AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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人間が人間であるかぎり「不死」ということはありえない

 以前、次のような記事を書いた。


脳の老化と「寿命」の再定義 : アド・ホックな倫理学

「寿命がのびる」という表現が使われるときに一般に想定されているのは、身体の寿命がのびることである。もちろん、最近何十年かのあいだに身体の寿命がのびたのは、それ以前に生命を奪ってきた病気の多くについて、完全に撲滅されたり、完治を可能にするような治療法が見

 医学の進歩によって、身体の寿命は大幅にのびた。しかし、脳の方の寿命は、身体ほどにはのびていない。つまり、脳は身体とくらべて短命なのである。しかし、この不均衡を是正しないかぎり、いくら寿命がのびても、社会に活力が与えられることはないであろう……、上の記事には、このようなことを書いた。

 ところで、現在の医学の範囲では、すでに次のようなことが明らかになっている。すなわち、人間の寿命には遺伝子上の明確な限界があり、死なない人間というものはありえないことが確認されているのである。この知識に間違いがないとするなら、人間は必ず死ぬ。また、人間が死ぬ以上、そこには必ず何らかの原因があることになる。

 21世紀前半の現在、日本人の死因は、全世代の合計では、ガンが第1位であり、心疾患が第2位である。ガンが第1位を占めているのは、かつて上位を占めていた疾患が克服され、死に直結する病気ではなくなったからであり、それによって、寿命が延びたからである。(つまり、以前ならガンに罹る前に別の病気で死亡していたような人間が、現在では、相当な年齢まで長生きし、ガンに罹るようになったということである。)寿命がのびるととともに、高齢者が罹りやすい病気の患者数が増えるのは、当然のことである。

 しかしながら、今から100年後には、ガンや心疾患の完全な治療法が見つかり、死因の上位から姿を消しているかも知れない。それでは、100年後、何が死因の第1位を占めているのであろうか。

100年後の死因第1位は医学とは関係ないかも知れない

 たとえば、100年後の死因において第1位を占めるのは、「交通事故」であるかも知れない。交通事故で即死するくらいでないと、人間はなかなか死ななくなっているかも知れないからである。あるいは、「自殺」が第1位になっているかも知れない。あるいは、核兵器を用いた大量殺戮でおびただしい人命が失われれば、それが死因の第1位になる可能性もある。

 そして、交通事故、自殺、戦災などで一瞬のうちに生命を奪われるという事態が死亡の原因として上位を占めるようになると、社会と医学との関係もまた、おのずから変化するに違いない。

 人類が始まってから現在まで、死因の第1位がつねに同じであったわけではない。ただ、死因の上位に何が来るとしても、それらのすべてに共通する点が1つだけあった。それは、死亡の原因となるような何ものかは、つねに治療の対象であり、医学が克服すべき課題であったという点である。死因の第1であったものは、治療法が見つかるとともに病として治療され、克服され、そして、死因の上位から姿を消す。時間の経過による死因の交替は、病気に対する医学の勝利と寿命の延長の結果であり、天然痘、結核、コレラなどは、医学のおかげで私たちにとって縁遠い病気となったのである。

 しかし、交通事故が死因の第1になるとき、医学にはもはや出番がない。交通事故は病気ではないから、交通事故を「治療」するわけには行かない。死者を蘇らせることが不可能である以上、死因第1位に関して医療にできるのは、一命をとりとめた瀕死の負傷者に施す救命医療くらいであろう。

 多くの人の生命を奪うものが医学の範囲の外にあるとき、死因の第1にあるものをその座から追い落とす役割を担うのは、さしあたり、医学ではなく政治となる。いや、100年後の医学は、その範囲を政治へと広げ、「政治=医学」「行政=医学」「経済=医学」のような、人命を危険から守るための社会科学のような研究分野が作り上げられているかも知れない。

 もちろん、死因の1位を交替させることばかりが医学の使命ではないから、狭い意味における医学が停滞するということは決してないはずであるけれども、それでも、万人に死をもたらす可能性のある事柄が治療の対象ではなくなるなら、医療と私たちの関係は、おのずから変化するはずである。

Red Cross Museum Geneva

 私は医者が好きではない。必要に迫られなければ、病院には行かないし、医者と話したくもない。幸い、今のところは、持病と言うほどのものはないから、日常的に服用している薬もなく、定期的に医者の診察を受ける必要もない。これはありがたいことである。

 私の場合、歯医者に定期的に通うのを除くと、医者に行く機会は多くはない。だから、差し迫った必要があるわけでもないのに医者にかかる人の気持ちがよくわからないのだが、自分の身体の不調の解消を期待して病院に行くのであろう。たしかに、病院に行って病気を治す、あるいは、治してもらうというのは、ごく当然のことのように見える。

 実際、単なる風邪から十分な治療薬のない難病まで、人間は無数の病気に罹る可能性があるけれども、純粋に「数」という観点から眺めるなら、病院は、これらの病気の大半を治すことが可能である。人間の寿命が大幅に延びたのは、医療の進歩により多くの病気が克服可能になったからである。

 しかし、医療の進歩が人間の長寿を実現したという事実は、私たちに2つのことを教える。第一に、人間の寿命が今ほど長くなかった時代には、医療によって克服することのできる病気や怪我は必ずしも多くはなかったこと、第二に、人間と医療との関係もまた、現在とは異なるものであったことである。

 少なくとも20世紀半ばまでの何千年ものあいだ、医者というのは、病気に対して無力な存在であり、医療の対象となる病気は限られていた。だから、病気に罹り、日常生活にいちじるしく支障をきたすような異状が身体に認められるようになるとき、それはほぼそのまま死を意味したはずである。

 もちろん、中には、病気を治すために考えうるかぎりの可能性を試す者がいないわけではなかったであろう。しかし、このような者が頼るのは、普通の意味における医療ではなく、どちらかと言えば、呪術に属するものであったに違いない。

 「病気になったら病院で治せばよい」というのは、現在の常識であるかも知れない。しかし、これが常識となったのは、最近60年か70年のことである。もちろん、病院に行っても、すべての病気を治すことができるわけではなく、人間にとって死は不可避である。人間はどうせ死ぬのだから治療しても無駄であると言うつもりはないけれども、それでも、医療には明瞭な限界がある。どう生きるか、あるいは、同じことであるが、どう死ぬかを、つねに考えながら医療というものに向き合うことは、治癒する可能性のある病気が増えただけに、そして、死が私たちの身近からその分遠ざかっただけに、現代の私たちにとって、愚者にならないための不可欠の心がけであるように思われるのである。


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