AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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よい大学の「よさ」とは、成長を望む学生に提供するオプションの豊かさ

 同じ専門を勉強するために入学するなら、偏差値が高い大学の方がよいと普通には考えられている。いや、それどころか、偏差値さえよければ大学や学部などどうでもよいと考える者は少なくないかもしれない。しかし、なぜ偏差値が高い大学の方が好ましいのか、本当の意味は、必ずしも理解されておらず、このような問いが問われることもまた、稀であるように思われる。「なぜ偏差値が高い大学の方が望ましいのか」という問いに対する答えが自明であり、この問いが愚問であるように見えるからである。

 たしかに、入学するのに高い偏差値を必要とする大学に在籍したり、このような大学の出身者であったりすることには、いくつもの利点がある。卒業した大学を問われ、大学名を答えたところ、「それはどこにある大学なの?」などと尋ねられることはなく、むしろ、自分が学生時代を過ごした大学は、経歴に箔をつけるのに役に立つであろう。また、場合によっては、豊富な人脈を獲得することができるかもしれない。

 けれども、このような利点は、入学者の偏差値が高い大学を選ぶ理由であるとしても、ある大学の入学者の偏差値が高いことは、就職に有利であることや人脈を獲得しうることの「原因」ではない。むしろ、偏差値というのは、企業から高く評価されるような能力や、人脈を作り上げる能力を持つ卒業生がこれまで長期間にわたり特定の大学に偏在してきたことの「結果」であるにすぎない。この意味において、ある学生が自分の希望する企業に就職することができたり人脈を手に入れたりすることができるかどうかは、最終的には、本人の個人的な努力次第であることになる。(企業の採用担当者が、入学者の偏差値が高い大学の出身者を好むとするなら、それは、「ババを引く」確率が低いからである。)

 むしろ、よい大学に認められる「よさ」というものがあるとするなら、それは、成長を望む学生に対して提供しうるオプションの豊かさに比例するものであるように思われる。そして、成長を望む学生が本当の意味において成長することが可能となるために必須であるのは、人文学の領域における豊富なオプションである。

本当の意味における成長は人文学の遂行においてのみなしとげられる

 以前、次のような記事を投稿した。


人文学は「役に立つ」のか、そして、「必要」なのか : AD HOC MORALIST

人文学は技術的な知識ではないから「役に立たない」 国立大学の文系学部が廃止されるかも知れないというニュースが流れたのは、昨年の夏のことである。そして、それ以来、文系の諸科学が「役に立つ」のか、「必要」であるのか、また、習得すべきなのは「役に立つ」知識だけ


 本当の意味における成長は、人文学の遂行によって、あるいは、人文学の遂行において初めて可能となるものなのである。

外国語科目の多様性は、成長の可能性に相関し、大学の「よさ」に相関する

 しばらく前、地方のある国立大学のカリキュラムを眺める機会があり、私は、このカリキュラムに違和感を持った。というのも、この大学では、大学に入学した学生が英語の他に1度に1つしか外国語を学ぶことができないようになっていたからである。というよりも、カリキュラムは、英語の他に複数の外国語を勉強したい、あるいは、しなければならないという可能性を最初から想定していないように見えたのである。

 ある大学に身を置いた場合にどの程度の(言葉の本来の意味における)成長を期待することがゆるされるか――これがよい大学の「よさ」の意味である――は、設置されている外国語科目の多様性を手がかりとして測ることができるように思われる。私のように、西洋方面の人文系の領域を専門とするのなら、英語、ドイツ語、フランス語、ギリシア語、ラテン語という主な5つの言語の初歩を習得することは必須であるけれども、たとえ語学を特に必要としない分野を専門とする場合でも、また、語学に特別な関心がないとしても、新しい外国語への扉がどのくらい豊かに用意されているかは、その大学が学生の成長を真剣に考える度合いに正確に相関し、その標識となるように見えるのである。つまり、学生の成長を可能にするという意味においてよい大学ほど、多くの種類の外国語をカリキュラムに取り入れているように思われるのである。

