AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:ライフハック

236/365: A Sticky Situation

 何か思いついたら、何でも記録しておくのはよいことであると一般には考えられている。私自身は、原則として手帳やメモ帳を使わないから、記録の手段として使うのは、A6版(つまりはがき大)のメモ用紙か、デジタル機器のいずかとなる。実際、外出時についでに済ませるべき買い物、調べなければならない資料や文献のタイトル、執筆する予定の論文に放り込むアイディア、さらに、何となく気になった新聞記事の内容まで、何でも書きとめておく。(下に続く)

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手帳を使わずメモ用紙で予定を管理する 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

手帳やメモ帳は使わない スケジュールを記入する小さな冊子は、一般に「手帳」と呼ばれている。これは、社会において何らかの役割を担っている大人なら、当然、少なくとも1人に1冊は持っているべきもの、いや、持っているに決まっているものであると普通には考えられている




「デジタル汚屋敷」からの脱出について あるいは、すべて忘れてしまうことが究極のミニマリズムである : アド・ホックな倫理学

モノが消去されればそれでよいのか 去年の今ごろ、次の本を読んだ。ぼくたちに、もうモノは必要ない。 「ミニマリズム」(minimalism) というのは、何年か前にアメリカで生まれたライフスタイルの流行であり、これを実践する者が「ミニマリスト」(minimalist) と呼ばれてい


 ただ、ライフハックや仕事術に関する本の著者の多くが推奨するのとは異なり、私は、このようなメモを長期間は保存しない。

 買い物の内容を記したメモなら、買い物が終われば捨ててしまう。また、資料や文献にアクセスしたら、タイトルだけが記されたメモの方は廃棄する。これは当然であろう。このようなメモをいつまでも保存するのは、犬が自分の抜け毛を背負って暮らすのと同じである。

 また、私は、何かを思いついたとき、または何かが気になったときに、これをメモに書きとめておくことがあるけれども、これもまた、無期限に保存することはなく、一定の期間が経過したものが目にとまったら、廃棄してしまうことが多い。少なくとも、目にとまった時点で、今後も保存するかどうか必ず検討することにしている。

 たしかに、有名な外山滋比古の『思考の整理学』ジェームズ・W.ヤングの『アイデアのつくり方』は、アイディアを書きとめたら、それをしばらくのあいだ放置し熟成させることを奨めている。しかし、これは、何に使うのかよくわからないまま、何年、あるいは何十年も保存しておくことを意味しないはずである。

 もちろん、アイディアを書きとめたメモの賞味期限は、人によってまちまちのようである。中には、アイディアに賞味期限などなく、メモが5年前のものであっても、あるいは、20年前のものであっても、これを何らかの仕方で活用できる人がいるかも知れない。

 ただ、私自身の場合、アイディアの賞味期限はせいぜい1年か2年である。メモ用紙に書いたものでも、あるいは、デジタルデータとしてパソコンにストックしておいたものでも、少なくとも年に1回は行きあたりばったりに点検し、不要と判断したものは、廃棄/削除してしまう。1つのテーマについてずっと考えていると、ある時点で「世界史的な大発見」だと思って書きとめたメモを1か月後に見直し、バカバカしさにあきれるとともに、そのアイディアに感激した自分が恥ずかしくなることは珍しくない。

 先日、片づけをしていたら、思いついたことを書きとめるために大学院生のころに使っていた小さなメモ帳を見つけ、開いてみたのだが、当時の自分の「バカさ加減」を確認したこと以外には何の成果もなかった。(その間、それなりに成長したわけである。)

 なぜ昔のアイディアをいつまでも保存し、これを有効に使うことができる人がいるのか、不思議で仕方がない。少なくとも私の場合、アイディアには明瞭な賞味期限があり、この賞味期限を過ぎても廃棄されなかったメモの類は、情報ではなく単なるノイズになってしまうのだが……。


With or Without You

情報には賞味期限がない

 食べものには賞味期限や消費期限がある。それは、数字としてパッケージに印刷されていることもあれば、生鮮食品のように、目で見て確認しなければならないものもある。しかし、いずれの場合にも、ある限界を超えて時間が経過すると食べることができなくなるという点では同じである。

