AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:依存症

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 日本の社会は、飲酒に対して驚くほど寛大である。酒を飲まないせいか、私には、これが理解できない。

 酒を製造したり販売したり購入したりすることに制限を設ける必要はないとしても、飲食店に代表される公共の空間での飲酒は、全面的に禁止されるべきであると私はひそかに考えている。

喫煙者に囲まれていると

 私はタバコを吸う習慣がない。また、過去にタバコを吸ったこともない。しかし、子どものころ、私の家族は、私以外は全員タバコを吸っていた。

 私の家の中は、いつもタバコの煙が充満していた。朝、窓のカーテンを開けると、太陽の光がタバコの煙を通して差し込んでくる。そして、タバコが屋内で分厚い雲のようになっているのがよく見えた。換気のために窓を開けると、雲のような煙の塊が屋外に吸い出されるように排出されて行くのも観察することができた。当然、窓ガラスやカーテンはヤニだらけであった。(ただし、私の家族には、肺がんが原因で亡くなった者は一人もいない。)

 このような環境で育ったせいか、近くで誰かが喫煙していても、あまり気にならない。最近、受動喫煙の健康への害がよく取り上げられており、たしかに、喫煙に制限が必要であることはわかるけれども、個人的には、喫煙者に少しだけ同情している。私は、喫煙には比較的寛大なのである。

喫煙と飲酒と、どちらが有害か

 喫煙者が身近にいない人なら、喫煙は制限されるのではなく、むしろ、全面的に禁止すべきであると考えるかも知れない。たしかに、本人にとっても周囲にとっても、喫煙が健康によくないことが明らかである以上、禁止することには何の問題もないように見える。

 しかし、酒の害と比較するなら、タバコの害など、大したことはない。何といっても、酒の場合、摂取することにより、ほぼ確実に思考能力や判断能力が損なわれることは、誰にとっても自明のことである。自動車と自転車の飲酒運転が禁止されているのは、当然のことなのである。「喫煙運転」なるものの法的な規制が試みられたことがないという事実は、飲酒が喫煙とは比較にならないくらい有害であることを雄弁に物語る。

 さらに、喫煙が原因でニコチン中毒になる可能性がないわけではないとしても、飲酒によってアルコール依存症になる可能性の方がはるかに高く、さらに、周囲に対して与える害悪も大きい。これもまた、誰でも知っていることである。

 また、喫煙の害が周囲に及ばないようにするには、煙が拡散して受動喫煙が発生しないようにすればよいだけであるのに対し、飲酒の害が周囲に及ばないようにするには、アルコールを摂取する者をどこかに隔離することが必要となる。

 このような点を考慮するなら、公共の場所においてまず制限、禁止が検討されるべきであるのは、喫煙ではなく飲酒であり、2020年までに公共の空間からアルコールを一掃することができるなら、(そして、街頭から酔っ払いを消去することができるなら、)それは東京という都市の価値を大いに向上させることになるのではないか、私はこのように考えている。

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久しぶりに「デジタル断食」してみた

 しばらく前、「デジタル断食」を実行した。仕事のデッドラインに追われていたため、およそ1年ぶりである。

 私の職場が休みだった平日の24時間――正確には、前日の夜から翌日の朝までの36時間――を、パソコン、スマホ、タブレット(私は所有していない)、そして、テレビの電源をすべてオフにして過ごすことに決めた。当日、デジタル機器に一応分類されるもので電源が入っていたのは、自宅の固定電話だけである(が、実際には、一度も鳴らなかった)。

 以前に投稿した記事に書いたように、「デジタル断食」と言っても、特別なことは何もない。だたデジタル機器の電源をオフにするだけである。


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 当然、最初のうちは、手持ち無沙汰に苦しめられる。これもまた、次の記事に書いたとおりである。


無為を自分に強いることについて、あるいは「手持ち無沙汰」と生産性について 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

手持ち無沙汰の効用について哲学的に考える。

 「デジタル断食」の1日は長い。時間が経つのが遅いと感じられるのも原因の1つであるが、最大の原因は、パソコンやスマホをいじることで失われていた時間が私たちの手もとに戻ってくることにある。1日の多くの時間をパソコンやスマホの操作で無駄にしていることに気づき、「デジタル断食」のたびに愕然とする。

「デジタル断食」を実行すると、眠っていた生産性が刺戟される

 逆説的なことに、「デジタル断食」を実行し、外部からの刺戟を遮断すると、失われていた知的生産性が回復する。少なくとも、パソコンやスマホを前にしているときよりも、脳の活動が活発になっていることは確かである。

