AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:健康

New sit-stand workstation for my office

 世間の常識は、立ったままものを食べたり飲んだりするのが避けるべきふるまいであることを教える。だから、大都市の駅の構内にある立ち食い蕎麦屋や立ち飲み屋は、飲食店としては決して高級と見なされることはない。

 同じように、読書に代表される知的な作業もまた、着席した姿勢で行われるのが普通である。たとえば、戦前に全国の多くの小学校に設置されていた二宮尊徳像は、柴を背負って歩きながら読書する少年を模ったものであり、歩きながら読書する少年の姿は、寸暇を惜しんで勉強する勤勉と、読書に当てられる時間が移動中にしか確保することのできない窮状の表現である。

 ただ、歩きながら読書することは、危険であるかも知れぬとしても、少なくとも行儀が悪いとは見なされていない。だから、立ったまま本を読む――朗読するのではない――ことの可能性が追求されても悪くはないように思われる。

 実際、ヨーロッパでは、起立した状態でデスクワークを行うための立ち机(standing desk)が広く使われてきた。ブッシュ政権時代の国防長官だったラムズフェルドが立ち机の愛好者であるというのは、よく知られた事実である。

Famous Standing Desk Users in History

 実際、私自身、図書館で本を探すときには、立ったままの姿勢で本を読む。また、自宅でも、壁に寄りかかって本を読むことがある。私も、立ち机を使いたいとは思うけれども、これは、普通のデスクと異なり、身長に応じて脚の長さが変わる――つまり、椅子で調節できない――から、基本的には、「自分専用」とならざるをえず、そのため、まだ手に入れてはいない。

 「立ったまま」であることの最大の効用は、知的作業と歩行がシームレスになる点である。椅子に腰をかけたり立ち上がったりする作が不要であり――おそらく腰にもやさしい――本を閉じたら、あるいは、パソコンを閉じたら、すぐにその場を離れて移動することができる。

 ウィキペディアの英語版によれば、立ち机は、カロリー消費、および心臓病と糖尿病のリスクの軽減という点で普通のデスクでの作業よりもすぐれているけれども、それとともに、静脈瘤のリスクが高くなったり、妊娠中の女性が長時間立っていると、新生児の出生時体重が減少することになるようである。

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食事に制限のある病人を看護していると

 10年以上前、親族の看護のため、病院に2ヶ月近く泊まり込んだことがある。

 看護のために病院に毎日通うというのは、それまでにも経験があったけれども、病院に泊まり込むのは、そのときが最初――であり、今のところは最後――である。

 その親族の病気は、食事に関して厳しい制限があり、私は、入院前から在宅で半年近く付き添い、食べものの選択と調達に関して試行錯誤を繰り返していた。

 当然、普通のスーパーマーケットで売られているもの、普通の飲食店で提供されているものなどはほぼすべて、この病人には、そのままでは食べられない。口にすることができたのは、高カロリーの――当然、非常にまずい――流動食だけであった。

 そして、このような病人と一緒に生活していると、食べものを見る目が次第に変化してくる。何を見ても、「病人に食べさせられることができるかどうか」という観点から評価するようになってしまうのである。

 飲食店で普通に食事する人々を見るたびに、あるいは、コンビニエンスストアで普通の食品を買う人々を見るたびに、「ああ、この人たちは健康なんだな」という感想が心に浮かぶ。

 もちろん、普通に食事している人たちのすべてが健康とはかぎらない。それでも、最低限の健康を前提として提供される食べものをそのまま口にすることができるというのは、私の目には光り輝くような健康の証と映った。

普通の食事は最低限の健康を前提とする

 病院への泊まり込み――もう2度とやりたくない――から10年以上経つ。私が看護した病人は、すでにこの世にはいない。それでも、私は今でも、街を歩いていて飲食店の看板に記されたメニューを眺めるとき、そこに記された料理がその病人には食べられないことを確認していることに気づく。そして、そのたびに、きわめてまずい流動食しか口にすることができずに亡くなった病人に深く同情するとともに、普通に自由に食事することを私に許すみずからの健康に感謝する。

 街の普通の飲食店で普通に食事するためには、最低限の健康が必要であること、そして、世の中には、この最低限の健康を奪われている人が少なくないこと、看護の経験は、私にこのような点を教えた。食事を粗末にすることなく、毎回の食事を大切にするようになったのは、それからである。