 しかし、情報には、明瞭な賞味期限がない。もちろん、比喩的な意味において「情報の賞味期限」なるものが語られることはあるけれども、この場合の「賞味期限」とは、情報そのものの賞味期限ではなく、当の情報がもともと位置を占めていたコンテクストの賞味期限として考えられるべきである。2012年に発売されたアップルコンピュータの新製品に関する情報は、現在ではその当初の価値を失っており、この意味において「賞味期限切れ」であると言うことはできる。しかし、2012年に何らかの製品がアップルコンピュータから発売されたという事実が事実であるかぎり、この製品の情報は、この事実に関連するものとして、もとの価値とは別の価値を与えられて生き残り続ける。食品が熟成したり発酵したりするのと同じように、情報もまた、異なるコンテクストの中で新しい生命を与えられるのであって、賞味期限が切れたとしても、情報が情報ではなくなるわけではない。これが情報の整理に関する厄介な点である。

情報のバッファーとしての「あとで読む」スペースは、情報の事実上の墓場となる

 ところで、ネットで何かを調べると、当然、非常にたくさんの情報が手もとに集まる。しかし、このような情報のすべてをその場で処理し消化することができない場合、私たちは、これを何らかの仕方で保存することを考える。保存にはいくつもの手段があるけれども、もっとも安直かつスマートと普通に考えられているのは、PocketInstapaperに代表されるオンライン上のブックマークサービスであろう。これらのサービスには、URLを保存するばかりではなく、ウェブページをアーカイブとして保存する機能が含まれている。ページを見つけた時点で、「あとで読む」――Pocketの以前の名称はRead It Laterであった――ことに決めたページのURLをこれらのサービスを使って一時的に保存している人は少なくないと思う。このようなサービスには、流入してくる情報のバッファーとなることが期待されているわけである。

 とはいえ、これもまた多くの人が経験していることであろうが、これらのサービスを使って保存したページのかなりの部分は、最終的に読まれることがない。保存されたURL、しかも、なぜ保存されているのかもはや思い出すことができないような大量のURLが蓄積され、何日も、何週間も、あるいは、何ヶ月も放置されていることが多いはずである。

 もちろん、このような事態になるのには、明白で正当な理由がある。すなわち、もしネットで見つけたページが重要であることが直観的にわかっているのなら、どれほど忙しくても、いや、忙しいほど、「あとで読む」などはせず、「すぐに読む」はずだからである。私が「すぐに読む」のは、相対的に重要な情報が含まれている可能性が高いページなのである。そして、このことは、「あとで読む」ために私たちが保存するページには、重要な情報が含まれる可能性が低いことを意味する。保存しても、結局、読まれないまま放置されるのは、読まないことによる損失が少ないと私が判断してしまっているからなのである。

 見つけたときに目を通さなかったページを保存しておいても、それは、単なる無駄な手間に終わる可能性が高い。つまり、「あとで読む」ために保存するようなページのURLは、最初から保存する必要がないページなのである。

 私自身は、「あとで読む」ものはPocketにさしあたり保存することにしているけれども、ある程度の日数――おおむね1週間――のうちに読まなかったページのURLは、いずれ必ず読む予定があるものを除き――読まずにそのまま削除してしまう。それは、不要な情報であり、作業や仕事にとってノイズにしかならないものだったのである。

 以前に書いたけれども、メールについても事情は同じである。


受信箱にたまった未読メールが多い人ほど自由であるか : AD HOC MORALIST

Inbox Zeroは生活をせわしないものにする 毎日の仕事の中にデスクワークが少しでも含まれる人にとって、仕事に関係のあるメールから逃れることは事実上不可能であるに違いない。 しかし、メールの中には、すぐに返信しなければならないもの、返信するのに若干の作業が必要



 着信に気づいてすぐに読まなかったメールをあとで読む可能性はかぎりなく低く、読まずに削除しても、不利益を被る可能性はほとんどないのである。

Chris Overworked

Inbox Zeroは生活をせわしないものにする

 毎日の仕事の中にデスクワークが少しでも含まれる人にとって、仕事に関係のあるメールから逃れることは事実上不可能であるに違いない。

 しかし、メールの中には、すぐに返信しなければならないもの、返信するのに若干の作業が必要なもの、返信する必要はないがスケジュールをカレンダーに書き込む必要があるもの、ただ読んで内容を確認すればよいもの、さらに、そもそも読む必要がないもの、それどころか、なぜ送られてきたのかわからないものなど、多種多様なものがあり、このようなメールがすべて同じ1つの受信箱に集まってくる。