 私は、日中のほぼすべての時間を本を読んで過ごしたけれども、たとえ時間があっても、パソコンやスマホの電源が入った状態では、集中力が続かない。デジタル機器から離れただけで、1つのことに注意を向け続ける力が蘇ることは明らかであった。

 そもそも、ある程度以上の時間パソコンやスマホの画面を連続して眺めていると、脳波が睡眠時と同じような状態になることは事実として以前からよく知られている。ネットやスマホの使用に中毒性があると言われる所以である。パソコンやスマホをいじると脳の生産的な活動が抑制されるのは当然なのである。

 だから、解決すべき問題を抱えていたり、何かに関して行き詰まりを感じていたりするなら、デジタル機器から距離をとった状態で時間を過ごすことは、有効であるばかりではなく、必要ですらある。

 デジタル機器と完全に絶縁して生きることは、現代ではほぼ不可能であるかも知れないが、私たち一人ひとりの内部にあり、そして、意思決定において重要な役割を担うはずの「本能的なもの」あるいは「野生」を目覚めさせるためには、わずか1日でもよい、「デジタル断食」の実行は必須であるように思われるのである。

Young Cell Phone Addict Man Awake At Night In Bed Using Smartphone

エゴサーチには中毒性がある

 私は、1日のうちどこかで1回、「エゴサーチ」するのを習慣にしている。エゴサーチとは、自分の名前(やハンドルネームなど)を検索することである。

 これから述べるように、本当は、これはあまり好ましくない習慣であり、やめた方がよいとは思っている。しかし、パソコンの前に坐っている時間が長いせいか、どうしても「エゴサーチ」してしまう。エゴサーチには中毒性があり、タバコやアルコールと同じように、一度習慣になってしまうと、やめることが難しいようである。

 エゴサーチに中毒性が認められるのは、それが、きわめて歪んだ仕方であるとしても、「承認欲求」を満足させるものだからであろう。私の名前が検索の結果としてヒットするのは、誰かが私に注意を向け、私の名前を含む文章をネット上に投稿したからである。エゴサーチでヒットした件数は――自動的に収集された情報が機械的にコピーされたページでないかぎり――私に向けられた注意の量を反映するものとして受け止めることができる。エゴサーチを始めると、やめることが難しいのはそのためであるに違いない。

ネット上の評価の8割以上はネガティヴなもの

 ただ、エゴサーチにより私が目にする検索結果は、大抵の場合、決して好ましいものではない。というのも、私は、職業柄、本名で著書や論文を公表しているけれども、ネット上、特にSNS上で出会う私への言及の大半が批判または誹謗中傷によって占められており、多少なりとも好意的なものは、全体の1割にも満たないからである。だから、エゴサーチするたびに、そして、新しい検索結果を見つけるたびに、私は意気阻喪することになる。

 とはいえ、これは、私の場合が特別なのではなく、ネット上、特にSNS上に公表された誰かに関する評価の8割以上はネガティヴなものであると言われている。
NEWSポストセブン|ネットの書き込みは8割が悪口 エゴサーチやめるのが吉の声│
 エゴサーチを試みると、サイバースペースが恨み、怒り、妬みなどの悪意によって満たされた空間であることがよくわかる。

エゴサーチは、かゆい湿疹をかきむしるようなもの

 エゴサーチは、私の承認欲求を歪んだ仕方で満たしてくれるものである。だから、検索結果を表示するページが誹謗中傷や罵詈雑言によって埋め尽くされているとしても、そして、検索するたびに汚らしい誹謗中傷や罵詈雑言を必ず目にするとわかっていても、エゴサーチをやめることができない。そして、実際に、エゴサーチするたびに、私の心は少なからず傷つき、生活の質は間違いなく損なわれて行く。

 たしかに、ネットの世界には、みずからが「打たれ強い」ことを公言し自慢している人々がいる。このような人々がどのような気持ちで自分に対する誹謗中傷や罵詈雑言を眺めているのかわからないけれども、決して「打たれ強い」方ではない私などにとり、エゴサーチは一種の自傷行為である。

 不特定多数の目に触れるような仕方で作品を公表したり、発言したり、行動したりする人々にとり、エゴサーチの習慣は、一種の嗜癖である。かゆい湿疹のかゆみを解消するため、これをかきむしり、かきむしることで血が流れても、さらにかきむしり続け、これがさらなるかゆみを惹き起こす……、エゴサーチは、これに似た悪循環を私たちの心の中に産み出しているように思われるのである。

