Best Friends

 私たちは誰でも、幸福になりたいと思っている。少なくとも、不幸になりたいと思う人はいない。

(1) もし「不幸になりたい」と言っている人がいるとするなら、その人が「不幸」という言葉で指し示している事態に身を置くことが、その人にとっての幸福なのであるから、「不幸になりたい」と言っている人も、本当は、幸福を求めているのであると考えなければならない。

(2) また、「今の状態で十分幸福である」と語り、現状に満足しているように見える人も、現状を維持することを選んでいるわけであるから、やはり、この人にとっても、幸福が好ましいことに変わりはないのである。

 幸福というのは、どのような状況のもとでも必ず選ばれるものであり、「必ず選ばれるもの」というのが幸福の定義でもある。

 とはいえ、私たちは、つねに何かを選び取っているのに――というよりも、何かを選び取らなければ、一瞬たりとも生きることができないのに――つねに幸福であるわけではない。むしろ、社会生活の中では、何とはなしの「不幸感」が常態であって、「あなたは今幸福ですか」という問いに対して「幸福です」と答えることのできる人の方が少ないようにも見える。

 私たちは、この「不幸感」を放置しているわけではない。これを解消するために、さまざまな試みが提案され、実行されている。もちろん、人間のふるまいを全体として見るなら、これは、上に述べたような意味における幸福の追求でしかありえない。しかし、私たちが具体的に時間とエネルギーを費やしているものの多くは、幸福の実現を目標とするものであるというよりも、むしろ、「不幸感」の解消を具体的な目標としている。手帳に記された予定を消化するのも、酒を飲むのも、旅行するのも、友人とゴルフに行くのも、すべて、現状に対する不満足を解消したり、これから目をそむけたりするためのものであるに違いない。

 それでは、何をすれば、あるいは、どのような状態に身を置くことにより、「不幸感」が解消されるのであろうか。この問いには、しかし、人類の歴史とともに古い答えが用意されている。すなわち、「今、ここ」にとどまることである。換言すれば、過去や未来について思い煩うことなく、現在のこの瞬間に注意を集中させることである。

 もちろん、これは、「何もかも忘れて享楽的に時間を過ごす」ことではない。その都度の「今」の自分のあり方がつねに人生の目的――つまり主体的に選び取られたもの――となるようにふるまうことである。たしかに、形式的に考えても、また、実質的に考えても、幸福感を作り出すただ一つの道であるに違いない。ホラティウスの有名な言葉「日を掴め」(carpe diem) は、この道の簡潔な表現である(『歌集』第1巻第11歌)。

…… Sapias, vina liques et spatio brevi
spem longam reseces. dum loquimur, fugerit invida
aetas: carpe diem, quam minimum credula postero.

……あなたのワインから澱を取り除きなさい、そして、賢さを明らかにしなさい。
短い人生にあわせ、遠い将来の希望を切り詰めなさい。時間は妬み深く、私たちがしゃべっているあいだにも、流れ去っている。
明日のことはできるだけ信用しないようにして、それぞれの1日を真剣に掴みとりなさい

 「過去の私」や「未来の私」のために「現在の私」があるのではない。反対に、その都度の「現在の私」のかけがえのなさを味わうことができるような生き方こそ、幸福な生き方である。今の私のあり方をつねに主体的に選び取り、どのような困難な状況に身を置いても、「この状況は俺が選び取ったものだ」と確信すること、あるいは、これを運命として主体的に引き受ける――いや「引き寄せる」「抱き寄せる」と表現すべきかも知れない――ことが幸福の秘訣なのである。