 もちろん、受信箱そのものを複数のフォルダーに分割することができないわけではないし、実際、メールを自動的に複数のフォルダーに振り分けている人は多いであろう。それでも、何らかの反応をしなければならない(かも知れない)メールが日々受信箱に届く。放っておけば、未読のメール、あるいは、読んだだけで返信していないメールが際限なく溜まって行くことに変わりはない。

 このようなことを避けるための1つの方法は、届いたメールを即座に、あるいは時間を決めて定期的に処理――ただ「読む」のではなく、「処理」するのである――して削除し、受信箱から消去することである。仕事の生産性向上をテーマとするブロガーのマーリン・マン(Merlin Mann) が提唱するInbox Zeroと呼ばれるテクニックがこれに当たる。

43 Folders Series: Inbox Zero | 43 Folders

(このようなテクニックは、単純な目標を掲げているけれども、細かい手順や作法が決まっているため、実際にはかなり面倒くさいのが普通であり、この点は、Inbox Zeroも同じである。)

 しかし、受信箱をつねにカラの状態に保つためには、どうしても避けられないことがある。それは、メールが運んでくる情報を基本的にすべて受け止めることである。メールが1日に10通しか来ないのであれば、それでもよいであろうが、1日に1000通もメールを受け取るなら、メールを選別し、不要なメールを削除するだけでも、仕事のためも貴重な時間がかなり無駄になるはずであるし、何よりも、生活が非常にせわしなくなるはずである。

 むしろ、受信箱にはメールが溜まるのに任せておき、読む必要がありそう――この「ありそう」という曖昧な基準が重要である――なものだけ選んで読む、という方が、よほど気楽であるように思われる。

未読メールを放置する度胸が人間を自由にする

 アメリカの週刊誌「アトランティック」で次のような記事を見つけた。

Why Some People Can't Stand Having Unread Emails

 受信箱にいくらメールが溜まっていても一向に気にならない人と、受信箱をつねにカラにしておかないと気が済まない人のそれぞれの調査、分析を試みた情報科学の専門家は、後者、つまり、メールをつねにチェックし、受信箱がカラにしておくことにこだわる人がこの作業に駆り立てられるのは、それが自己支配の一部だからであり、メールを読まず、情報を見落とすと、このような人は自己支配できていないと感じる可能性があると語っている。

 Inbox Zeroの信者にとり、受信箱に大量のメールを未読のまま放置し、読む必要が「ありそう」なメールだけをつまみ食いするというのは単なる「だらしなさ」の現われにすぎないけれども、上の記事が正しいとするなら、受信箱に大量のメールを残し、その大半をそもそも読まないことができるのは、むしろ、積極的な能力として評価されるのがふさわしいことになる。

 そもそも、それぞれのメールが読むに値するかどうかは、タイトルを見れば大体わかるものであり、たとえ読むべきメールを見落としたとしても、あるいは、読むのが遅くなったとしても、それが本当に重要なものであるなら、送った側が何らかの仕方でフォローしてくれるから、大ごとにはならないのが普通である。(そもそも、メールというのは非同期のコミュニケーションツールであるから、相手がすぐに読むことを前提にメールを送るなど、本来はありうべからざることなのである。)

 それどころか、メールをチェックする回数が少なく、受信箱に残る未読メールの数が多いほど自由であると考えることは可能であり、実際、下の記事にはそのように書かれている。

Inbox Zero is BS

 実際、読むに値するメールがどのくらいあるのか、また、メールに限らず、こちらの都合を無視して外から舞い込んで来る情報、依頼、連絡などのうち、真面目に受け止めるに値するものがどのくらいあるのか、自分の胸に手を当てて考えてみることは決して無駄ではないように思われる。


