公平を実現するのが制度の趣旨であり、具体的な仕組みが作られるに当たり、最優先で考慮されてきたのは税制との関係であった。このかぎりにおいて、制度には何ら問題はない。

 普段は個人番号のことなど考えていなくても、何らかの職業に就いている人なら、勤務先に個人番号を開示するため、1度はこれを使ったことがあるはずである。(もっとも、今のところは、個人番号を開示することを拒否しても、法律上の罰則はない。)

 とはいえ、個人番号がすべての国民に割り当てられても、政府が導入を目指している「マイナンバーカード」は、あまり普及していない。しばらく前、次のような記事を見つけた。

マイナンバー導入1年 カード取得伸び悩み8% - 共同通信 47NEWS

 私自身は、マイナンバーカードを取得したけれども、ブツとしてのカードを使ったことは、これまで一度もない。個人番号を必要に応じて開示すれば十分であり、カードをわざわざ使う機会はない。また、税制との関係では、個人番号がカードの形になっていることに必然的な理由はないように思われる。個人番号に対する関心が薄く、マイナンバーカードを取得しようと思う人が少ないのは、当然であると言うことができる。

「カードがあれば便利」は「カードがなければ何もできない」にいつでもすり替わる

 しかし、中には、個人番号に対して無関心であるというよりも、これを積極的に警戒している人もいるかも知れない。私自身も、政府が目指しているマイナンバーやマイナンバーカードの「普及」を強く警戒している。マイナンバーカードの「普及」というのは、行政サービスにおけるマイナバーの使用範囲の拡大に他ならず、それは、公共セクター(=政府や地方公共団体)において、個人番号にアクセスする権限を持つ者が増える増えることを意味するとともに、政府が税制以外の広い範囲において国民を監視することを可能にするものでもあるからである。

shredder-779861_1920
 現在、政府は、マイナンバーカードで「できる」ことの範囲を広げ、「利便性」を高めることにより、カードの「普及」を目指しているように見える。しかし、私は決して「陰謀論者」ではないが、これは明らかな罠であるとひそかに信じている。

 現在のところはまだ、「カードを使って受けられる行政サービス」は、カードを使わなくても受けることができる。つまり、個人番号をいちいち開示しなくても行政サービスを受けることが可能である。しかし、たとえば、マイナンバーカードが保険証を兼ねるようになったら、私たちは、医療機関――これは、「公共セクター」ではない――に対し個人番号をさらすことになる。

病院でもマイナンバーカード、保険証代わりに

 保険証とマイナンバーカードの両方を持つ必要がなくなることは、たしかに「利便性」を促進するかも知れないが、その代償として、私たちは、医療機関の受診に関するプライバシーを失うことになる。また、マイナンバーカードの交付をコンビニエンスストアで可能にするなど、個人番号が取り扱いに最高度の注意を必要とするものであることを考えるなら、問題外であろう。

マイナンバーカードで住民票など交付 コンビニや郵便局での扱い、総務省が働きかけ

 個人番号を国民に割り当てることは、それ自体としては、私は好ましいことであると考えている。しかし、現在は、「利便性」を「餌」にして個人番号の運用の範囲がなし崩し的に拡大しつつあり、この事態には強いおそれを抱いている。今はまだ「カードがあれば便利」であるかも知れないが、それほど遠くはない将来のある日、気づいてみたら、「カードがあれば便利」が「カードがなければ何もできない」にすべてが変わっていた、ということになるに違いない。

 行政サービスの多少の不便、多少の煩雑さは、プライバシーを守り、自由を守るためのコストであると私は考えている。「カードがあれば便利」という甘い言葉に乗せられ、マイナンバーカードを使うことは、「携帯電話とテレビとネットをまとめればお得になります」などという宣伝に乗せられ、1つの事業者に囲い込まれ、そこから逃げ出すことができなくなることと同じように、賢明に自由に生きたいのであれば、決して近づいてはならない罠なのである。


Evernote Goodies

Evernoteの迷走

 昨日、Evernote社は、社員が利用者のデータを閲覧することができるよう2017年1月からプライバシーポリシーを改訂すると発表した。

さよならプライバシー、Evernote社員が利用者のノートを閲覧可能に - Computerworldニュース:Computerworld

 しかし、当然のことながら、この発表は利用者の神経を逆撫ですることになり、批判がネット上に氾濫した。Evernote社は、批判をうけ、改訂を諦めたようである。

Evernote、ユーザーの反発受け「機械学習のためのノート閲覧」ポリシーを撤回。ユーザーによるオプトイン方式に変更へ - Engadget Japanese

 たしかに、これは、テロや戦争のような世界的な大事件ではない。しかし、現実にプライバシーポリシーが改訂されることになれば、Evernoteを普段から使っている者の生活にはそれなりに大きな影響を与えることは事実である。プライバシーポリシーの変更のニュースを聞き、Evernoteをそのまま使い続けるか、それとも、別の道を検討するか、悩んだ人は少なくなかったに違いない。

