AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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和菓子 : Japanese sweet

和菓子における「見立て」と「写し」

 「見立て」と「写し」というのは、和菓子に関してよく用いられる区別である。

 食品以外の何か、特に、それ自体としては形を持たないものを間接的に連想させるよう食品の形を整えることを「見立て」と言う。下の記事に記されているように、季節、気候、情緒などを和菓子に語らせるのが「見立て」である。

 これに対し、「写し」は、文字どおり、菓子を何かの形に似せることを意味する。和菓子を用いて主に果物、花、天体、動物などの自然物を模写するのが「写し」である。

File32 和菓子|美の壺

 次の本には、さらに具体的な説明が載っている。

NHK美の壺 入門編 (AC MOOK)

 和菓子を何かに「見立て」るのは、主に上方の文化であり、これに対し、「写し」としての和菓子は、江戸を中心とする文化に属するもののようである。

「見立て」はシンボルまたはインデックス、「写し」はアイコン

 和菓子における「見立て」と「写し」のうち、これを口にする人間にそれなりの知的水準を要求するのは、当然、「見立て」の方である。

 見立てとしての和菓子は、文学における短歌や俳句と同じであり、これを味わうことができるためには、「見立て」られている当のものが日本の伝統的な文化的コンテクストの内部において占める位置をあらかじめ承知していなければならないからである。つまり、このような知識を持たない者には、和菓子が差し出される状況や和菓子の形状を評価することができない。「見立て」としての和菓子は、この意味において、「ハイコンテクスト」な食品である。

 これに対し、「写し」としての和菓子を味わうのに、このような文化的な想像力は不要である。というのも、和菓子の形状を見れば、何が写しとられているのかは、大抵の場合、おのずから明らかだからである。(というよりも、和菓子を見て、何を写しとったものであるか誰でもすぐにわからなければ、それは失敗作である。)典型的なのは「たい焼き」である。たい焼きの形状は、鯛の模倣である。したがって、たい焼きを目にするとき、「なぜこれが『たい焼き』と呼ばれているのか」という疑問が心に浮かぶことはない。「写し」としての和菓子の場合、何が写しとられているのかが誰にとっても明瞭であることが必要であり、残念ながら、この意味において、相対的に「ローコンテクスト」な食品と見なされねばならない。

 チャールズ=サンダーズ・パースによる記号の古典的な分類を借りてこれを言い換えるなら、「見立て」としての和菓子はシンボル(象徴記号)またはインデックス(指標記号)に当たり、「写し」としての和菓子はアイコン(類似記号)に相当するであろう。

「桜の花を練り込んだ……」は餌である

 しかし、「見立て」よりも「写し」の方が相対的にローコンテクストであったとしても、それでも、「写し」としての和菓子は、食品以外の何ものかを模倣し模写するものであるかぎりにおいて、写しとられている当のものから截然と区別されていた。したがって、「写し」としての和菓子を味わうためには、少なくとも「あれがこのように写しとられているのか」という再認の手続きは必須であった。

 ところが、最近は、毎年春になると、「桜の花をかたどった」食品や「桜色をした」食品ではなく、「桜の花を練り込んだ」蕎麦、洋菓子、和菓子などが製造され、販売されるようになっている。これは、桜の色や形が写しとられた食品ではない。ここでは、「現物」としての桜が素材として含まれているのである。これは、ローコンテクストな食品ですらなく、もはや「コンテクストフリー」な何ものかであると言うべきである。

紀文食品/伊達巻パッケージ | BASE CREATIVE

 しかし、桜の「現物」を口に入れることで初めて春を感じるなど、人間ではなく動物のすることである。ヒト以外の動物が現物としての桜を口に放り込まなければ春を感じられないとしても、それはやむをえないことである。なぜなら、動物には記号を操ることができないからである。動物は、現物を直に嗅いだり口に入れたりするほかはないのである。しかし、記号を操る人間が動物を真似して現物を口に入れることは、必要ではないばかりではなく、好ましくもない。それは、非人間的な動物的なふるまいである。「桜の花を練り込んだ」ものは、食品ではなく、本質的に「餌」と見なされねばならない。

 「見立て」を基準とするなら、「写し」の試みは、一種の文化的な堕落であったかも知れない。しかし、現代の食品は、この「写し」から歩みをさらに進め、「現物」を摂取するところへと転落してしまったように見える。

 食品に具わる記号としての性格により、人間が口にする食品は、動物のための餌から区別されるはずである。したがって、日本人が「桜の花を練り込んだ」ものをよろこんで口にするなら、それは、食品を記号として享受する能力の喪失と日本人の動物化を反映するものとして受け止められねばならないように思われる。

