Bookstore?

 日本国内で1年間に市場に送り出される書籍の数、つまり新刊書の出版点数は、この数年、約8万点である。1日に200冊以上の本が新たに作られていることになる。

 しかし、この膨大な新刊書の大半は、売場面積の広い大手の書店の片隅にごく短期間並べられたあと、店頭からは姿を消す。その後、アマゾンに代表される通販でしか入手することができない期間をしばらく経て、数年のうちに品切れ、絶版となってこの世から姿を消す。(厳密に言えば、図書館が購入するものは、除籍されないかぎり消えてなくならない。また、古書で流通することにより市場にとどまる可能性もある。)

 本は、売れないせいで姿を消すこともあるし、内容が賞味期限切れになり、役割を終えて市場から退場することもある。後者を代表するのは、時事的なもの、機械類のマニュアル。芸能人に関する本など、刊行された瞬間から腐蝕が始まるような性質のものであり、出版点数全体のかなりの割合をこのような本が占めている。

 新刊書の出版点数は、1950年代には約1万点であった。それが、1972年に2万点、1982年に3万点、1992年に4万点、1994年に5万点、1996年に6万点、2001年に7万点となり、2005年に8万点を超えた。60年前と比較すると、市場に流通する本の数は7倍以上になった。また、戦後のある時期まで、本を送り出すことには、読書の需要に応える意味があり、このかぎりにおいて、たくさんの本が作られることには大義があったと言うことができる。しかし、ある時期――おそらく90年代――以降の出版点数の増加は、明らかに不自然であり、不健全である。たくさんの本が公衆によって求められたから出版点数が増えたのではない。反対に、本が読まれなくなっているせいで、市場に流通する本が増えているのである。ごく大雑把に言うなら、確実な利益が期待できるごく少数の本――主に漫画――の利益をもとにして、膨大な数の売れない本が作られているのである。

 詳しいことは、たとえば次の本に具体的に記されているとおりである。

(046)「本が売れない」というけれど

 本が増えるとともに、これに比例するように、「本の形をしている」もののありがたみも減少した。

 今から約50年前、市場に流通する本の数が今の5分の1程度の時代、大手の書店の売場にすべての新刊書を並べることが不可能ではなかった時代とくらべると、出版点数は読書の需要とは無関係な不自然な形で増加し、それとともに、「著者」の数も増えた。最近は、電子書籍で自費出版することもできるようになっているから、単著(=著者が自分だけの著書)がある、という実績の価値もまた下落した。したがって、今後は、読者にとり、本当に価値ある本を見きわめること、そして、これを正当に評価する力が必要となるであろう。

 もともと、出版は、文化の生産と継承を担う活動であり、価値のある本(≒教養書)なら、売れないことがあらかじめわかっているとしても、世に送り出されねばならない。有名なタレントが書いた(ということになっているが、実際にはゴーストライターがインタビューにもとづいて書く)本は、書肆の経営には不可欠であるけれども、書肆の社会的な役割を考えるなら、このような、ただ消費されるだけの本ばかりを作っていることは許されないはずであった。

 実際、価値ある本、価値ある著者の選別は、これまでは、主に書肆が負うべき社会的責任であった。また、書肆は、ながいあいだ、この責任をそれなりに担ってきた。しかし、現在では、書肆のこの「関所」のような役割は、少しずつ損なわれつつあるように見える。今後は、書物の価値とは何であり、読書とは何であるのかを冷静に考え、読者自身が文化の生産と継承に対しそれぞれの仕方で積極的にコミットする試行錯誤を避けることができないのであろう。