The Asahi Shimbun Building (1968-2013)

「ニューズウィーク」でアムウェイの記事広告を見つける

 昨日、ニューズウィーク日本版のウェブサイトを見ていたら、次のようなページが目にとまった。

人々に選ばれる製品を生む「アムウェイ」の哲学

 ツイッターを見ると、このページを見た人の多くが、これを「ニューズウィーク」自身の記事と勘違いし、「ニューズウィーク」に批判的な態度をとったことがわかる。これは、「ニューズウィーク」の記事と同じフォーマットで書かれ、しかも、「最新記事>ビジネス」というカテゴリーに入っているから、記事であると勘違いさせる意図があったのかも知れない。ただ、タイトルの右下に「PR」と記されており、これが「記事」ではなく「記事広告」であることは、一応わかるようにはなっている。また、「マルチ商法」で有名な企業を褒める記事が「ニューズウィーク」に掲載されるはずはない。冷静に考えるなら、これは誰でもわかることであろう。

 それでも、私は、アムウェイの記事広告を「ニューズウィーク」が掲載したことに私は少し驚いた。「ニューズウィーク」の発行部数は必ずしも多くはないが、それでも、日本で一般に流通している日本語の週刊誌としてはもっとも高級なものの1つとして、他には代えられない意義がある。私自身は、ささやかな応援のつもりで、数年前から「ニューズウィーク」を定期購読している(年に2万円弱)。もちろん、最近は、紙媒体の方にも記事広告が増えているが、紙媒体の方では、記事広告は、本来の記事とは異なる活字で印刷されている。だから、紙媒体の方にも上の記事広告に相当するものが掲載されているけれども、こちらは、ページを開いた瞬間に広告とわかる。とはいえ、(たとえ記事広告であるとしても、)アムウェイの広告を掲載しなければならないということは、よほど部数が落ちているのかも知れないと思い、暗澹たる気持ちになった。部数がさらに落ち込んで廃刊になどならないとよいのだが……。

ニュースは無料ではない

 ところで、私は、今年の春から「朝日新聞」の電子版を購読している。月額3800円である。電子版に3800円は割高に見えるけれども、電子版を有料で購読すると、朝日新聞が提携する6つの有料サービス(食べログ、クックパッド、ジョルテカレンダー、ジョルダン、Zaim、@cosme)のうち3つを無料で利用することができる――私はどれも使っていないが――から、このようなサービスを使う可能性があるなら、むしろ割安ということになるのかも知れない。

 念のために言っておくなら、私は、「朝日新聞」が好きではない。あの「左の方しか向いていない」ような論調には、強い違和感を覚える。それでも、私が購読料を支払って電子版を契約しているのは、ニュースが無料であってはならないと信じているからである。数日遅れでかなりの数の記事がネット上にアップロードされ、無料で読むことができるにもかかわらず「ニューズウィーク」を定期購読しているのも、同じ理由による。

 現在では、ヤフーのトップページに掲載されている「トピックス」を眺めたり、グーグルニュースを開いたり、あるいは、スマートフォン上で動くキュレーション・アプリを使ったりすることにより、ニュースにアクセスする人が多いはずである。特に、50歳以下の世代は、「ニュースがタダ」であると思っている割合が高いのではないかと私は想像している。しかし、「ニュースがタダ」という認識は決定的に誤りである。

 新聞紙に印刷され、宅配される新聞を購読することが必要であるわけではない。しかし、ニュースが作られ、私たちの手もとに何らかの仕方で届くまでには、相当なコストがかかっていることは確かである。「ニュースがタダ」であるという誤解が蔓延すると、「国民の知る権利」――この権利を私たちの代理として行使しているのがマスメディアである――が損なわれ、公論の形成が阻碍されるおそれがある。

新聞や雑誌や書籍を買うことは、公論の形成や文化の再生産のために献金すること

 同じように、雑誌や書籍を読みたいと思うのなら、しかるべき対価を支払うのが、たとえ内容に不満があるとしても、当然の義務であると私は考えている。新聞、雑誌、書籍に付けられている値段というのは、新聞1部、雑誌や書籍1点の価格ではない。それぞれの値段は、文化を持続的に再生産し、民主主義社会を維持し健全に発展させるため、読者に負担してもらいたいコストなのであり、対価の支払いは、一種の「献金」に他ならない。

 書物を図書館で借りて読むのではなく、自分のカネで購うことは、文化の再生産への主体的な参入を意味する。ネットニュースを無料で読むのではなく、新聞や週刊誌を購読することは、公論の形成を主体的に支えるという意思表示なのである。

 たしかに、新聞がつねに正しいわけではないし、雑誌や書籍に記されたことのすべてに価値があるわけではない。それでも、言論の世界を全体として見るなら、それぞれの媒体がたがいに他を批判したり修正したりすることにより、そして、このような批判や修正が公衆の前で遂行されることにより、公衆のあいだでの公論の形成や文化的な生産物の評価もまた可能になる。これが公論の形成の、あるいは、文化の再生産の理想的なプロセスである。だから、いずれか1つの媒体、いずれか1冊の本だけを取り出し、「偏向」「無意味」「反日」などの言葉をこれらに投げつけてはならないのである。

 現在の社会をよりよいものにすることを願うのなら、あるいは、文化的な生産物を長期にわたって享受することを願うのなら、そのコストをみずから負担することは、万人に課せられた義務である。「日本人は水と安全はタダだと思っている」という名言がある。水も安全も決してタダではないし、タダであってはならないものであるが、「ニュース」もまた、タダではないし、タダであってはならないと私は考えている。