Lean Product Management

「時間管理が私たちの人生をダメにしている理由」

 今日、イギリスのガーディアン紙のウェブサイトで次の記事を見つけた。

Why time management is ruining our lives | Oliver Burkeman

 「時間管理が私たちの人生をダメにしている理由」という表題を持つこの記事は大変に長いのだが、その内容をごく簡単にまとめると、次のようにななる。

 産業革命以降、生産性の向上を目標として「時間管理」(time management) が試みられてきた。最初は、時間管理の対象は、製品を産み出すプロセスであったけれども、やがて、時間管理の範囲は、労働者一人ひとりの労働へと広がる。特に、19世紀末、フレデリック・テイラーがベスレヘム・スティール・ワークス社での実践にもとづいて労働者管理のシステムを開発してから、時間管理は、生産性向上の必要不可欠の手段と見なされるようになる。大雑把に言い換えるなら、労働から無駄を排除し、有限な時間の中に作業を効率よく詰め込むことが生産性向上の近道と考えられるようになったのである。20世紀後半以後に登場したいくつもの生産性向上のスキームーーGTDはそのもっとも有名なものである――はすべて、時間管理が生産性を向上させることを当然のように前提とするものである点において、テイラーの労働者管理法と何ら違いはない。しかし、20世紀末以降、「生産性」(productivity) や「効率」(efficiency) は、労働を評価する尺度であるばかりではなく、人生全体においてつねに考慮することが望ましい理想となり、この意味において「個人的」なものとなった。食事、余暇、デート、しつけなど、あらゆる点に関し「生産的」(productive) であることが追求されるようになり、生産性と効率が一種の強迫観念のようになったのである。しかし、人生から無駄を取り除き、Inbox Zeroの状態を実現しても、なすべきことから完全に解放されるわけではなく、むしろ、さらなるタスクと忙しさ、そして、一種の落ち着きのなさを生活に呼び込んだだけである。(Inbox Zeroとは、メールを受信箱に残さず、メッセージを受け取ったら即座に次の行動を起こすか削除するかのいずれかを選ぶことで生産性を向上させる方法である。この記事では、冒頭に、Inbox Zeroを提唱したマーリン・マン(Merlin Mann) のグーグルでの講演の様子が紹介され、後半では、同じマンが時間管理をテーマとする著作の執筆を宣言し、しかし、結局、執筆を断念した事情が記されている。)

ライフハックは人生を「楽しむ」ことを妨げる

 英語には「ライフハック」(lifehack) という言葉がある。これは、個人的な日常生活における生産性の向上を目指す試み全体を指し示すために使われているものである。ライフハックを形作るのは、作業を効率化し、作業に必要な時間を短縮し、そして、処理すべき他の新たな作業のために時間を確保するさまざまな工夫である。もちろん、ライフハックには、私たちの一人ひとりの生活の改善と人生の幸福が遠い目標として暗黙のうちに設定されているに違いない。

 日本やアメリカには、このライフハックについて著述を行う専従のブロガーやライターまでいる。生産性向上のティップスを考案し提案することを生業とするこのような特殊な人間が考えつくことは、同じような関心を持ち、同じような生活を送っている人間たちの役には立つのであろう。また、たがいのアイディアを褒め合ったり共有したりすることにもそれなりの意味があるのかも知れない。(「タスク」に対するフェティシズムを基礎とする疑似宗教のように見えないこともない。)しかし、このようにして産み出されたティップスは、平均的な生活を送る「普通の」人間の生活の質を改善することがないばかりではなく、仕事の効率化にすら大して役には立たないであろう。

 そもそも、上の記事が強調しているように、時間を効率的に使うことは、人生を幸福にするとはかぎらない。朝起きてから夜寝るまでの何もかもが「処理」の対象となり、さらに、睡眠すら効率的に生産的に処理されるべきものとなってしまったら、私たちが人生の中で通過するすべての時間は、未来のいずれかに時間が使われるべき何かのための準備として使われることになり、決して、人生を「楽しむ」ことができなくなってしまう。「楽しむ」ということは、何よりもまず、みずからの心を現在へと集中させ、1つのことをそれ自体のために行うことによって初めて可能となるものだからであり、「処理する」ことの対極に位置を占めるものだからである。


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「ライフハック業界」(?)は無視すべし

 「TO-DOリスト」を作ることは、タスク管理の手段の1つ、しかも、もっとも原始的な手段の1つであると普通には考えられている。「なすべき」(to do)ことを紙に箇条書きにすること、そして、終わったら線でこれを消すこと、TO-DOリストの使い方はこれで尽きている。

 もちろん、この原始的なタスク管理は、なすべきことの単なる箇条書きでしかないから、それぞれの事項の優先順位も関連も記されてはいない。そこで、最近約50年のあいだに、タスクを上手に組織するとともに、これを確実に実行し消化することを標榜する多種多様な「仕事術」が姿を現した。もっとも有名なのは、デイヴィッド・アレンの”GTD” (= Get Things Done)である。

