源光庵

モノが消去されればそれでよいのか

 去年の今ごろ、次の本を読んだ。

ぼくたちに、もうモノは必要ない。

  「ミニマリズム」(minimalism) というのは、何年か前にアメリカで生まれたライフスタイルの流行であり、これを実践する者が「ミニマリスト」(minimalist) と呼ばれている。持ち物を最小限に限定したシンプルな生活を理想として目指すものである。

 たとえば、すでに一昨年には、次のような本が日本語に翻訳されている。

minimalism 30歳からはじめるミニマル・ライフ

 アメリカでは、この本の著者たち、

The Minimalists

あるいは、下のようなブロガーがミニマリストとして有名であり、

Becoming Minimalist

ミニマリズムに関するドキュメンタリー映画も作られている。

Minimalism: A Documentary About the Important Things

 私自身、本を始めとする大量の持ち物につねに悩まされており、ミニマリスティックな生活には大きな憧れを持ちながら、片づけに励んでいる。

 ただ、しばらく前、最初に掲げた本の著者の次のインタビューを聴き、ミニマリストの生活について、ある疑問を持った。


 このインタビューにおいて、著者の佐々木氏は、持ち物を処分するにあたり、すべて写真に記録したと語っている(9分すぎから)。これに対し、インタビュアーは、すべてを写真に記録していると、膨大なデジタル情報が整理されないまま増えて行くのではないか、デジタル情報の氾濫と表裏一体になって初めてミニマリズムが実現しているのではないかという疑問を口にしている。佐々木氏は、デジタルデータがいくらあっても気にならない、と意味のことを語り、インタビュアーの疑問を一言のもとに斥けている。

 しかし、これは、ミニマリズムの核心にかかわるきわめて真っ当な問題提起と見なされねばならない。つまり、目の前にあるものを消去しても、脳内を「汚屋敷」の状態で放置しているのなら、これは本当の意味におけるミニマリズムと言えるのであろうか、というのが私の疑問である。

本当のミニマリズムは「デジタル汚屋敷」を解消しなければ実現しない

 目の前から物理的なモノが消去されても、見えないところにそれが隠れているだけであるなら、隠れている場所がサイバースペースであり、モノが三次元空間を占領しないとしても、そのモノは、私の注意力を奪い、記憶を圧迫し続ける。所有物は、三次元空間を占領しているかどうかに関係なく、所有されているかぎり、私の世界を形作る要素であり続けるのである。

 したがって、所有物を占有するスペースを「デジタル化」という形で圧縮するのは、ミニマリズムでも何でもない。それは、場所を占領するものを目の前から消しているにすぎず、汚屋敷に住む老人のふるまいと同じであり、サイバースペースの「汚屋敷」、いわば「デジタル汚屋敷」を作っているのと同じことである。

 むしろ、ミニマリズムが目指すべきであるのは、不要な記憶を消去することであり、そのためには、捨てると決めたモノを写真に記録するなど、決してしてはならない。写真に記録したら、今度は、写真をどのように保管し整理すべきかという問題が頭を悩ますことになるからである。思い出すよすががなければ、不要なこと、思い出したくないことの記憶はやがて失われて行く。だから、何を捨てたか、手帳に書きとめておく程度ならかまわないとしても――手帳に書きとめる作業は、写真撮影のように簡単ではないから、本当に書きとめるに値するかどうかを否応なく考えることになる――「モノとして手もとに残すもの」と「痕跡を残さずに処分するもの」のいずれかにすべてを分類すべきであろう。