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酒とスマホと、どちらが有害か

 携帯電話、タブレット型端末、ゲーム機などのデジタル機器を未成年に持たせるべきではないと私は考えている。未成年にとって、このようなデジタル機器は有害だからである。未成年に酒や煙草が禁じられているのと同じ理由で、このような機器も禁止すべきなのである。

 飲酒や喫煙は、健康を損ねるおそれがあるという理由で、未成年には認められていない。大人になり、自分の健康を自分で管理することのできる(ということになっている)年齢に達してから、自分の責任において酒や煙草を手に入れればよいのである。

 実際、酒と煙草に関する規制は、社会において広く受け容れられているはずである。少なくとも、未成年の飲酒と喫煙を禁じる法的な規制に対する露骨な異議申し立てというものを私は知らない。たしかに、次のような主張がまったく見出されないわけではない。

酒や煙草の依存症が生まれるのは、成人に達するまでこれらにアクセスできず、酒や煙草に対する幻想を抱くからである、したがって、子どものころから酒や煙草に慣れさ、酒や煙草との正しい付き合い方を覚えさせれば、酒や煙草について余計な幻想を持たずに済むから、大人になってから酒や煙草に溺れて健康を損ねるリスクを減らすことができる。

 しかし、多くの日本人は、このような主張を極端な少数意見、考慮するに値しない意見と見なすであろうし、実際、そのとおりであろう。

 ところが、デジタル機器については、事情は正反対である。デジタル機器、特にインターネットに接続可能なものについては、これらが依存症を惹き起こすことが20年以上前から実験や観察によって繰り返し確認され、この事実が社会において広く共有されているにもかかわらず、したがって、未成年の精神的、身体的な健康を脅かすことが明らかであるにもかかわらず、未成年のデジタル機器の使用を法律によって規制すべきであるという声は驚くほど小さい。(少なくとも、私自身は耳にしたことがない。)

 デジタル機器の使用を法律によって規制すべきであるという主張を耳にすると、多くの人は、次のように反論するであろう。

現代社会では、デジタル機器を使いこなすことができなければ生産的な活動に従事することができない。デジタル機器に早くから慣れさせ、ネットとの正しい付き合い方を覚えさせれば、デジタルやネットについて余計な幻想を持たずに済むから、デジタル・デバイドになったり情報弱者になったりネット中毒になったりするリスクを減らすことができる。

 驚くべきことに、これは、子どものころから酒や煙草に親しむことを推奨する上記の極論と同じ論法であるにもかかわらず、多くの日本人がこれを受け容れている。これは、実に不思議なことである。

未成年のデジタル機器の使い方は「子ども英語」と同じ

 もちろん、子どものころからデジタル機器に親しんでいれば、現代社会において生産的な活動に従事することができるのという相関関係が明瞭であり、大きなメリットがあるのなら、未成年のデジタル機器には少なからぬ危険があるとしても、いわば「ホメオパシー」のようなものとして、デジタル機器を子どもに使わせることは、現実的な選択となりうる。しかし、もちろん、子どもにデジタル機器を持たせてもよいのは、この相関関係を確認することができるかぎりにおいてである。

 それでは、子どものころからネットに接続した機器を使っていれば、社会に出たときに、これを使いこなして生産的な活動に従事することができるようになるのであろうか。両者のあいだに相関関係を認めることができるのであろうか。もちろん、私たちがよく知る事実が示しているように、この問いに対する答えは「否」である。

 スマートフォンやタブレット型端末を自由自在に使いこなしている(ように見える)若者でも、就職してから、パソコンによるデータの処理、資料の作成、メールの送受信などの基本的かつ初歩的な作業すらできないことが少なくない。そもそも、そのため、30歳以上年長の、社会人になって初めてパソコンに触れたような世代から「情弱(=情報弱者)」などと呼ばれているのである。

情報の「捨て方」 知的生産、私の方法

 上の本において、著者の成毛眞氏は、若者の大半がデジタル機器を使いこなすことができない情報弱者であるという意味のことを語っているけれども、これは、私の印象に合致するばかりではなく、私の世代のサラリーマンの多くが日々実感していることでもあるに違いない。実際、次のような記事をネットで見ることができる。

日本の学生のパソコンスキルは、先進国で最低レベル

NEWSポストセブン|パソコンを使えない新入社員増 スマホネイティブの弊害│

「PCを使えない学生が急増」の問題点 (1/5)