ストレスフリーの仕事術―仕事と人生をコントロールする52の法則

 このような仕事術はすべて、もっとも原始的なTO-DOリストを批判的に発展させることで生まれたものであり、「ライフハック」(lifehack) などと呼ばれている。私は、これらを「自己啓発書」「セルフヘルプ」に含めて理解している。

 そして、この「ライフハック業界」(?)が花盛りだからなのであろう、現在では、「仕事術」の提案自体を職業とすることすら可能になっているようである。実際、専業の「仕事術ライター」と呼ぶことのできる者たちは、日本にも外国にも見出すことができる。しかし、誰が考えてもすぐにわかるように、このような者たちが実践しているのは、「仕事術を産み出す」というきわめて特殊な仕事であり、この自己完結した自己言及的な試みが社会生活の質の向上に貢献するとは考えにくい。実際、これら「仕事術ライター」たちの提案する「仕事術」は、少なくとも私の目には、裨益するところの乏しいものと映る。

 そもそも、「仕事術」なるものは、一人ひとりがそれぞれの状況に応じて試行錯誤の中で手作りすべきものであり、他人から教えてもらうものではないはずなのだが……。「仕事術」「ライフハック」などの言葉が表紙に印刷された書物を何冊も読むことは、それ自体としてすでに、仕事に対する態度が根本的に転倒していることの証拠であるように思われるのである。

TO-DOリストを作ると効果的な状況の3つの条件

 私自身は、「仕事術」や「ライフハック」からは距離をとるころにしており、また、TO-DOリストも、できるかぎり作らないことにしている。

 私がTO-DOリストを作るのは、次の3つの条件をすべて満たす状況が出現したときである。すなわち、

        1. デッドラインまでの時間が非常に短く(長くても半日以内)
        2. デッドラインまでのあいだに完了させるべき「タスク」が非常に多く、
        3. さらに、「タスク」がすべて単純作業であり、順序を決めてこれらを一気に片づけることが必要であり可能でもある

場合、TO-DOリストを作ることは仕事の効率を向上させるのに有効であり必須であると私は考えている。

 当然、TO-DOリストにはメモ用紙を使う。


手帳を使わずメモ用紙で予定を管理する 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

手帳やメモ帳は使わない スケジュールを記入する小さな冊子は、一般に「手帳」と呼ばれている。これは、社会において何らかの役割を担っている大人なら、当然、少なくとも1人に1冊は持っているべきもの、いや、持っているに決まっているものであると普通には考えられている



 箇条書きになったタスクがすべて終わるとともに、紙を捨てることが可能であり、それとともに、完了した仕事を意識から追い出すこともできるからである。(「ライフハック」マニアが好む「週次レビュー」や「月次レビュー」など、もちろん、私はやらない。それは、マクドナルドで買ったハンバーガーの包み紙を保存しておき、定期的にこれを舐めてハンバーガーの味を無理に思い出すことをみずからに課すのと同じようなものであり、精神衛生上決して好ましくない作業だと思うからである。)

完了しないタスクがTO-DOリスト上に残ったら、「本当にやる必要があるのか」を自問してみる

 だから、私は、現在から数えて24時間以上経過しないと着手することができない事柄については、TO-DOリストは作らないことにしている。TO-DOリストに載せるのは、「すぐに済ませないと不都合が生じる」ことだけである。というのも、タスクを実行する日時が現在から遠くなるほど、そのタスクを実行するときの状況、その日時におけるタスクの優先順位がハッキリしなくなり、実行されないままTO-DOリスト上に残る危険が高くなるからである。完了しないタスクがTO-DOリストに残っていることは、気分的な負担にもなるはずである。

 だから、終わらないタスクがTO-DOリスト上に残ったら、そのリストは一旦捨て、現在の状況と優先順位を考慮しながらリストを作りなおすのがよい。(これもまた、TO-DOリストをメモ用紙で作らなければできない動作である。)タスクが終わらなかったのには、それなりの理由がある。1つのタスクを分割すれば問題が解決することがないわけではないが、それ以上に真面目に検討すべきなのは、それが本当にする必要があり、する価値のある仕事であったのかという点である。「面倒である」「煩わしい」などの理由で先送りされてきたタスクであるなら、やめてしまってもかまわないこと、あるいは、少なくとも、自分でする必要のないことである可能性がある。「やりたくないことで、やらなくてもかまわないことは、できるかぎりやらない」というのは、生活をシンプルにするための一般的な原則でもあるように思われるのである。


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