AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:人文科学

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 私は、イベントとしての学会が好きではない。学会で研究発表を聴くのも好きではないし、自分で研究発表するのも好きではない。もちろん、「総会」など、何のためにあるのかほとんど理解することができないし、「懇親会」の三文字にいたっては、もはや「この世の地獄」の同義語でしかない。

 それでも、年に何回かは、学会に参加し、会場になったどこかの大学の教室の片隅で冷や汗を流しながら何時間かを過ごすことがある。

 とはいえ、ただ発表を聴くのは、退屈でもあり、苦痛でもある。そもそも、研究者の仕事は、他人の話を聴くことではなく、みずからが何かを公表することである。当然、他人の研究発表を聴くのが好きな研究者は多くはない。だから、何か質問をひねり出して発表者にぶつけることで、苦痛を紛らわせることがある。(人文系の学会で個人の研究発表に対して行われる質問の大半は、黙っていることの苦痛から逃れることを動機とするものであるような気がしてならない。)

人文系の学会での個人の研究発表の実質は、発表原稿の「読み合わせ」

 社会科学や自然科学についてはよく知らないが、人文科学(歴史を除く)の場合、学会では、研究発表の前に要旨または発表原稿が事前に(あるいは会場で)配布され、発表者は、要旨または原稿に従って発表するのが普通である。

 要旨や原稿が配布されるのは、これが発表の内容を聴衆に理解させるのに有効だからというよりも、むしろ、発表に続く質疑応答や討論の資料として必要だからである。(要旨も原稿も配布せずに発表すると、聴衆から苦情が出ることがある。)

 自然科学上の新しい発見があると、テレビのニュース番組で、パワーポイントによるスライドを背にして学会の会場で何かを説明する発表者の姿が画面に映し出されることがあるけれども、人文科学系の学会(歴史を除く)では、個人の研究発表でパワーポイントが使われることは滅多になく、したがって、あのような光景に出会うことは稀である。そもそも、人文系の場合、何か新しい発見があっても、研究発表という形でこれが公になることはないということもある。(「研究の成果」ではないからである。)

 人文科学系の学会での普通の研究発表では、どこかの大学の教室で、教卓の前に発表者が立ち、聴衆がこれに向き合うように学生の席に陣取り、事前に配布された発表原稿の「読み合わせ」を全員で行い、その後、この発表――というよりも原稿――について参加者が討論することになる。日本人でも外国人でも、この点に関し違いはない。

[1]専門外のテーマの研究発表で質問するオーソドックスな方法

 研究発表を聴き、そして、質問する手順としてもっとも正統的なのは、発表原稿を受け取ったら、パラグラフごと、あるいは節ごとに(発表を聴かずに、あるいは、発表を聴きながら)内容をまとめ(て原稿の欄外にメモして行き)、発表原稿の論旨が形式的、論理的に整合的であるかどうかを批判的に吟味することであり、飛躍や矛盾が認められる場合、発表が終わったあとに、質問の形でこれを指摘することである。(これは、学会ばかりではなく、大学の演習等で行われる学生の発表に対しコメントする場合の基本的な技術でもある。)

 だから、個人の研究発表のあとでよく耳にする質問は、「○○ページには……と書いてあるのに、××ページでは……となっているが、どうして前者が後者の根拠になっているのかわからないし、むしろ、……という可能性が排除できないのではないか」(←このような細かい質問は、発表者が手にしているのと同じ原稿を聴衆が持っていなければ不可能である)という形式を具えていることが多い。また、このような質問には、発表内容に精通していなくても、発表者の原稿に寄生する形でもっともらしいコメントをすることができるという利点もある。

[2]研究発表の細部がわからなければ、一般的な了解と比較する

 とはいえ、発表の内容に不案内であるとしても、ここで使われるテクニカルタームや固有名詞について最低限の観念を持っていなければ、オーソドックスな質問はできない。それでも、発表者に何か質問したいのなら、一般的な概念あるいは了解に訴えることにより、大抵の場合、質問することが可能である。

 人文系の学会における研究発表では、表向きのテーマが具体的な人物や作品であるとしても、このような具体的なものは、必ずそれなりに普遍的なトピックとの関連において取り上げられる。

 したがって、発表者が標的とする普遍的なトピックがわかるなら、発表の細部が理解不可能でも、発表者がこのトピックに関して提示した了解(=結論)と、一般的に通用している了解を比較することにより、「あなたの結論は……だが、この問題は、一般には……と考えられており、また、それには相応の理由があると思うのだが、この点についてどう考えるか」という形式で質問することができる。

