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藝術作品には適正価格がない

 藝術作品について、何を根拠として値段が決められているのか、不思議に感じることがある。

 文学、音楽、映画などの場合、値段は、制度の都合や物理的な制約によって一定の幅に無理やり収められているのが普通である。ここには、比較のためのわかりやすい尺度が形作られていると言うことができる。

 これに対し、絵画や彫刻や写真については、値段の上限と下限を決める強制力は何もない。したがって、何を購うのにいくらかかるのか、私のような素人にはサッパリ見当がつかない。

 もう20年くらい前になるが、ある写真家の写真展に行ったとき、会場で作品が販売されているのを見かけた。販売されている写真にはそれぞれ、何らかの仕方で額装された状態で5000円から数万円までの値段が付けられていた。私は、これを見て、思わず「高い……」とつぶやいたのだが、このつぶやきが会場の受付をしている中年の女性の耳に届いたらしく、怒りに満ちた鋭いまなざしを向けられ、思わず後ずさりしたことがある。(念のために言っておくなら、私は値切ろうとしたのではない。)

 プロの写真家、しかも、それなりに名の通った写真家の作品が5000円というのは、決して割高ではないのかも知れないが、基準がよくわからない素人にとっては、高いのか安いのか、直観的にはわからないのである。

費用対効果にもとづいて値段が決められないものというのが藝術作品の定義

 そもそも、藝術作品というのは、費用対効果を測定することができないものである。だから、藝術作品に関するかぎり、具体的な効用との関係で値段を決めることができない。値段は、たとえば、市場における作者の評価や流行に依存することになるが、これらは、作品から必然的に帰結するものではなく、このかぎりにおいて、合理的なものではない。

 藝術作品の評価に「目利き」(connoisseur) の存在が不可欠であるのは、そのためである。

 そして、価格が効用と何の関係もないというのは、藝術作品の定義でもあるに違いない。というのも、期待することのできる効用が明確であるようなものは、藝術作品ではなく、道具と見なされるからである。

 藝術作品の藝術作品である所以は、何か別の目的を実現するのに役に立つのではなく、その存在がそれ自体として価値であり目的である点にあると言うことができる。

人生そのものが藝術作品である

 自己目的的、自己完結的なものがすべて藝術作品であるなら、人生もまた、藝術作品との類比において理解することが許される。なぜなら、一人ひとりの人生は、それ自体として価値があるからであり、何か別のものの手段とはなりえないからである。

 もちろん、たとえば「他人への奉仕」に人生の意義を見出している人がいるとしても、このことは、人生が自己目的的、自己完結的であることと対立するものではない。課題なり目的なり意義なりが設定された人生がそれ自体として一つの目的だからである。反対に、課題も目的も意義も見出すことのできない人生が空虚なままにとどまることは確かである。

 しかし、それとともに、一人ひとりの人生の価値は、このような課題や目的や意義の「達成度」によって評価されてはならない。万人に共通の尺度によって外部から評価しうるような「何か」を産み出した人生の方が、何もなしとげられなかった者の人生よりも価値があるなどということはないのである。

 人間が自己形成する藝術作品である。(何に向かってあるとしても、また、どのようにであるとしても、)ともかくも形をみずからに与え続けるかぎりにおいて、人生には、他には代えることのできない価値があるように思われるのである。