 私自身が学んだ大学では、英語以外に複数の外国語の授業を1年生から並行して選択科目として履修するオプションがあり、2年生の終わりまでに上記5言語の初歩的な部分を身につけることができた。学生時代の私は、これを当然のこととして受け止めていたけれども、冷静に周囲を眺めるなら、これは大変な幸運であったのかもしれない。大学在学中に英語以外の語学を1つしか習得することができなかった学生の目に映る世界は、在学中に5つの言語を学ぶ機会のあった者の前に広がる世界と比較し、奥行きを欠いたもの、そして、くすんだものとなることを避けられなかったはずだからである。

人文学、特に外国語を学ぶオプションが豊かな大学ほど入学者の偏差値が高い

 まして、最近では、文系でも、英語以外の外国語科目を設置しない大学が少なくない。首都圏の片隅にある社会科学系を中心とするある小さな大学のカリキュラムには、最初から英語以外の外国語科目がない。選択必修の外国語科目がないばかりではなく、英語以外の外国語は、選択科目にすら見当たらないのである。そして、名称の点では「大学」であっても、実質的には「知のシベリア」と表現するのがふさわしいこのような不毛の環境で学生時代を過ごす者には、どのような「成長」が許されるのであろうか。そして、みずからの地平を更新し、みずからの存在可能性へとフリーハンドで身を開くどのような機会が与えられるのであろうか。

 ところで、「よい」大学の「よさ」を学生の成長の可能性の豊かさに求めるとき、この豊かさは、設置された外国語科目の多様性と相関するばかりではない。不思議なことに、この多様性は、入学者の偏差値ともまた、大体において相関する。言い換えるなら、入学者の偏差値が高い大学ほど、多くの種類の外国語をカリキュラムに取り入れているように見える。人文系、特に外国語科目の充実と入学者の偏差値のあいだには、強い相関関係が認められるように思われるのである。

 したがって、学生の成長を促す「よい」大学を目指すのなら、最初になすべきなのは、「実学」や「就業体験」や「職業訓練」にリソースを投入することではなく、資金が許すかぎりにおいて人文学を学ぶオプションを増やすこと、特に多くの外国語学習のオプションを増やすことでなければならないはずである。

On The Front Line

いわゆる「哲学の最前線」とは「哲学の流行の最前線」にすぎない

 哲学では、自分が研究対象としている対象の「最前線」を必死で追いかけている研究者をときどき見かける。(若手に特に多い。)学会に行くと、この何年かのあいだに欧米で公刊された最新の研究文献、あるいは、欧米の学術雑誌に発表された最新の論文ばかりに依拠して何かを語ろうとする口頭発表を聴かされることがあるのである。

 以前から、アングロサクソン系の哲学を研究する者たちのあいだでは、この傾向が顕著であったけれども、最近は、大陸系の哲学の研究でも、このような傾向が目立つような気がする。しかし、私自身は、最前線に執着するこのような研究のスタイルには微妙な違和感を覚える。(あまりにもハイコンテクストで付いて行けないこともある。)

 自然科学の場合、研究の最前線に身を置き、トレンドを追いかけるばかりではなく、このトレンドを追い越しみずから作り出さなければ、そもそも「研究」していることにならない。最新の成果がつねに最良のものだからである。

 しかし、人文科学の場合、最新の研究成果が必ずしも最良というわけではない。最前線を追いかけることの意味は、決して自明ではないのである。

 もちろん、たとえば言語学や考古学のような分野では、最前線に重要な意義がある。というのも、このような分野では、最新の研究成果が何らかの意味において必ず最良の研究成果を含むからである。

 しかし、これ以外の分野、特に、哲学と文学における研究の最前線というのは、基本的に「流行」の別名である。(物理学の最前線は、決して物理学の流行の最前線ではない。)それは、人文学に固有の次のような事情があるからである。

