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By User:ITA-ATU - 1990年11月3日撮影(Photostudio5.5にて編集したものをPaintgraphic3にて再編集), パブリック・ドメイン, Link

戦後の日本人には、ユネスコに対する恩がある

 昨日、次のような記事を見つけた。

日本、ユネスコ分担金を保留 「南京」記憶遺産に反発か:朝日新聞デジタル

 私は、日本がユネスコ国際連合教育科学文化機関)から脱退してもかまわないと考えている。少なくとも日本にとっては、ユネスコの歴史的役割はすでに終わっているからであり、ユネスコに未練を持っているかぎり、いつまでも「戦後」が終わることはないように思われるからである。

 現在では、ユネスコは、日本が加盟している数多くの国際機関の1つにすぎない。だから、昭和20年代の日本人の目に「ユネスコ」の名が光り輝いて見えていたという事実を知っても、これを直観的に理解することは容易ではないに違いない。

 今から65年前の日本人にとって、ユネスコが特別な国際機関であったことは事実であり、その理由は明瞭である。

 第二次世界大戦後、日本は、1952(昭和27)年4月28日まで連合国の占領下にあり、当然、他国と外交関係を結んだり、国際機関に加盟することはなかった。この意味において、わが国は国際的に完全に孤立した状態にあったと言うことができる。しかし、その中で、わが国が主権を回復するに先立ち加盟を認めた国際機関が1つだけあった。それがユネスコである。主権回復の前年1951(昭和26)年7月2日に、日本は、占領下にありながら、いわゆる”Occupied Japan”のままユネスコに加盟する。主権回復の1年前のことであり、1956(昭和31)年に国際連合に正式に加盟する5年前のことである。

 ユネスコは、敗戦後、日本の加盟を最初に認めた国際機関であり、国際連合に正式に加盟するまでのあいだ、国際社会との事実上唯一の接点であった。ユネスコが光り輝いて見えたのはそのためである。有名な「ユネスコ村」を始め、昭和20年代後半に「ユネスコ」の名を冠した商品や施設が大量に産み出されたのも、同じ理由による。

 当事者たちがどの程度自覚しているか、よくわからないけれども、ユネスコに対し日本人と日本政府がつねに積極的にコミットしてきたのには、ユネスコに対する一種の「恩返し」の意味合いがあると言ってよい。この歴史的事実は、決して忘れてはならないと思う。

国益に反する決定に抗議する目的で分担金を支払わなかったり脱退したりするのは合理的な選択

 日本人にとっての「ユネスコ=善」という関係が成り立っていたのは、私の理解に間違いがなければ、1980年代初めまでであったように思う。1984年から翌年にかけて、アメリカとイギリスを始めとするいくつかの国がユネスコによる報道の自由の制限に抗議して脱退したとき、日本政府――当時は第2次中曾根政権――はこれに同調せず、ユネスコにとどまった。

 しかし、今から振り返ると、このときに脱退することは、1つの合理的な選択であったように思われる。少なくとも、アメリカがユネスコを去り、日本が実質的にユネスコの財政を支えるようになったとき、ユネスコは日本人にとり、もはや光り輝く存在ではなくなっていた。ユネスコへの「恩返し」は済んだと考えてもよかったはずである。

 それどころか、その後も30年以上にわたり多額の分担金を支払い続けたにもかかわらず、ユネスコは、上の記事にあるように、その活動によって日本の国益を損ねるようになっている。ユネスコは、もはや「恩人」ではなく「悪友」にすぎないのであり、分担金の支払いを保留するのが当然であるばかりではなく、これを機会に一度脱退することも真面目に考えることが必要であるように私には思われるのである。