質問せず、黙って坐っている方が発表者には親切

 ただ、発表者にとっては、未知の聴衆からの、しかも好意的とは言えない質問は、決してありがたいものではない。また、上記の[2]のスタイルの質問は、形式的には必ず問われねばならない重要な問いではあっても、現実の発表の場では、必ずしも生産的な議論への刺戟とはならない。(専門分野が過度に細分化されているからであろう。)

 だから、発表者と面識があるのでなければ、基本的には黙っている方が発表者のためになることは間違いないように思われる。

On The Front Line

いわゆる「哲学の最前線」とは「哲学の流行の最前線」にすぎない

 哲学では、自分が研究対象としている対象の「最前線」を必死で追いかけている研究者をときどき見かける。(若手に特に多い。)学会に行くと、この何年かのあいだに欧米で公刊された最新の研究文献、あるいは、欧米の学術雑誌に発表された最新の論文ばかりに依拠して何かを語ろうとする口頭発表を聴かされることがあるのである。

 以前から、アングロサクソン系の哲学を研究する者たちのあいだでは、この傾向が顕著であったけれども、最近は、大陸系の哲学の研究でも、このような傾向が目立つような気がする。しかし、私自身は、最前線に執着するこのような研究のスタイルには微妙な違和感を覚える。(あまりにもハイコンテクストで付いて行けないこともある。)

 自然科学の場合、研究の最前線に身を置き、トレンドを追いかけるばかりではなく、このトレンドを追い越しみずから作り出さなければ、そもそも「研究」していることにならない。最新の成果がつねに最良のものだからである。

 しかし、人文科学の場合、最新の研究成果が必ずしも最良というわけではない。最前線を追いかけることの意味は、決して自明ではないのである。

 もちろん、たとえば言語学や考古学のような分野では、最前線に重要な意義がある。というのも、このような分野では、最新の研究成果が何らかの意味において必ず最良の研究成果を含むからである。

 しかし、これ以外の分野、特に、哲学と文学における研究の最前線というのは、基本的に「流行」の別名である。(物理学の最前線は、決して物理学の流行の最前線ではない。)それは、人文学に固有の次のような事情があるからである。

 ※ 以下、哲学を例に説明するが、文学についても、事情は基本的に同じである。

人文学は「進歩」と無縁の研究領域である

 そもそも、社会科学や自然科学の多くの分野と異なり、哲学には進歩というものがない。すべての哲学史はプラトンの脚注であると言われる(by ホワイトヘッド)ように、本質的な部分では、古代ギリシア以来、一歩の前進もないのが哲学というものである。

 たしかに、2500年以上におよぶ哲学史を構成する哲学者たちの言葉は、表面的に見るなら、決して同じではない。それどころか、一人の哲学者が語る言葉の中にすら、変化や矛盾が認められることは稀ではない。

 それでも、哲学者たちが遺したテクストは――それが哲学史を構成するものであるかぎり――最終的には同じ一つのものに収束するはずの問題群をめぐるものである。そこに認められる歴史的変化は、「語り方」の違い、あるいは、せいぜいのところ、根本問題のあいだに設定される優先順位の違いによるものにすぎない。

 科学史と科学が截然と分離されるのとは異なり、哲学史と哲学は一体のものである。哲学がテクストの解釈として遂行されるのは、そして、2500年近く前に成立したプラトンのテクストに対しいわば「永遠のアクチュアリティ」が認められるのは、時代や地域に関係ない普遍妥当的な認識が解釈において感得されるからであり、テクストとの対話が与えるこの感得の経験こそ、哲学の核心をなしているからである。

 反対に、哲学史というものを進歩、進化、前進、改良などとは無縁のもの、いわば永遠のものと見なし、2500年間の哲学史を構成するテクストを――哲学史に属するものであるかぎりにおいて――すべて同等に扱うとき、初めて、他から区別された哲学というものが明瞭な輪廓とともに私たちの前に姿を現すと言うこともできる。

 哲学の最前線というのは、実質的には欧米の学界における流行にすぎない。ファッションの流行が他所から到来した何ものかとともに始まるのと同じように、哲学における流行もまた、「舶来」の何ものかを刺戟として産み出されたものである。したがって、現在の欧米の研究の流行にすぎぬ「最前線」にコミットするような研究成果を産み出すことに哲学の遂行の核心を求め、哲学研究を進歩させたり前進させたりすることが可能であると信じている者がいるとするなら、そこに見られるのは、哲学の自己否定であり、人文科学の自己否定に他ならないように思われる。

人文科学の研究成果は、本質的なレベルでは共有不可能なもの

 さらに、自然科学と同じような仕方で最新の研究を追いかけることが無駄であると私が考えるのには、もう1つの理由がある。すなわち、哲学の研究成果なるものは、自然科学の研究成果と同じような仕方では共有することができないものである。