 ※ 以下、哲学を例に説明するが、文学についても、事情は基本的に同じである。

人文学は「進歩」と無縁の研究領域である

 そもそも、社会科学や自然科学の多くの分野と異なり、哲学には進歩というものがない。すべての哲学史はプラトンの脚注であると言われる(by ホワイトヘッド)ように、本質的な部分では、古代ギリシア以来、一歩の前進もないのが哲学というものである。

 たしかに、2500年以上におよぶ哲学史を構成する哲学者たちの言葉は、表面的に見るなら、決して同じではない。それどころか、一人の哲学者が語る言葉の中にすら、変化や矛盾が認められることは稀ではない。

 それでも、哲学者たちが遺したテクストは――それが哲学史を構成するものであるかぎり――最終的には同じ一つのものに収束するはずの問題群をめぐるものである。そこに認められる歴史的変化は、「語り方」の違い、あるいは、せいぜいのところ、根本問題のあいだに設定される優先順位の違いによるものにすぎない。

 科学史と科学が截然と分離されるのとは異なり、哲学史と哲学は一体のものである。哲学がテクストの解釈として遂行されるのは、そして、2500年近く前に成立したプラトンのテクストに対しいわば「永遠のアクチュアリティ」が認められるのは、時代や地域に関係ない普遍妥当的な認識が解釈において感得されるからであり、テクストとの対話が与えるこの感得の経験こそ、哲学の核心をなしているからである。

 反対に、哲学史というものを進歩、進化、前進、改良などとは無縁のもの、いわば永遠のものと見なし、2500年間の哲学史を構成するテクストを――哲学史に属するものであるかぎりにおいて――すべて同等に扱うとき、初めて、他から区別された哲学というものが明瞭な輪廓とともに私たちの前に姿を現すと言うこともできる。

 哲学の最前線というのは、実質的には欧米の学界における流行にすぎない。ファッションの流行が他所から到来した何ものかとともに始まるのと同じように、哲学における流行もまた、「舶来」の何ものかを刺戟として産み出されたものである。したがって、現在の欧米の研究の流行にすぎぬ「最前線」にコミットするような研究成果を産み出すことに哲学の遂行の核心を求め、哲学研究を進歩させたり前進させたりすることが可能であると信じている者がいるとするなら、そこに見られるのは、哲学の自己否定であり、人文科学の自己否定に他ならないように思われる。

人文科学の研究成果は、本質的なレベルでは共有不可能なもの

 さらに、自然科学と同じような仕方で最新の研究を追いかけることが無駄であると私が考えるのには、もう1つの理由がある。すなわち、哲学の研究成果なるものは、自然科学の研究成果と同じような仕方では共有することができないものである。

 自然科学の場合、ある分野なりテーマなりに関する最新の研究成果は――もちろん、単なる仮説や思いつきではないことが証明されたら、の話ではあるが――同じ分野なりテーマなりの研究に従事するすべての研究者が受け容れ、これを前提としなければならないものである。そして、このような前提から出発するものであるかぎり、すべての新しい研究成果は、やはり同じような仕方で共有されるはずである。

 ところが、哲学の場合、研究成果を事実と突き合わせて評価することはできない。テクストの読み方に明らかな誤りがある、論旨が破綻しているなどの形式的な問題がないかぎり、すべての研究成果は、(哲学者の具体的な名前が論文に含まれているかどうかには関係なく、)哲学史観の表明である点において等しい価値を認められねばならない。だから、哲学の研究成果は、「正しいか間違っているか」ではなく「私が賛成するか反対するか」によってしか評価されないことになり、万人が受け容れ、前提としなければならないようなものとはならないのである。

