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虚偽にもとづく政治の拡大

 ジョン=スチュアート・ミルは、政治哲学上の主著に当たる『自由論』において、さまざまな種類の自由が社会において保障されることの意義を強調する。そして、よく知られているように、ミルがもっとも重要な自由と見なすのは、思想信条の自由であり、言論の自由である。

 ミルによれば、これは、健全な社会の発展に不可欠な自由であり、すべての自由の基礎となるものである。なぜなら、1つの問題に関し異なる複数の意見を知ることにより、これらを比較し、よりよいものを選び取ったり、みずから新たな意見を表面したりすることが初めて可能になるからである。少数意見が無視されてはならないのは、そのためである。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 しかしながら、言論の自由が実現しても、現実の社会は、ミルが期待したとおりの姿を私たちに見せてはいない。むしろ、社会の多様性が増大するとともに、「見たくないものは見ない」「聴きたくないものは聴かない」というかたくなな態度、そして、このような態度を是認する一種の開き直りが社会のいたるところに見出される。

 もちろん、これは、日本に固有の傾向ではない。外国、特に先進国でも事情は同じである。いや、アメリカの大統領選挙、ヨーロッパにおける極右政党の台頭、イギリスのEU離脱などを見れば、これらの国々の方が、事態は深刻であるようにも思われる。アメリカの大統領選挙の共和党の候補者であるドナルド・トランプの場合、これまでの選挙戦での公的発言の少なくとも70%が完全な嘘、残りの30%もほぼ嘘と評価されており、また、この点に関する認識は、マスメディアを介してアメリカでは広く共有されているはずである。つまり、トランプが「誠実」という美徳とは無縁の存在であることは、誰の目にも明らかである。それでも、ある程度以上の有権者が彼を支持していることもまた事実なのである。

All of Donald Trump's Four-Pinocchio ratings, in one place

人間は言論の多様性に耐えられるのか

 このような状況を眺めていると、私たちは多様な言論というものに耐えられないのではないか、言論の自由など望んでいないのではないか、という不穏な予想が心に浮かぶ。

 たしかに、中国やロシアを始めとする独裁国家には、言論の抑圧に抵抗する活動を続けている人々がいる。このような抵抗は、当然であり、また、貴重でもある。ただ、このような人々が要求するのは、自分たちの意見を公然と語る自由である点は忘れてはいけないと思う。彼ら/彼女らは、ミルが望んだような「言論の自由」一般を要求しているわけではないのである。

 調べればすぐに露見するような嘘であっても、心地よく響くならばこれを信じるという態度が政治に蔓延している。しかも、この嘘は、長期的な展望にもとづく嘘ではない。短期的、刹那的な効果のためだけに作られた単純な嘘である。そして、このような嘘が作られ、受容される反知性主義的な政治風土が「真理にもとづかない政治」(post-truth politics) とか「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) と呼ばれているものである。前に書いたように、日本では、共産党がこれを代表している。

「真理にもとづかない政治」と民主主義の危機 : アド・ホックな倫理学

甲状腺がん、線量関連なし 福島医大、震災後4年間の有病率分析 「真理にもとづかない政治」とは、post-truth politicsの訳語である。日本では、イギリスで行われたEU離脱の国民投票の際、「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) という言葉が何回かマス


 1つの言論空間において多様な意見が互いに影響を与え合いながら、全体として合意形成へと向かってゆっくりと進んで行くプロセスの前提として「言論の多様性」を理解するなら、この意味における言論の多様性は、少なくとも現在の日本には見出すことができない。今のところ、わが国の言論空間では、多種多様な意見が混じり合うこともなく、影響を与え合うこともなく、ただ併存しているだけであり、それぞれが信者のような存在によって支持され再生産されているにすぎない。この傾向は、最近は、左翼において特に顕著であるように見えるけれども、右翼に関しても、事情が大きく異なるわけではない。自分の意見に耳を傾けるのが信者だけであり、何を語っても批判的に吟味される可能性がないのであるなら、事実との関係を考慮することなど、いささかも必要ではないことになる。必要なのは、信者を満足させることだけだからである。

 虚偽と無知にもとづく言論が冷静な対話の余地を奪い、これが言論の質を低下させ、劣化した言論は、耳に心地よい話しか受け付けない信者を増やす……、この悪循環が日本の言論空間をボロボロにしているように思われる。しかし、残念ながら、この悪循環から抜け出す道もまた、私たちは閉ざされているように思われるのである。