Japanese sweet / Hydrangea 1

 1週間に1日か2日、平日の午前中で仕事が終わりになることがある。そのようなときは、天気がよければ、職場から自宅まで歩いて帰る。鉄道の駅にすると5個――「5区間」と言うべきか――分だから、大した距離ではない。私は、必ずしも足が速くはないが、それでも、1時間弱で自宅に辿りつく。ただし、それは、まったく寄り道しなければ、の話である。

 職場から自宅まで歩いて帰る場合、その途中に、小さな駅の周辺に広がる小さな商店街がいくつかある。このような商店街にある飲食店で昼食をとったり、喫茶店に入ってコーヒーを飲んだりしていると、相当な時間がかかってしまう。自宅の近所は、幹線道路に近いせいか、スーパーマーケットが1軒あるだけで、まともな商店街はない。だから、このような商店街を通り抜けるとき、洒落たパン屋、洒落た喫茶店などを見かけると、どうしても立ち止まってしまうのである。

東京の和菓子屋は減り続けている

 特に、歩いて帰るときに必ず立ち寄って買いものすることにしているのが、ある商店街に店を出している個人経営の和菓子屋である。私は、酒を飲まない分、甘いものをよく食べる。特に、和菓子は大好物である。

 信頼できる統計はないようであるけれども、東京では、和菓子屋、特に、個人が経営する路面店の和菓子屋は、この20年くらいのあいだに、その数をずいぶん減らしたように見える。都心やターミナル駅の周辺なら話は別なのであろうが、私が暮らしている杉並区などでは、個人経営の和菓子屋は、もはや数えるほどしか残っていない。

 私が小学生のころ、自宅の最寄り駅の近くには和菓子屋が4軒あり、自宅の近くにも2軒あったのだが、今は、駅前に1軒が残るだけである。同じように、あんみつや汁粉、ぜんざいなどを出す甘味処も、なぜか決して多くはない。(私の知るかぎり、甘味処の店内は「年寄りばかり」であることが多く、そのせいで忌避されているのかも知れない。)

 これに対し、京都には和菓子屋が非常に多い。下のデータによれば、都道府県別では、和菓子屋が全国でもっとも多いのは、やはり京都府のようである。

第57回【全国ランキング】

 京都には、全国的に名を知られる有名店が少なくないけれども、そればかりではなく、街を歩いていると、個人経営の和菓子屋をよく見かける。人口当たりの和菓子屋の数は、東京の10倍くらいあるような気がする。京都には、それだけ和菓子の需要があるということなのであろう。和菓子の好きな私のような者にとっては、うらやましい状況である。

 なお、京都の和菓子屋の新作を写真で紹介する下のようなブログもある。私は、毎日、これを眺めてよだれをたらしている。

きょうの『和菓子の玉手箱』

和菓子は非日常の食べものになりつつあるのか

 しかし、和菓子屋の数が需要と供給の関係を反映するものであるなら、東京から和菓子屋が消えて行くのは、和菓子の需要が少ないからであると考えねばならない。また、事実はそのとおりなのであろう。

 たしかに、新宿、渋谷、銀座などの繁華街、特にデパ地下には、相当な数の和菓子屋が出店している。しかし、このような場所に出店しているのは、多くは京都に本店があり、全国にいくつもの支店を持つ有名店であり、販売されているのは、(私の勝手な思い込みでないとするなら、)手土産として訪問先に持参するためのものか、あるいは、自宅に来た客に出すためのものか、あるいは、茶会で出すためのものかのいずれかである。つまり、日常生活において和菓子を自分で購い、自分で消費するなどということは、最初から想定されていないように見えるのである。

 どら焼き、羊羹、最中、まんじゅう、たい焼きなどばかりではなく、いわゆる「上生菓子」に分類されるようなものを含め、和菓子は、決して非日常の特殊な食べものではなかったはずである。少なくとも、私自身のこれまでの食生活において、和菓子について、これを非日常的なものと受け止めたことはなかった。また、和菓子が本質的に非日常的なものであるなら、上生菓子を製造、販売する和菓子屋が地域にあれほどたくさんあったはずはないように思われるのである。

 このような点を考慮するなら、個人経営の和菓子屋が地域から姿を消したのは、和菓子全体の需要が減少したというよりも、なぜかよくわからない理由によって和菓子が非日常に属する小道具と見なされるようになったからであると考えるのが自然である。和菓子というのは、日本の食文化の繊細な側面を代表する食品であり、日常において消費されることで、日本らしい繊細な「味わい」を学ぶよすがとなるものであり、このかぎりにおいて、日本の食文化の不可欠の構成要素である。和菓子が日常から姿を消しつつあるとするなら、それは、日本人の食生活の野蛮化と幼稚化を、そして、日本の食文化の堕落を意味しているように私には思われるのである。


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