 研究者たちのあいだにおいて遂行されうるのは、哲学史上のテクストの解釈において遂行されるのと同じことである。つまり、対話の場を作り上げ、当事者たちの思考を共振させること、そして、思考の共振によって産み出された新しい真理を刺戟として各々の思考を新しい運動へと促すこと、これ以外ではありえない。対話から生まれる真理は、新たなる思考への刺戟としては当事者たちのあいだで共有されるけれども、真理は、それ自体としては、私たち一人ひとりのあり方と一体であり、本質的に実存的、あるいは実存論的な性格のものであるから、これを共有することは、不可能であるというよりも、最初から問題にならないと考えるべきである。

 また、現実の問題として、哲学は、西洋を本場とするものであり、研究の場としての日本は永遠に周縁にとどまらざるをえない。自然科学や社会科学の場合、ある研究分野において日本が周縁にすぎぬとしても、それは、研究者が少ない、研究資金が少ないなどの事情によるものであり、偶然の結果にすぎない。しかし、哲学に関するかぎり、日本が周縁であるのは必然であり、欧米の研究動向をウォッチし続け、欧米と張り合う不毛な努力を続けても、日本が周縁から抜け出し、世界の哲学の新たなトレンドを作り出す可能性はゼロである。

 しかし、哲学というものの本来の姿を考えるなら、欧米の流行の最前線を追いかけることが哲学の最前線なのではなく、むしろ、本当の意味における最前線、つまり、活発な思考により真理が産み出される場が哲学にあるとするなら、それは、テクストと対話しつつ哲学が遂行される場に他ならない。すなわち、哲学が遂行されるとき、そこはただちに哲学の最前線となるのであり、本当の意味における哲学の最前線と哲学は、同じ一つのものなのである。私たちは、哲学を遂行することにおいて、ただちに哲学の最前線に身を置く。哲学の最前線に身を置くとは、日本にいながら欧米の研究動向をウォッチすることではないし、欧米の研究者と張り合うことでもなく、哲学史との対話において自分自身のあり方を深く考えるふるまいのうちにあると言うことができる。

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人文学は技術的な知識ではないから「役に立たない」

 国立大学の文系学部が廃止されるかも知れないというニュースが流れたのは、昨年の夏のことである。そして、それ以来、文系の諸科学が「役に立つ」のか、「必要」であるのか、また、習得すべきなのは「役に立つ」知識だけであるのか、などの問題が、主に文系の研究者たちのあいだで取り上げられてきた。

 文系に分類されている諸科学のうち、人文諸学(伝統的には、哲学、歴史、文学の三分野からなる)が「役に立たない」ことは確かある。文系の残りの領域、つまり、社会科学には「役に立つ」可能性があるが、それは、社会科学一般が、もともと、自然科学をモデルとして形作られた「社会現象の自然科学」だからであるにすぎない。

 もちろん、多くの人文系の研究者は、次のように主張してきた。すなわち、人間の人間らしい生活を可能にするためには、「実用」にすみずみまで支配された世間の常識を批判的に相対化することが必要であり、ものの見方の相対化のための視点を提供するのが人文学である、したがって、人文学は「役に立つ」、これが研究者たちの主張である。

 しかし、少なくとも表面的に見るなら、これは途方もなく強引な主張であり、説得力を持たない。というのも、一般的に、「役に立つ」という形容詞を述語とする文の主語となることができるものは、何らかの技術ないし手段として有効なものに限られるからである。

 「役に立つ」とは、このような技術ないし手段が適切に使用されることによって到達しうる状態があらかじめ具体的な仕方で約束されていることを意味する。畜産学は畜産の「役に立つ」。水産学は水産の「役に立つ」。金融工学は金融取引の「役に立つ」。そして、これらの場合の「役に立つ」の意味することろは、科学の内容がすべて「ある状態の作り方」に関する技術的な知識にすぎないということに他ならない。(だからこそ、このような技術的な知識を身につけた者は、社会において「役に立つ」「人ー材」、つまり、何らかの道具として有用な存在となるのである。)もちろん、同じような意味において、万葉集やボードレールの研究が何かの「役に立つ」わけではない。万葉集やボードレールの研究が「役に立つ」と主張することが可能になるためには、「役に立つ」という言葉の定義をあらためなくてはならないであろう。

