Professor Kicia

メガネは道具かアクセサリーか

 今日、メガネを買った。「買った」とは言っても、代金を支払ったのは10日以上前のことであり、今日は、レンズが入ったメガネを店で受け取ってきたのである。

 代金を払ってから実際に手にするまでに――いや、「顔にするまでに」と言うべきか――10日以上かかったことから明らかなように、私がメガネを手に入れたのは、量販店や核安メガネ店ではなく、どちらかと言うとお洒落なフレームを扱っている「普通の」メガネ店である。

 「何をメガネくらいで」と思うかも知れないが、私にとって、今回のメガネを買うのには、一大決心を必要とした。

 私は、中学生のときにメガネとの縁ができてから、現在まで、複数のメガネを同時に使うことはなかった。使っているのはいつでもどこでも同じ1つ、そして、この1つが壊れると、代わりになるものを新たに買うことを繰り返してきた。(ツルが折れて使えなくなるのが普通であるが、以前、一度だけ、着用して外を歩ているときに、両方のヒンジのネジが同時に外れてメガネが解体して落下したことがある。目の前から急にメガネがなくなり、驚いたのを今でも覚えている。)

 今日まで使ってきたメガネは、今から7年くらい前に買ったものであり、私にとっては5代目に当たる。幸いなことに、このメガネは、少し傷んではいるが、今のところ壊れる気配はない。だから、今回、私は、使用不可能になったメガネに代わるものを手に入れたわけではない。

まったく違う型のメガネを初めてつけるのは冒険ではあるが……

 実は、しばらく前から、メガネの形が顔に合っていないのではないかという疑念が心に浮かび、そのために、私は、何となく落ち着かない日々を送っていた。気のせいかも知れないが――気のせいであることを願う――街を歩いていると、向こうから歩いて来る人がみな私を見て驚いたような顔をしているように感じられることもあった。そこで、今の私のメガネが年齢や顔つきにふさわしいものなのかどうか、先入見なしに検討してみることにした。

 私は、今まで合計5つのメガネを使ってきたが、これらはすべて、金属製のフレームの「ウェリントン型」のメガネである。メガネを変えるたびに、フレームやレンズのメーカーが変わり、フレームの色が金、銀、あるいは微妙なチタン色(?)などに変化することはあっても、基本的な輪廓はつねに同じであった。私自身、根本的に違うものを試すなど、考えてみたこともなかった。30年以上もメガネと付き合ってきたにもかかわらず、メガネは、私にとっては、万年筆やパソコンと同じ仕事の道具であり、デザインの観点からメガネを「選ぶ」など、思いもよらないことであった。

 しかし、今回、私は、眼鏡店で相談し、ウェリントン型のものを選ばなかった。新しく手に入れたメガネは、いわゆる「ボストン型」である。ボストン型のメガネでは、メガネをかけた顔を正面から見たとき、メガネによって覆われる面積がウェリントン型の場合よりも小さくなる。フレームの形もまた、ウェリントン型とは異なり、基本的にマルである。(もっとも、ジョン・レノンのメガネのような完全なマルではない。あれは「ラウンド型」と呼ばれているようである。)私の知り合いが新しいメガネをつけている私を見れば、真っ先に、メガネがいつものものと違うことに気づくはずである。メガネを換えることにより、周囲が私について抱く印象もまた変わる可能性があり、すでにこれだけでも、メガネの形がずっと同じだった私のような者には、まったく新しいメガネは大きな冒険となる。

 それでも、年齢(あるいは社会的な立場)にふさわしいメガネを使うことは、身につける他のものと同じように、大切なことであるように思われる。20代や30代なら、安物のメガネであってもかまわないが、ある程度以上の年齢になり、ある程度以上の収入があり、ある程度以上の地位を占めているのなら、メガネもまた、自分の属性にふさわしいものにすべきではないのか……、このように考え、私は、あえて冒険することにした。新しいメガネを使っているうちに、メガネに合わせて表情や身振りにも何らかの変化が認められるに違いない。しかし、新しいメガネによって何かが変化するなら、これもまた楽しみたいと思う。

そのメガネは年齢と地位にふさわしいか

 何年か前のある日、年長の同僚と一緒に入学試験の監督をしたことがある。私は、この同僚について、身だしなみに気を遣っているという印象を持っていた。実際、その日も、この同僚は、それなりの身だしなみを整えていた。

 ところが、試験時間中、この同僚がメガネを外したとき、フレームのツルの部分に、安売り店のロゴがチラッと見えた。60歳を超え、私よりも多くの給与を得ているはずのこの同僚が、しかし、メガネだけは信じられないほどの安物を使っていることに、私はいくらか驚いた。そして、これからは、安売り店でメガネを手に入れることはせず、自分に合ったものを自由に捜す手間を惜しまないようにしようと自分に誓った。今回の新しいメガネは、この決意の延長上に位置を占めるものである。

 自分の年齢、所得、外見、地位などにふさわしいものを手間をかけて捜し、これを身につけることは、周囲からは気づかれぬもの、目立たぬものであるとしても、社会生活における義務に属するのではないか、いや、それ以前に、自尊心(=自分に対する尊敬)の条件の1つなのではないか、私はこのように考えている。