AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:ライフログ

9-18 sunset Tokyo

 今から何年か前、次の動画を見た。

Neil Pasricha: ニール・パスリチャ:「Awsome(最高)」の3つの要素

 日常の何気ない「最高」なことを記録する意を語るこの動画は、TEDで行われてきたスピーチの中でも特に有名なものの1つであり、観たことのある人は少なくないであろう。(NHKでも放映されたらしいが、私は観ていない。)なお、”awesome”は、「畏敬の念を起こさせる」という意味の形容詞であり、会話では、日本語の「すごい」「素敵」などに対応する表現として頻繁に使われている。この動画で想定されているのは、後者の用法である。

 もちろん、動画で言及されているブログ1000 Awesome Thingsもある。

1000 Awesome Things - A time-ticking countdown of 1000 awesome things by Neil Pasricha

 どのような人間の生活にも、1日に1つくらいは小さな”awesome”があり、それに気づくことにより幸せを感じることができるのは確かである。たとえば、私は、昨晩遅く寝る前に作り、一晩寝かせたカチャトーレ(cacciatore=イタリア風の鶏肉のトマト煮込み)を、今朝、起き抜けに味見し、味がしっかり決まっていることを確認した。しばらく前に作ったときには、気が抜けたような味になり、手直しが大変だっただけに、これは、今日の私にとっては、間違いなく1つの”awesome thing”である。

 とはいえ、人間の行動は、万事が上手く行くことを前提とするものであるから、適切に、何の問題もなく、期待どおりにすべてが推移して行くことは、私たちの注意を惹かない。小さな”awesome”は、一瞬で忘れられる運命を免れないのである。私たちの注意を惹き、私たちの記憶に遺るのは、失敗したもの、故障したもの、停滞しているものである。だから、放っておくと、私たちの記憶は、上手く行かなかったこと、不快なことで一杯になってしまう。

 ”awesome”を記録するとは、事実ではなく、気分や感情を記録することである。しかも、できるかぎり時間を措かずに記録しなければならない。私たちは、自分の体験を前後の事実、似たような事実と関連づけることで周囲の世界に秩序を与え、合理的な行動を可能にする。しかし、小さな”awesome”は、放っておくと、時間の経過とともに他の事実と関連づけられ、整理されてその輝きを失い、個性のない平凡な事実になってしまう。1つひとつの小さな体験を、単なる実用や必要から切り離し、それ自体として受け止める態度は、”awesome”を体験しこれを記録するための前提なのであり、”awesome”を見つけたら、その場でこれを記録しなければならないのである。


withdrawal

スマートフォンを手放して禁断症状が起きた

 私は、2011年春から2013年春まで2年間スマートフォンを使っていた。その後、2015年秋までの2年半、フィーチャーフォン(=「ガラパゴス携帯」)に戻し、2015年秋からふたたびスマートフォンを使い始めた。スマートフォンに戻ってかちょうど1年になる。

 以前にデジタル断食について書いたことに関連して、私の個人的な体験を記しておきたい。

24時間「デジタル断食」のすすめ 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

デジタル断食してみた 今年に入ってから、「デジタル断食」を何回か自宅で実行した。期間は、1回につき24時間であった。 デジタル断食またはデジタル・デトックス(digital detox) は、インターネット接続を完全に遮断した状態で時間を過ごすことを意味する。ネットによって


 2013年春、2年間の契約期間が終わりかけたとき、このままスマートフォンを使い続けるか、それとも、ここで使うのをやめるか、しばらく考え、そして、解約することに決めた。こま切れの時間ではあるとしても、スマートフォンを朝から晩まで繰り返し手に持っていじっており、その時間の合計がバカにならない量になっていたからである。このままでは依存症になるのではないかという危機感が私にはあった。ともかくも、スマートフォンとの縁を「物理的」な仕方で断ち切り、これが私の生活に本当に必要なものなのかどうか、「スマホのない生活」を送ることで検討してみようと考えた。これは、少なくとも当時の私にとっては、一大決心だった。

