Second-hand Reader.

書店の数と売り場面積は都市の文化程度の指標

 世界には、「文化の中心」と呼ぶことのできるような都市がいくつかある。代表的なのは、パリとニューヨークである。パリやニューヨークが本当に文化的であるかどうかはよくわからないが、最近100年に期間を限定するなら、これら2つの都市が広い意味での「人文系」の諸活動の世界的な中心であり、文化の集積がもっとも進んだ都市であることは確かである。ニューヨークは、「20世紀の首都」(capital of the 20th century)――「20世紀の資本」ではない――と呼ばれることが多いけれども、少なくとも外国人の私には、文化的な生産に関するかぎり、この表現は適切であるように見える。

 とはいえ、そもそも、1つの都市が文化的であるかどうかを決めるのは何であろうか?もちろん、たとえば、公園の面積、劇場の数、コンサートが催される頻度、歴史的建造物の数、博物館や美術館の数……、このようなものを指標として使うことは不可能ではない。しかし、いくら公園が多く、博物館や美術館が充実し、歴史的建造物が充満していても、たとえば現在のローマやフィレンツェについて、私は、文化的な都市という印象を持たない。というのも、ローマやフィレンツェにおいて充実しているのは、文化遺産であり、文化の活発な生産を現在進行形で目撃することができることはあまり期待できないからである。

 むしろ、ある都市が文化的であるという印象を与えるもっとも確実な要素は、大きな書店の数、特に、(日本の場合には、)洋書を取り扱っている書店の数であり、大きな図書館の数である。書店の数が多く、売り場面積が広く、取り扱う書籍が多様であるというのは、その都市の文化の程度を示しているように思われる。(文化とは、本来的には言語を用いた文化的生産であり、音楽や美術などがどれほど集積しても、それだけでは、文化的な雰囲気を産み出すのには十分ではないように思われる。)

 この指標を用いるなら、日本でもっとも文化的な都市は断然東京であり、東京は、パリやニューヨークと比べて決して劣ってはいないはずである。東京では、ターミナル駅の近くには、必ず大規模な書店がある。また、神保町、早稲田、本郷などには、古書店が集まるエリアが形作られている。これは、東京に固有の光景であるに違いない。

東京における書店の衰退

 本が読まれなくなったせいなのであろうか、最近は、書店がなくなったり、売り場面積が小さくなったりすることが少なくない。昨年(2016年)の夏、紀伊国屋書店の新宿南店が閉店したのは、私にとっては特に大きな出来事であった。数年前、ジュンク堂書店が新宿から撤退したときにもショックを受けたけれども、紀伊国屋の閉店は、さらに悲しいニュースであった。新宿という街の文化程度が大きく引き下げられてしまったように感じられてならない。

 もちろん、大規模な書店が新しく生まれないわけではない。もう10年以上前になるけれども、東京駅の丸の内口に丸善が開店した。売り場面積はかなり広く、東京で上位5番以内に入るはずである。しかし、一度でも訪れたことのある人ならわかるように、丸善の売り場は、他の大規模な書店と比較すると、やや特殊である。おそらく立地への配慮なのであろう、近所で働く会社員が手に取りそうな本が目立って多いのである。(大規模書店ならではの専門的な本の在庫は少なく、むしろ、店頭に並ぶ本を見るかぎり、実態は「売り場面積が途方もなく広い小規模書店」である。)また、売り場のかなりの部分が文房具と雑貨によって占領されているのも独特である。

 たしかに、東京駅の丸の内側は、以前から、書店も図書館も文化施設もないエリアであり、「文化の砂漠」であった。今でも、丸の内側にある書店は丸善だけであり、他に立ち寄るべき場所が付近に何もない。在庫が多いとわかっていても、、丸善で本を探すためにわざわざ東京駅まで電車で行く客は少ないであろう。店頭に並ぶ本の傾向が、東京駅を通過する客が立ち寄ることを想定した売り場になっているのは仕方がないことなのかも知れない。それでも、本格的な大規模書店が東京から少しずつ姿を消すと、それとともに、東京の文化水準もまた、少しずつ落ちて行くことは確かである。私は、文化的な都市としての東京の将来について、ある危惧を抱いている。