 Evernote社は、2008年にアメリカでサービスを開始し、日本には2011年に上陸した。もちろん、Evernote社がサービスを始めたころには、複数の端末でメモを同期するサービスには競合する企業がなかった。しかし、このサービスでEvernote社が大きなシェアを持っているのは、そのためではない。

 グーグル、アップル、マイクロソフトなどと比較すると、Evernote社は、ユーザーのプライバシーを守ることについて真剣な態度を示してきた。Evernoteの成功をうけ、他の企業が類似のサービスを始めても、また、サービスの改悪や料金の値上げなどが繰り返されても、Evernoteの熱心な利用者が離れて行かなかった最大の理由は、プライバシーの問題に対しEvernote社が特別に神経質であったという点にある。また、これが、熱狂的な「信者」を増やしてきた理由でもある。

 私自身、Evernoteが日本に上陸してからすぐに使い始めた一人であるが、この1年か2年くらいのあいだ、類似のサービスに乗り換えることを何回か考え、しかし、結局、Evernoteを使い続けてきた。それは、やはり、プライバシーに関するEvernote社の方針を評価していたからである。今回の騒動をうけ、Evernoteに対する信用を失い、離れる利用者は増えるであろう。少なくとも、利用者の多くは、Evernoteにデータを預けることに慎重になるに違いない。

便利と安全のトレードオフ

 誰でもわかるように、クラウドコンピューターを使ったサービスでは、便利であることと安全であることはトレードオフの関係にある。

 Dropboxは、有名なオンラインのストレージサービスであり、利用している人は多いであろう。利用者が多いのは、使い方が簡単だからである。しかし、便利に使うことができる分、このDropboxには、セキュリティ上の懸念がつねに付きまとう。

 これに対し、たとえば、同じサービスを提供しているSpiderOakは、利用者のプライバシーを全面的に保護することを売りものにしている。(エドワード・スノーデンが使用を推奨するサービスでもある。)けれども、その分、使い勝手は悪くなることを避けられない。SpiderOakの場合、データを同期することのできる端末の数に制限はないが、Dropboxとは異なり、事前に登録した端末からしか使うことができない。10年近く前にサービスが始まったにもかかわらず、ユーザーが必ずしも増えないのは、不便だからであろう。

 私自身、2011年からEvernoteを使ってきたけれども、今回の事件をうけ、ある程度以上のセキュリティを必要とするデータをすべてEvernoteから引き揚げ、自宅のNAS(=ネットワークHDD)でこれを管理することに決めた。機器の管理を自分で行わなければならないけれども、自宅のLANを家族以外の誰とも共有していないのであれば、NASは――家族の誰かのいたずらでデータが消去されてしまうことでもないかぎり――セキュリティ上の問題とは無縁だからである。

「デジタル汚屋敷」を解消し、ダウンサイジングするのが一番安全

 しかし、もっとも安全なのは、データを減らすこと、自分が掌握可能な範囲に情報量を制限することであろう。

 いつか使うかも知れない情報であるという理由でEvernoteに無差別に放り込んだり、自分が作った書類を何もかもDropboxに放り込んだりする……、私は、ながいあいだ、このような作業を漫然と繰り返してきた。そのせいで、決して見返されることのない膨大なデータがEvernoteやDropboxの底に澱のようにたまっていた。EvernoteやDropboxに保存、保管したデータを検索していると、何のためのデータなのかまったく思い出すことができないものに出会うことが少なくない。

 オンラインストレージは、自分が覚えていられない情報を蓄積させる「第二の脳」などと呼ばれている。「第二の脳」というのは、大いに結構な響きであるけれども、よほど几帳面にデータを整理しないかぎり、その実態は「デジタル汚屋敷」と呼ぶのがふさわしいものとなる。

 「第二の脳」に記録して自分自身は忘れたつもりになっていても、情報が失われたわけではなく、自分の記憶を――しかも、利用不可能な形で――圧迫し続ける。ゴミを見えない空間に放り込めば、さしあたり目の前からは消去されるが、ゴミが消えるわけではなく、また、ゴミを見えないところに放り込んだという記憶が消えることもない。「汚屋敷」の問題は、ゴミによって空間が占領されることにあるのではなく、むしろ、ゴミを見えないところに蹴り込んだ事実が住人の精神衛生をむしばむ点に求められるべきである。EvernoteやDropboxの内部が「デジタル汚屋敷」になっているのなら、情報量を減らすことは、安全を実現するためであるばかりではなく、心の余裕を作り出す上でも大切な作業となるのではないかと私はひそかに考えている。


↑このページのトップヘ