 しかし、スマートフォンを手放した直後から、禁断症状が始まった。

 それまでの2年間に、生活のいろいろなタイミングでスマートフォンの画面を眺めるのがルーチンになっていた。たとえば電車に乗り、座席に坐ったとき、職場に到着したとき、就寝の前など、天気やニュースやメッセージを反射的に確認していた。手が空くと、すぐにスマートフォンを見る癖がついていたのである。

 また、記録しておくべきことは、すべてEvernoteに入力していた。だから、買いもののメモもEvernoteであらかじめ作っておき、出先ではこれを見ながら用事を済ませていた。何かの不具合によってEvernoteが見られなくなったときには、どうしてよいかわからず、路上で途方に暮れたこともある。

 日常にこれだけ深く入り込んでいたスマートフォンと縁を切ったのであるから、禁断症状が起きるのは必然であった。いつもならスマートフォンを手に取るタイミングで肝心のスマートフォンがないと、しばらくのあいだ、他のことを何も考えられなくなる。また、Evernoteをメモ帳代わりに使うわけには行かなくなったから、外で必要になる情報はすべて、紙のメモ帳に書いておかなければならない。(パソコンからEvernoteに入力し、メールで送ることを試みたが、手間が煩わしく、続かなかった。)また、スマートフォンを使っていたあいだに、「ライフログ」などと称して何から何まで写真で記録する悪い癖がついてしまったらしく、外出先で何かを見かけると、すぐにカメラを向けてシャッターを切ろうとする。本当に記録するに値するものは何かを考え、最低限を紙のメモ帳で記録することができなくなっていたのである。

スマートフォンを使わないことによる解放感を味わう

 禁断症状は、解約してからおよそ2ヶ月続いた。最初のうちは、スマートフォンを持っていたらするはずのことが実行できず、イライラしたり、うわのそらになったりすることが多かったが、これが少しずつ減って行き、季節が変わるころには、禁断症状はほぼ収まった。生活のそれぞれのタイミングでスマートフォンを持っていたらしていたはずのことを思い出すことも少なくなって行った。2ヶ月かかって新しい行動のルーチンが出来上がり、スマートフォンを手放したことによって空いた穴が埋められたのである。

 もっとも気持ちがよかったのは、スマートフォンを解約してから2ヶ月経ったころには、「携帯電話を手に取ることが必要なタイミングなのかどうか」の見きわめができるようになり、手持ち無沙汰であるというだけの理由で何となく携帯電話をいじることがなくなった点である。自分の時間を自分でコントロールできるようになったことにより、私は、解放感を味わった。スマートフォンを経由してけじめなく流れ込んできた情報を自分でコントロールできるようなり、心の平穏が乱されることも少なくなった。

 当然、スマートフォンで絶えずつながっていなければ維持できないような人間関係も、スマートフォンと一緒に手放した。そのような人間関係は、自己支配を妨げる雑音にすぎないことに気づいたからである。これもまた、スマートフォンを使うのをやめた成果であった。(なお、私は、携帯電話の機種変更のたびに、連絡先を自動で移行させず、手で一つひとつ必要に応じてその都度入力し直すことにしている。機種変更から1年間経って新しい電話機に登録されなかった相手は、私にとって不要な存在であると判断することができるからである。)

スマートフォンをふたたび使い始めても、使用時間は増えなかった

 昨年の秋、2年半ぶりに機種変更し、スマートフォンをふたたび使い始めた。最初は、空いた時間にスマートフォンをいじり続けることになるのではないかと怖れていたが、幸いなことに、それから1年が経っても、「能動的に使用する」必要がある場合を除き、スマートフォンを手に取ることはなくなった。スマートフォンを手に持っている時間は、1日平均3分くらいではないかと思う。(このうち約2分は、電話として使っている時間である。)

 スマートフォンを手に取る必然性は何もないが、時間が空いているから何となくダラダラと画面を眺めている、スマートフォンを物理的に手放さなければ、このような時間を生活から追放するのは不可能であったに違いない。スマートフォンを一度は解約し、時間の遣い方を見つめなおすことは、生活の改善にきわめて有効であると私は考えている。スマートフォンに固有の機能を業務で使わなければならないのでなければ、スマートフォンを手放しても何ら不都合はないはずである。


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