人文学は、「成長」の糧を求める者にとってのみ「必要」であり「役に立つ」

 もっとも、「人文学が何の役にも立たない」という主張は、ある留保を要求するはずである。というのも、人文学が「役に立つ」場合がないわけではないからである。

 たしかに、人文学は、自然科学や社会科学とは比較にならないほど根源的な意味において「役に立つ」。残念なことに、人文学は、万人にとって「役に立つ」わけではないだけである。

 人文学に沈潜することによって何かを得られるのは、人文学に何かを期待する者だけである。これは、人文学を他の諸学から区別する決定的な特徴である。たとえば、地質学や法律学に特別な興味がなくても、あるいは、これらの科学が嫌いであっても、地質学や法律学を無理やり「学ぶ」ことはできる。中立的で客観的な知識の(可能なかぎり系統的な)獲得が「学ぶ」ことの到達目標であり、この「学ぶ」という作業の結果として獲得された中立的で客観的な――したがって、無際限に共有可能な――知識が、最初に述べたような意味において「役に立つ」がゆえに、地質学や法律学は「役に立つ」ものであるともに、「必要」なものでもあるのである。

 ところが、万葉集やボードレールの研究は、地質学や法律学の学習とは異なり、これらの作品の能動的な解釈であり、能動的な解釈の遂行においてみずからの経験の地平を更新する(=ものの見方の枠組を拡張し、成長を促す)作業である。したがって、たとえばボードレールや大伴家持の生年と没年のような中立的で客観的な知識を獲得することが可能であるとしても、これは、いかなる意味においても文学研究ではなく、人文学でもない。文学研究は、文学作品を読み、これを能動的に解釈することにより、みずからの経験の地平を更新し、そして、言葉の本来の意味において人間的に成長することを期待する者たちに対してのみ、その期待に応える何ものかをソッと差し出すものである。人文学とは、本質的にこのようなものである。人文学は、万人によって共有されるべきものではない。それは、経験の新たな地平を求めること、人間らしい人間へと成長すること、本来の己となることを欲する少数者にとってのみ「必要」であり「役に立つ」のである。

 したがって、地質学や法律学の場合、これらを無理やり勉強することが可能であるのに反し、人文学の場合、無理やり勉強することには何の意味もない。文学を読むこと、哲学を読むことに何の期待も抱かず、歴史のうちに暗記すべき情報の寄せ集めしか見出さない者にとり、人文学は、時間とエネルギーの単なる無駄であろう。

人文学への沈潜によりなしとげられる「成長」には決まった到達点がない

 とはいえ、この見解は、次のような反論をただちに惹き起こすであろう。そのような成長なら、他の科学を遂行することによっても可能なのではないか、いや、社会にとって「役に立つ」「人ー材」になることが「成長」の意味なのではないか、という意見は、誰もが思いつくはずのものである。

 しかしながら、人間が人間として成長することは、「人ー材」つまり社会の道具として完成することとは本質的に異なる。

 社会の道具としてみずからを完成させる努力には、あらかじめ到達点が設定され、どのような状態になれば「人ー材」として評価されるのか、本人にその基準がわかっているばかりではなく、この基準は、社会全体において共有されていなければならない。しかし、あらかじめ設定された到達点へと向かうことによって獲得されるのは、「他人と同じようにできるようになること」であり、これを成長と見なすことはできない。

 これに反し、言葉の本来的な意味における成長、つまり、人間らしい人間になること、本来の己になることには、決まった到達点というものがない。到達点が見通せないのではない。そもそも、成長というのは、決まった到達点を目指して努力することによって実現するものではなく、みずからのあり方を反省する絶えざる努力がそれ自体として成長なのであり、みずからの成長は、あとから振り返って初めて感得されるものなのである。

 人文学は、テクストの解釈を通じて経験の地平を更新し、自己へと還帰することを求める少数者の成長にとって「役に立つ」ものであり、「必要」なものなのである。


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