AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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「せどり」は知識も興味も必要としない仕事である

 年に何回か、休日に近所で開かれる古書の即売会(古書市)に出かけることがある。このようなイベントに一度でも行ったことがある人なら知っているとおり、古書の即売会の客層は非常に偏っているのが普通であり、大抵の場合、会場にいるのは高齢の男性ばかりである。(私の雑な観察では、男女比は19対1、平均年齢は65歳前後。)私の年齢は40代後半であるが、これは、即売会の常連客としては若い方であろう。

 ところが、最近、古書の即売会で、私よりもさらに若い男性を見かけるようになった。ただ、これらの男性の行動は、他の客とはかなり異なる。というのも、彼らは、スマートフォンの画面を眺めたり、ときどき何かを入力したりしながら、書棚を眺めたり本を手に取ったりしているからである。(私と同年代、あるいは、私よりも上の世代でも稀に見かける。)会場でスマートフォンを握りしめていること自体、高齢者の多い会場ではすでに目立つのだが、さらに目立つのは、雰囲気から推して、読書の習慣があるとは到底思えないのに、大量の本、しかも、比較的新しい本を抱えて会場を歩き回っている点である。ひとりではなく、グループで即売会に現れるのを見かけることもある。

 あちこちの古書市でこのような客を見かけ、ネットで調べているうちに、これが「せどり」と呼ばれている行動であるらしいことがわかってきた。私がここで「せどり」と呼ぶのは、ごく大雑把に言うなら、古書を何らかの手段で安く、または無償で入手し、これを別の手段で高く転売することである。安く手に入れた本をネット上で転売し「利ザヤ」を稼ぐのが「せどり」の基本的な仕組みである。つまり、古書市やブックオフで本を見つけたら、店頭での販売価格がヤフオク!やamazonのマーケットプレイスのようなECサイトでの販売価格を下回っているかどうかスマートフォンで確認し、店頭価格の方が安ければ購入し、転売する。これは、本の価値や内容を理解することができなくても、目の前にあるものを本として識別する能力さえあれば、誰にでもできる低級な仕事である。「せどり」が「職業」と呼ぶにふさわしいものであるかどうか、私は疑問に感じるが、「せどり」を職業と認めるなら、これは、人工知能によって最初に置き換えられてしまう職業の1つであろう。彼ら――女性もいるのかも知れないが、私は見たことがない――がスマートフォンと書棚を交互に見ているのは、ヤフオク!やamazonのマーケットプレイスでの価格を調べなければ、本を購入するかどうか決められないからである。(「せどり」専用の携帯端末なるものまで開発されているらしい。)

「せどり」は反社会的である

 しかし、「せどり」は、その作業の実質がひどく低級な知的能力しか必要としないものであるという点において評価に値しないばかりではない。これは、文化に対する罪であるという理由によって禁止されるべきものであると私は考えている。理由は明らかである。すなわち、「せどり」にいそしむ者たちにとり、書物は単なる「ブツ」にすぎず、彼らには、書物に対する愛着がなく、書物に関する知識もないのである。

 一般に、何かを売買してこれを「商売」とすることが可能となるためには、自分が扱う商品に関する最低限の愛着と知識が必要である。「必要である」とは、愛着と知識がないと、自分が扱うものの価値がわからないということである。たとえば八百屋なら野菜について、宝飾店なら宝石について、それぞれ自分の手もとに届くまでにどのように作られ、そして、自分の手もとを離れたあとはどのように使用されるのかを必ず予想する。卸値と実勢価格を参考にするとしても、商品の価値に関する予想が成り立たなければ、値段を決めることなどできないはずである。

 古書についても事情は同じである。古書の内容に対する自分なりの評価が値段に反映されるとき、初めて、古書は商品となる。野菜や宝石にプロがいるのと同じように、古書についてもまた、(プロやアマの)目利きがいる。目利きが古書の流通を見守ることにより、本当に価値ある本が適正な値段で人から人へと手渡され、文化が継承されるのである。

