complicated creatures

 職場での付き合いや近所との付き合いで不快な思いをすることは少なくない。

 このような場合、大抵は、「そういうこともある」とみずからに言い聞かせたり、他のことで気を紛らわせたりしてやりすごすが、不快なことの頻度がある限界を超えたり、無視することができないようなノイズとなって生活に影響を与えたりすると、「すべてを放り出してどこかへ行きたい」という欲求が心に生れる。(私の場合、月に1回くらいは逃げ出すことを考える。)

 それでも、実際には、私は、すべてを放り出し、たとえば種田山頭火のように放浪生活を始めたり、あるいは、尾崎放哉のように修養団体に入ったりすることはない。環境を変えるための努力を多少は試みるとしても、全体としては、昨日と似たような生活が今日も続き、そして、今日と似たような生活が明日も続くことになる。

 以前、困難な状況から逃げ出すことに関し、それ自体は何ら悪いことではないという意味のことを書いた。


脱出万歳 : アド・ホックな倫理学

自分の人生を振り返ってみて気づいたことがある。学校や職場など、今まで何度も環境を変えてきたが、それは、「行きたい場所に行く」ためであるというよりも、「いたくない場所を逃げ出す」ためだった、ということだ。 「今の環境もそれなりにいいけど、もっといいところ



 生活環境は不快であるよりは快適である方が望ましいことは確かである。功利主義的な観点から、より好ましい環境へと移動することにはそれなりの意義があると私は考えている。

 しかし、世俗を嫌い、ここから逃げ出してしも、脱出した先には、やはり別の世俗が待っている。ホームレスにはホームレスなりの世俗があり、出家信者には出家信者なりの世俗があり、そこではやはり、くすんだ日常において人間の愚かさや滑稽さを目撃し、こまごまとした日常の問題を一つひとつ解決することを余儀なくされるはずである。世俗から逃れることは、目の前にある問題を消去し、これを新たな問題に置き換えるだけであり、根本的な問題解決にはならないと考えるべきである。

 いや、世俗からの退去は、さらに厄介な問題を私たちに差し出すはずである。ホームレスの社会や出家信者の集団は、大多数の人間が暮らす平凡きわまる俗世間とはまったくことなる秩序が支配する「異界」である。私たちが身を置いている普通の世俗から逃れる場合とは異なり、このような「異界」が異界であるのは、その秩序が外部の世間では決して通用せず、周囲とのあいだに高い壁が築かれているからである。異界にひとたび足を踏み入れた者にとり、ここから逃れることは途方もなく困難であるに違いない。

 世俗というのは、日常の全体であり、したがって、生活の全体である。生きているかぎり、世俗が差し出す個別の問題から逃れることは可能であるとしても、世俗自体から逃れることはできない。実際、冷静に考えるなら、私たちが望んでいるのが、世俗そのものから逃れることではなく、ただ「よりよい世俗」を獲得することであることがわかる。「世俗から逃げ出したい」という文は、「問題を一つひとつ解決するのは面倒くさい」「目の前の問題は自分の手には負えない」という文と同義なのである。

 残念ながら、人生における問題、あるいは、生活における問題には、これを一挙に片づける「アルキメデスの点」はなく、解決は、つねに個別的、具体的に試みられる他はない。一つひとつの問題の前で立ち止まり、自分の五感だけを頼りに――善悪の彼岸に身を置いて――環境を観察しながら、全体としてコストを最小に抑える解決方法を探す努力を積み重ねる、最近、生きるとはこのようなことなのではないかと考えている。