 自然科学の場合、ある分野なりテーマなりに関する最新の研究成果は――もちろん、単なる仮説や思いつきではないことが証明されたら、の話ではあるが――同じ分野なりテーマなりの研究に従事するすべての研究者が受け容れ、これを前提としなければならないものである。そして、このような前提から出発するものであるかぎり、すべての新しい研究成果は、やはり同じような仕方で共有されるはずである。

 ところが、哲学の場合、研究成果を事実と突き合わせて評価することはできない。テクストの読み方に明らかな誤りがある、論旨が破綻しているなどの形式的な問題がないかぎり、すべての研究成果は、(哲学者の具体的な名前が論文に含まれているかどうかには関係なく、)哲学史観の表明である点において等しい価値を認められねばならない。だから、哲学の研究成果は、「正しいか間違っているか」ではなく「私が賛成するか反対するか」によってしか評価されないことになり、万人が受け容れ、前提としなければならないようなものとはならないのである。

 研究者たちのあいだにおいて遂行されうるのは、哲学史上のテクストの解釈において遂行されるのと同じことである。つまり、対話の場を作り上げ、当事者たちの思考を共振させること、そして、思考の共振によって産み出された新しい真理を刺戟として各々の思考を新しい運動へと促すこと、これ以外ではありえない。対話から生まれる真理は、新たなる思考への刺戟としては当事者たちのあいだで共有されるけれども、真理は、それ自体としては、私たち一人ひとりのあり方と一体であり、本質的に実存的、あるいは実存論的な性格のものであるから、これを共有することは、不可能であるというよりも、最初から問題にならないと考えるべきである。

 また、現実の問題として、哲学は、西洋を本場とするものであり、研究の場としての日本は永遠に周縁にとどまらざるをえない。自然科学や社会科学の場合、ある研究分野において日本が周縁にすぎぬとしても、それは、研究者が少ない、研究資金が少ないなどの事情によるものであり、偶然の結果にすぎない。しかし、哲学に関するかぎり、日本が周縁であるのは必然であり、欧米の研究動向をウォッチし続け、欧米と張り合う不毛な努力を続けても、日本が周縁から抜け出し、世界の哲学の新たなトレンドを作り出す可能性はゼロである。

 しかし、哲学というものの本来の姿を考えるなら、欧米の流行の最前線を追いかけることが哲学の最前線なのではなく、むしろ、本当の意味における最前線、つまり、活発な思考により真理が産み出される場が哲学にあるとするなら、それは、テクストと対話しつつ哲学が遂行される場に他ならない。すなわち、哲学が遂行されるとき、そこはただちに哲学の最前線となるのであり、本当の意味における哲学の最前線と哲学は、同じ一つのものなのである。私たちは、哲学を遂行することにおいて、ただちに哲学の最前線に身を置く。哲学の最前線に身を置くとは、日本にいながら欧米の研究動向をウォッチすることではないし、欧米の研究者と張り合うことでもなく、哲学史との対話において自分自身のあり方を深く考えるふるまいのうちにあると言うことができる。

Sunday

研究者には、カネと時間が慢性的に不足している

 自分で調査したことがあるわけではないけれども、大学の教員が口にする苦情の上位2つは、間違いなく「研究資金がない」と「研究時間がない」である。

 これら2つで、大学の教員が口にする可能性のある苦情全体の90%を占めているに違いない。もちろん、「体調がすぐれない」「隣の研究室がうるさい」「学生がバカだ」など、研究生活において出会われる問題は少なくないとしても、カネと時間さえあれば、問題の大半は解消されるということなのであろう。

 実際、授業、会議、書類作り、試験監督などに時間を奪われ、研究テーマに集中することが難しい研究者、あるいは、(特に国立大学の理系の場合、)競争的研究資金が思うように獲得できず、そのせいで研究を進めることができない研究者はいたるところに見出される。このかぎりにおいて、現在の日本の大学の教員は、「労働者」にかぎりなく近づいていると言うことができる。

理系と文系では、必要とするカネの規模が違う

 ただ、時間とカネのあいだには、若干の違いがある。すなわち、時間の不足が専門に関係なく多くの研究者に共通の悩みであるのに反し、カネの方の悩みは、2つの点において研究分野によりその内容を異にしているのである。

 まず、誰でも知っているように、理系と文系では、必要となる研究資金の規模がまったく異なる。もちろん、「理系」「文系」と総称されるそれぞれのグループは、決して一様ではない。「理系」にも、実験の比重が必ずしも大きくない数学のような分野があり、同じように、「文系」と言っても、社会心理学や人類学のようにフィールドワークが必須の分野がある。それでも、全体としては、理系の方が文系よりも多くのカネを必要とすることは確かであり、また、文部科学省と日本学術振興会が配分する科学研究費補助金に代表される競争的研究資金も、大半が理系の研究に配分される。理系の方は、配分先の研究分野が細かく区別されているのに対し、文系の方は、「人文社会科学」という雑な分類にすべてが押し込められているのである。

