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内面も見た目もともに重要

 あらかじめ言っておくなら、以下の記事において、私は「内面などどちらでもよい」ことを主張するつもりはない。むしろ、内面はつねに大切にされるべきものであるとかたく信じている。

 ただ、内面が大切にされるべきであるとしても、それは、「内面の方が見た目よりも大切である」ことを必ずしも意味しない。

 内面と見た目は、ともに同じくらい重要である。

 いや、内面と見た目をあえて比べるなら、見た目の方にはるかに大切であり、単なる内面には何ものでもないと私は考えている。

人間の内面は、見た目で評価するしかない

 そもそも、「内面」と「見た目」の区別は可能であろうか。

 たしかに、容姿の点で劣る者に対し、慰めないし励ましの意味で「人間の価値は見た目ではなく内面にある、だから、内面を磨くよう努力しましょう」などと言われることが少なくない。

 すなわち、この場合の「見た目」とは容姿であり、容姿に対比される「内面」とは、性格や「教養」(?)や「知性」(?)を意味することになる。

 けれども、厳密に考えるなら、好ましい性格を形作ったり、教養や知性を身につけたりすることが「内面を磨く」ことを意味するとしても、これらは――容姿と比較されているという事実が示すように――純粋な内面には該当しない。

 そもそも、これらの内面が他人から評価されるためには、「見た目」に反映されていることが絶対に必要である。他人の内面に直接に到達するなど不可能であり、内面というのは、つねに見た目を媒介としてのみ他人に知られうるものだからである。

 したがって、ニーチェの指摘を俟つまでもなく、外からはうかがい知ることのできない内面、「見た目」には反映されない好ましい内面などというものはないのであり、性格や教養や知性が高く評価されるのは、それが「見た目」を変えるかぎりにおいてなのである。

容姿の点ですぐれた者を見返すために内面を磨く努力には、まがまがしさが付きまとう

 「人間の価値は見た目ではなく内面にある、だから、内面を磨くよう努力しましょう」という文は、「好ましい性格や教養や知性を努力によって身につけることで、生まれながらに与えられた容姿で得をしている人間を見返してやりましょう」という文に置き換えることが可能である。

 しかし、このような動機にもとづいて「好ましい性格」や「教養」や「知性」を身につけることは、本質的には復讐であり、このかぎりにおいて、道徳的にいかがわしいふるまいである。

 すぐれた性格や教養や知性を最初から具えており、これが「見た目」へと自然に反映されるのなら話は別であろうが、復讐を動機として磨かれた「内面」というものは、いかなる意味においても好ましいものではなく、むしろ、偽善と押しつけがましさに満ちたまがまがしい空気を否応なく醸し出すことになるように思われる。

 少なくとも、私は、このような内面を評価しない。