 ただ、少し冷静に考えてみれば、デジタル機器に早くから親しむことと、大人になってからの生産性とのあいだには何の関係もないことは、実験や観察によらなくても、誰にでもわかるはずである。というのも、社会に出る以前の(大学生を含む)子どもが日常生活おいて必要とするデジタル機器のスキルは、社会に出てから要求されるスキルとはまったく異なるからである。スマホをダラダラといじったりゲームに興じたりしていても、生産性を向上させるためのスキルが身につくわけではないのである。

 子どものころに英語圏で何年か生活し、表面的には英語がペラペラに喋ることができるように見える大人がいる。しかし、このようないわゆる「帰国生」(最近は「帰国子女」と呼ばれなくなっている)の英語は、ネイティヴ・スピーカーからは必ずしも評価されない。なぜなら、子どものときに現地で習得した英語というのは、基本的に「子ども英語」だからである。帰国生が現地で身につけてきた英語は、子どものあいだでの会話に最適化された英語であり、大人の耳には、舌足らずで幼稚で乱暴な英語と響く。帰国生であるとしても、英語力のアップデートを普段から心がけ、「大人英語」を身につけないと、ある程度以上フォーマルな場面で通用する英語にはならないのである。

 デジタル機器の使用についても、事情は同じである。大人として社会に出たときにデジタル機器を使いこなして生産的な活動に従事することができるかどうかは、大人の社会に最適化されたデジタル・スキルを身につけたかどうかによってのみ決まるのであって、子どものときからデジタル機器に親しんでいることは、子供の将来にとって何の役にも立たない。それどころか、スマホやゲームによって貴重な時間が奪われているにすぎず、この意味では、子どもにデジタル機器を持たせるなど、害しかないように私には思われる。


NoPhone

 今日のウォールストリート・ジャーナルに、次のような記事が載っているのを見つけ、少し興奮した。
何もないスマホ「ノーフォン」に秘められた機能とは

 ここで取り上げられているのは、NoPhoneと呼ばれる「スマートフォン」である。下の公式ウェブサイトにあるように、この電話機には、何の機能もない。(だから、ある意味では、スマートフォンサイズの黒いプラスチックの函にすぎないとも言える。)価格は10ドルである。カップルで「使う」場合を想定し、2個なら18ドルとなる。「ファミリープラン」と名づけられた5個のセットは45ドルである。また、画面の部分が鏡になった”NoPhone SELFIE”も販売されており、これは18ドルである。

 さらに、最近は、”NoPhone Air”なる「新型」が発表された。これは、NoPhoneから筐体を取り除いたものであり、単なる空気である。(だから、包装のパッケージだけが販売される。)まだ販売は始まっていないが、1個3ドルのようである。

The Official NoPhone Store

 私は、以前から、スマートフォンが有害であると考えてきた。

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スマホを手放せない人間は障碍者だと思って今後は同情することにした : アド・ホックな倫理学

他人との交流の多くがネットで行われる中、あえてSNSを利用しないティーンがいる。友達からの「いいね」を求める生活を拒否し、フェイスブックやインスタグラムも利用しないが、彼らは何を得て何を失っているのだろうか。情報源: 米国ではSNSに背を向ける10代も - WSJ


 日常的にスマートフォンを使わざるをえないのなら、せめて1週間のうち連続した24時間、デジタル機器の電源を完全に落とすべきであり、パソコンでも用が足りるなら、スマートフォンなど最初から持つべきではないというのが私の意見である。ウォールストリート・ジャーナルの記事を俟つまでもなく、スマートフォンが社会の健全性を損ねていることは明らかだからである。

 もちろん、これはラッダイト運動ではない。私が理想とするのは、すべてのデジタル機器を社会から追放し、100年前の世界へと戻ることではなく、どのような場面でつながり、どのような場面でつながらないか、これをコントロールする本能と権限が私たち一人ひとりの手に戻ってくることである。そのためには、スマートフォンのどれになって、ゲーム、SNS、ニュースなどを餌に分別を奪われ、そして、時間とエネルギーと健康を吸い取られて行くことに断固として抵抗し、自己支配を目指すことが必要となる。

 NoPhoneの企画は、単なる冗談ではない。デジタル機器とインターネットに縛りつけられた、あるいは、デジタル機器に対する依存症に陥った私たちの生活のあり方に対する危機感の反映なのである。NoPhoneは、このような危機感の記号として受け止められているからこそ、すでに1万個以上が製造、販売されていると考えるのが自然である。

 スマートフォンをどうしてもいじりたくなったときには、このNoPhoneを手にすると、スマートフォンを使って何をしようとしているのか、冷静になって考えることができるはずである。これがNoPhoneのただ1つの、そして、本当の機能であるに違いない。







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