理系の研究はつねに資金を必要とするが、文系、特に人文科学はそうではない

 しかし、研究分野によるカネをめぐる事情の差異に関し、さらに目立つのは、カネをもっとも必要とする時期である。

 理系の場合、研究資金というのは燃料のようなものであり、研究が進行しているかぎり不足することを許されないものである。理系、つまり自然科学では、「最新」と「最良」が同一であり、「最新」をつねに追求していなければならない以上、これは仕方がないことであるに違いない。研究資金との関係で言うなら、自然科学の研究成果というのは「砂上の楼閣」のようなものなのである。

 これに対し、文系、特に人文科学(伝統的には「哲史文」、つまり哲学、歴史、文学の三分野を指す)では、事情が異なる。必要となるカネが少額で済むばかりではなく、カネがないと研究が完全に停滞してしまうこともないのである。なぜなら、自然科学において研究資金が燃料として消尽されてしまうのとは異なり、人文科学の場合、研究のためにそれまでに投資された資金の多くは、再利用可能な研究成果や資料として蓄積されて行くからである。人文科学に投入された研究資金は、すでに手もとにある資産に新しいものを付加するために使われるのである。一度に投入する金額が少なくても、研究がすぐに滞ることがないのはそのためである。

人文科学では、研究者のキャリアの初期段階でカネがかかることが多い

 私の個人的な経験の範囲では、学部生の時代を文学部で過ごし、そのまま人文系の大学院に進学し、さらにそのままアカデミックな仕事に就くというキャリアパスにおいて、研究資金が一番必要になるのは大学院の博士課程のころである。基本的な研究資料を手もとに揃えることが必要になるからである。

 業績を作るには絶対に必要だが大学の研究室にはない、それどころか、国内の大学のどこにもない資料がある場合、たとえチラッと見れば済むものであるとしても、これを手に入れるには、相当なカネが必要になる。私自身、大学院生の博士課程に在籍していたころには、人生で最初の――そして、今のところ最後の――借金を背負った。各種のレファレンス、全集、叢書、研究文献などを必要な範囲で手に入れるためである。(特に、私の研究対象に関する文献は、大学の研究室にはほとんど何もなく、ゼロからすべて集めなければならなかった。)

 実際、大学院生のころ、ある文献を読んでいたら、有名な研究者が「○○が書いた△△という本があり、××という文献に言及があるが、自分は肝心の△△を見ていないから影響関係について断定的なことは言えない」という意味のことを書いているのを見つけた。

 私は、これを見て、「それなら、△△を絶対に手に入れてやる」と考えた。ところが、図書館で調べたところ、この△△という本は、国内の大学図書館のどこにも所蔵されていないことがわかった。そこで、仕方なく、大学の図書館を経由して、ドイツのある大学図書館からこれを航空便で取り寄せた。もちろん、自費である。そして、業者に頼んで、この本――18世紀の本だった――の全部のページをコピーし製本してもらった。これも自費である。本を取り寄せてコピー、製本するのに、合わせて約10万円の費用がかかった。また、このころは、神田の崇文荘書店や北沢書店に毎月のように通い、たくさんの本を注文していた。カネはいくらでも必要であった。

 ただ、このようにして手に入れた本は、20年以上経った今でも私の書架に収まっており、資料として半永久的に使用することができる。人文科学の場合、どれほど高額なものでも、一度買ってしまえば、多くは、たえず更新しなければ使い物にならなくなる、などということはない。また、更新が必要となる場合でも、古いものに新しいものが付加されて行くのが普通である。したがって、「初期費用」は相当な規模になるけれども、その後は、時間の経過とともに研究資金の「必要最低限度額」は、急速に減少して行く。

 何千万円ものまとまった研究資金が必要になることは、カネを使うことをそれ自体として目的とするような意味不明の共同研究でも企てないかぎり、ほとんどないに違いない。また、何千万円もする高額な資料を必要とする研究がないわけではないけれども、このような資料は、大抵の場合、国内の研究者の誰かがすでに買ってどこかの大学図書館に入れている。所蔵している大学図書館から取り寄せれば、カネは一銭もかからない。

 だから、人文科学については、大学の専任教員になってしまった者よりも、むしろ、どちらかと言うとキャリアの初期の段階にある研究者を手厚く支援することにより、大きな成果を期待することができるはずである。カネをもっとも必要とするのが初期の段階だからである。

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