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 昨日の新聞に、下のような記事が載っていた。

「重大事態」明確化を=被害調査に指針も-いじめ対策で提言・文科省会議:時事ドットコム

 何が「いじめ」に該当するのか、その基準を明文化することを文科省の「いじめ防止対策協議会」が決めたようである、上の記事にあるように、滋賀県大津市で5年前に起った中学生の自殺をきっかけとして「いじめ防止対策推進法」が制定され、いじめを防いだり、監視したりする体制が整い始めているようであり、今回の決定は、いじめの防止のためのさらなる対策の1つとしての位置を占める。

 しかし、このような対策をどれほど試みても、学校があるかぎり、「いじめ」がゼロになる可能性はないと私は考えている。なぜなら、「いじめ」というのは、児童や生徒が身を置く「学級(=クラス)」というシステムに原因があるからである。学級は、変化に乏しい「ムラ社会」であり、流動性はかぎりなくゼロに近い。中学校なら、入学から卒業までの3年間、1学年の構成メンバーの入れ替えはほとんどまったく起こらない。そして、1つの学級の内部では、30人から40人の子どもがメンバーの入れ替えがない状態で(少なくとも)1年というながい期間を過ごす。当然、そこには、「放っておかれる権利」などというものはなく、誰もが誰もを監視する恐ろしく窮屈な社会が生れる。周囲との微妙な差異が「いじめ」のきっかけになるわけであるが、この周囲との微妙な差異は、万人に具わるものであり、また、万人が具えていなければならないものであるにもかかわらず、周囲の注意を悪い意味で惹くことを避けるためには、自分と周囲との差異をできるかぎり消去し、匿名のone of themとしてふるまうことが必要となる。誰もが「いじめ」の標的となりうる以上、「いじめ」がまったく起らないなどということは、現実にはありうべからざることなのである。

 「いじめ」を完全に解消しようと思うなら、たとえば、「学級」や「学校」という単位を解消する、あるいは、入学から卒業まで同じ学校にとどまる児童、生徒を作らないよう、裁判官の転勤と同じように、(たとえば生徒、児童を無作為抽出し)近隣の学校への転校を定期的に繰り返させる制度を作るなど、教室内部の流動性を高くする以外に道はないであろう。

 もちろん、現実に「いじめ」の標的になった子どもの心境や事情は区々であり、全員がムラ社会から逃れることを願っているわけではないであろう。ことによると、ムラの内部で居心地よく過ごすことを望む者がいるかも知れない。ただ、学級や学校というのが本質的にムラ社会であるという事実を示し、そして、ここから逃れるという選択肢を子どもに与えることは、生徒や児童の精神衛生にとってきわめて重要であるように思われる。