 古書市やブックオフの店頭価格とECサイトでの販売価格の比較のみによって古書の売価を決めるのは、ヘッジファンドが仕かける投機的売買と本質的に同じである。「利ザヤ」の大きさのみを考慮して古書を売買する「せどり」は、ヘッジファンドが資産運用市場を混乱に陥れることがあるのと同じように、文化の生産と継承を危うくする可能性があると私は考えている。

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 「ヤフオク!」に出品されているものを落札したことが何回もある。正確には覚えていないが、「Yahoo!オークション」と呼ばれていた時代から数えると、全部で30回くらい落札しているのではないかと思う。

 小さいトラブルはいくつかあったけれども、幸いなことに、落札したものが届かないとか、壊れていたとか、そういう被害に遭ったことは一度もない。(家電の類には手を出さないことにしてきたからかも知れない。)

 ただ、最近は、よほどの事情がないかぎり、ヤフオク!は使わないようにしている。(普通の古書なら、アマゾンのマーケットプレイスか「日本の古本屋」でまず探すことにしている。)落札しても、サッパリ楽しくないからである。

 ヤフオク!は、以前からトラブルが頻繁に起こることで有名ではあったけれども、この2、3年、出品者の側も入札者の側も、ともにリテラシーが低下してきたせいなのか、私には到底理解できないことが目につくようになった。

  私が落札してきたものの多くは古書である。古書の場合、商品のページを眺めていると、下の方に細かい注意事項が書かれているのが普通である。古書の場合、新しいものでも古いものでも、状態は必ずしもよくないのが普通だからである。

以前は、商品の値打ちがわかった上でのオークションだった。



 以前は、古書の場合、出品する側も入札する側も、ともに本の扱いに多少は慣れていることが当然の前提になっていた。つまり、以前は、「自宅の押し入れから出てきたものをそのまま出品している」というような断り書きがないかぎり、それぞれの本は、その本の「内容の値打ち」について当事者全員が漠然とわかっていることを前提として出品され、落札されていたと思う。

 だから、質問フォームから出品者に事前に連絡して、表紙や目次や奥付の写真を追加してもらったり、「汚れがある」という特記事項がある場合には、どこにあるのか具体的に教えてもらったりしたこともある。また、私のごく狭い経験の範囲では、素人の出品者からも、それなりの回答は必ずもらっていたように思う。質問フォームによるコミュニケーションが成り立っていたのであり、オークションの本質は、このようなコミュニケーションにあると私は信じている。

自分が出品した商品について何も知らない出品者が増えた。



 しかし、この数年、「質問は一切受け付けない」「神経質な人間は入札するな」という意味の注意事項が増えた。また、事前に質問しても回答がない――だから、入札できない――というケースにも何回か遭遇した。もちろん、それは、
  1. 商品に関する知識も愛着も出品者になく、質問に答えられないことが多くなるとともに、
  2. 古本に関する常識のようなものが通用しない入札者が増えた
からなのではないかと私は想像しているが、それにしても、これが私にとっては、あまり面白くないことだったのは事実である。質問することができなければ、入札の判断もできないことは確かである。

出品者からマスとして扱われるようになった。



 また、一人で途方もない数の商品を扱う出品者が多くなったのか、落札したあとに届くメッセージもきわめておざなりであることが少なくない。これも私には不快であった。そもそも、あくまでも個人が出品し、何人かの個人の入札者とコミュニケーションするというのがオークションの本来の姿である。したがって、出品者は、落札者をマスとして扱ってはならない。客をマスとして扱うくらいなら、古物商の免許を取得し、組合に加入して「日本の古本屋」で書籍を販売すべきであろう。

 古書に関するかぎり、この数年のあいだにヤフオク!が急激に堕落したのは、本に関する知識も愛着もないズブの素人が転売目的で入手した大量の古書を出品しているからなのかも知れない。もちろん、古書といっても、ISBNとバーコードがカバーに印刷されている程度の、せいぜい20年くらい前までのものである。(このタイプの素人は、本の内容が理解できないから、バーコードがないと手も足も出ない。)

 この問題については、あらためて考えてみる価値があるように思われる。

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