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「左利き界」では肩身の狭い思いをしている

 私は左利きである。しかし、私の周囲には、私が左利きであることを知る者はあまりいない。私の仕草を眺めていても、私が左利きであることに気づく機会が少ないからである。

 私は、もともとは左利きあるけれども、日常のいくつかの動作については、子どものころ、小学校に入学するころまでに右利きに矯正された。だから、私は、正確に言うと、「矯正された元左利き」である。

 「矯正された元左利き」というのは、「左利き界」(?)では肩身が狭い存在である。右利き/左利きが誰にも明らかになるもっとも目立つ標識は、文字を書くときに使う手であろう。たとえばアメリカのオバマ前大統領のように、公文書に署名するときに左手を使う姿がテレビで放映されれば、誰でも「あの人は左利き」とわかる。しかし、私のような「矯正された左利き」は、文字を右手で書くから、左利きとは気づかれない。「左利き界」における「矯正された元左利き」は、かつてのヨーロッパで迫害を逃れるためにキリスト教に改宗したユダヤ人、あるいは「隠れキリシタン」のようなものである。

それでも左利きであることに変わりはない

 ただ、利き手の矯正というのは、「左利きを右利きに矯正する」ものではなく、「特定の動作を主に右手で行うことができるようにする」ものにすぎない。私の場合、「文字を書く」と「箸を持つ」という2つの場面では右手を使うよう訓練されたけれども、これらに右手を使うようになれば、他の動作にも自動的に右手が使われるようになるわけではなく、右手を使うように訓練されないかぎり、左手が使われ続ける。当然、身体の筋肉の発達、靴の踵のすり減り方などにも、左利きの特徴が現われる。

 私は、野球では「左投げ左打ち」である。ボールを投げたり打ったりする動作は書く動作や箸を持つ動作ほど重要ではないと両親が判断し、利き手を矯正しなかったからである。(しかし、腕時計は、つねに左手につけている。そのため、中学生のころ、野球のボールを投げたとき、腕時計が腕からはずれ、ボールと一緒に飛んで行ってしまったことがあった。私の腕時計は頻繁に故障するが、それは、腕時計を利き手につけているせいかもしれない。)

 また、私は、料理するときには左手で包丁を握る。(だから、和包丁は原則として使わない。)小学校に入学した時点では、まだ自分では料理をしなかったからである。

 私の「右利き」は、1970年代前半の小学校低学年の生活において両親が重要だと判断した活動に最適化されたものであると言うことができる。したがって、これ以降に新たに使うようになった道具はすべて、左手で扱う。たとえば、電話で通話するときには、受話器を左手に持ち、左耳にこれを当てる。同じように、カギを回しドアを開けるのに使うのは左手である。(鍵穴にカギを一度で入れられないことが多い。)鋏を使うのも左手である。テレビのリモコンを操作するときも、使うのは左手だけである。

利き手を「再矯正」するつもりはない

 もちろん、このような右と左のハイブリッドには、目立たない部分で不便がないわけではない。また、最近では、利き手の矯正は必ずしも行われなくなっているようである。この意味において、左利きは、かつてよりは暮らしやすくなっていると思う。

 それでも、私は、自分自身について現状を変え、左手で文字を書いたり食事したりすることを練習するつもりはない。ハイブリッドは、私の個性の一部だからであり、「丸ごと左利き」になることに意義があるようには思われないからである。