 「丁寧な暮らし」は、私の大嫌いな言葉である。次のブログに記されているように、いわゆる「丁寧な暮らし」は、暇人の道楽でしかないと思う。

「丁寧な暮らし」とかしてる奴は滅亡しろよ : やまもといちろう 公式ブログ

 ただ、食事に関するかぎり、これをそれなりに「丁寧」に扱うことは、健康を維持するために、そして、何よりも、健康に感謝するために、決して無駄ではないに違いない。

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1日3食×365日=1095回

 1日に3食を規則正しく摂ると、私たちは、1年間に1095回(うるう年には1098回)食事する。10年間で10950回、50年間で54750回も食べることになる。

 「これだけ食べなければ生命を維持することができない」と考えるなら、人間の生命というのは、ずいぶん効率悪くできているということになるのであろうが、実際には、食事は、生命を維持するために必要なもの、やむをえざるものであるばかりではなく、これには、生活を人間的なものにするために必須の楽しみとしての側面がある。

 以前に投稿した別の記事で書いたように、人間の味覚は保守的である。


おいしさの幅 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

人間の舌は保守的 人間は、年齢を重ねるとともに、味の許容範囲が広がり、おいしいと思える食べもののバラエティが増えて行くものだと私は信じていた。実際、子どものときにはとても食べられなかったような紫蘇やタラの芽を、大人になってからはそれなりにおいしく食べられ

 それにもかかわらず、新しい味、新しいレシピが世界のどこかでつねに産み出されている。これは、食事が生理的な現象であるというよりも、本質的に文化的な現象だからであると考えるのが自然である。(さらに言えば、食事というのは本質的に「社交」であるから、食事の質を左右するもっとも重要な要素は、「何を」ではなく、「誰と」「どのような状況のもとで」である。)

 1年間で1095回の食事は、文化的な活動である。つまり、いつ、何を、どこで、誰と、どのように食べるかというのは、私たち一人ひとりの生き方の問題となるのである。

食べたいように食べるか、それとも、健康を優先するか

 この世には、健康によいものが食べたいものと一致する幸福な人がいないわけではない。しかし、私を含め、大抵の場合、両者は一致しない。

 つまり、健康に配慮するなら、食べたいものを我慢しなければならないし、食べたいものを食べたいように食べることにより、健康はいくらか犠牲にならざるをえない。

 さらに言い換えるなら、今後の人生において出会う食事の回数を増やすためには、健康的な(、したがって、場合によってはあまりおいしくない)食事を選ばなければならず、反対に、おいしいけれども必ずしも健康的ではないような食事を重ねることにより、残された食事の回数は制限されることになるのである。

 問題は、両者のバランスである。何を食べるかを決めるにあたり、健康は重視すべき要素の1つではあるが、食事が本質的に文化的な活動であり、(ただひとりの食事であるとしても、)社交である以上、もっとも大切なのは、食事が楽しいことである。

 したがって、食事が社交であるかぎり、どれほど健康を増進する効果があるとしても、健康を増進する効果があるというだけの理由によってまずいものを我慢して選ぶようなことがあってはならない。ただ健康的であるにすぎぬまずいものは、もはや食事ではなく、餌にすぎないからである。

人生の終わりに思い返し、食べなかったことを後悔する可能性のあるものは今すぐに食べるべし

 私たちには誰でも、好きな食べものがある。それは、必ずしも毎日のように食べたいものではないかも知れないが、やはり、ときには優先的に食べたいと思うものであり、人生の最後に自分の食事を振り返り、「ああ、あれを食べたかったな」とか「ああ、もう一度あれを食べたい」と願うようなものであるに違いない。しかし、人生の本当の最後になったら、その願いは、主に体力的な事情により、もはやかなわないかも知れない。

 だから、死ぬまでには食べたいもの、食べずに死ぬわけには行かないものがあるなら、それは、健康やダイエットに悪影響が及ぶとしても、すぐに食べるべきである。

 また、「これを食べなかったことを死ぬときに後悔するかどうか」は、食べるべきものを決めるときにつねに考慮されるべき問いであると私は考えている。

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