AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:地べた

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タワーマンションの高層階に住んでいて火事になったら助からない

 6月14日にロンドンのノース・ケンジントンにある24階建ての公営住宅Grenfell Towerで火災が発生したようである。(次の記事には27階建てとあるが、正確には24階建てらしい。)

英国の27階建タワマンで火災、崩壊の危険も | 日テレNEWS24

 多くの死傷者が報告されており、この種の火災の被害としては非常に大きいと言うことができる。

 今回の火災が起った建物は24階建てであり、周囲のどの建物よりも高いという意味では高層であるけれども、東京の都心にあるいわゆる「タワーマンション」が40階建て、50階建てであることと比較するなら、必ずしも高層というわけではない。(日本の常識では、24階建ての集合住宅は「タワーマンション」とは呼ばれない。)

 それでも、建物の内部における上下の移動手段が階段だけであったなら、24階という建物はありうべからざるものであったに違いない。24階の住人には、地階から24階分を上ることなど物理的に不可能だからである。(24階から地階まで下る方も、ほぼ不可能である。)

暮らすなら断然低層階

 高層マンションの場合、眺望の点で高層階の方がすぐれているのが普通である。だから、階数が上るとともに住戸の価格もまた、これに比例して上がることになる。けれども、安全を考えるなら、住戸は低層階にあるほど好ましいように思われる。

 たしかに、階段を上り下りするスピードを競うスポーツにとっては、超高層建築物は魅力的であるのかもしれない。

Vertical World Circuit

 しかし、暮らしやすさと安全を考慮するなら、集合住宅を高層にしなければならない理由は、土地の効率的な利用以外には考えられない。

 私自身、現在は、一戸建てに暮らしている。また、かつては、いくつかの集合住宅で暮らしたけれども、これまででもっとも高い部屋は7階にあった。1階とのあいだを階段で往復することができる階数としては、私の場合、7階が限度であったように思う。

地べたに足がついていると安心する

 東京で生まれ、東京で暮らしている者にはふさわしくない発言になるかも知れないが、私は、できるかぎり「地表面」に近いところで暮らしたいといつも考えている。これは、「土と触れ合う」というようなことではなく、地べたに足をつけることができるところにいないと、何となく落ち着かないのである。私の自宅の周辺は、路面がそのまま本来の地面になっている。また、私の職場やその周辺も、路面がただちに地面であり、舗装の下を掘れば、自然の土砂が現われる。

 ところが、東京には、人工地盤がいたるところに造成され、そのせいで、もとの地表面の姿が掻き消されてしまった地域がある。典型的なのは六本木である。六本木ヒルズも、東京ミッドタウンも、いずれも大規模な人工地盤の上に造られたエリアであり、もとの地表面がどのレベルであるのか、もはやわからなくなっている。特に六本木ヒルズは、もともと低地だったところを人工地盤によって嵩上げして生まれた空間であり、六本木に行くたびに、特に六本木ヒルズの方面に足を向けるたびに、何か落ち着かない気持ちに襲われる。

 「地べた」がどこにあるかを確認し、これとほどよい距離をとることは、人間にとり、自分の身体をスケールとする空間感覚を身につけるのに必要な条件となっているように思われる。だから、この意味においても、集合住宅で暮らすなら、低層階の方が好ましいように思われる。タワーマンションの高層階で暮らすことは、自分の身体感覚、周囲にあるものとの距離を把捉する能力を損ねることになるような気がしてならないのである。

Subway

 電車に乗っていると、バックパック、書類鞄などを床に直接置く乗客が少なくない。それどころか、買ったばかりの高価な衣類が入っていると思われる専門店のロゴが印刷された紙製のショッピングバッグや、生鮮食品が入ったプラスチック製のショッピングバッグ(=いわゆる「レジ袋」)を床に無造作に放り出したり、これを床に引きずったりしている客を見かけることもある。

 しかし、荷物を直に床に置くことは、2つの意味において避けるべき行動であると私は考えている。

衛生面での上と下

 床あるいは地面は、どれほど掃除が行き届いているとしても、途方もなく不潔であり危険に満ちていると考えるのが自然である。少なくとも、これは、人間の手や舌と接触することは想定されていない領域であるはずである。(だからこそ、人間は、靴を履いて足の裏を保護するのである。)

 スーパーマーケットで購入した食品が入ったショッピングバッグを電車の床に置く者は、自宅に戻ったら、これをどこに置くのであろうか。屋内の床に置くのであろうか。あるいは、大胆にも、電車の床に長時間接触していたショッピングバッグをそのまま台所の天板の上に置いてしまうのであろうか。私には、そのようなことは、恐ろしくてとてもできない。

 私は、ショッピングバッグを地べたに置くなど決してしないけれども、万が一ショッピングバッグの底面が地べたに接触してしまったら、私なら、自宅では、ショッピングバッグは玄関の三和土に置き、食品だけを台所に運ぶか、あるいは、ショッピングバッグを手に持ったまま台所に行って食品を取り出し、ショッピングバッグの方はどこにも置かずに捨てる。

 電車の床は、無数の足によって踏まれている。そして、これらは、電車の床と接触する以前に、何を踏んでいるかわからない足である。ゴミや犬の糞、有害な物質を踏んだ足が、そのまま電車の床を踏んでいる可能性は高いと考えるのが自然である。電車の床や地面に接触したショッピングバッグの底面が台所の天板にそのまま接触することは、有害な化学物質、雑菌、ゴミなどがそのまま台所に移転することを意味する。「除菌」に狂奔している主婦が地べたに置いた鞄やショッピングバッグによって台所を汚染することは頓着しないとするなら、それは実に不思議な事態であると言わざるをえない。

清潔感における上と下

 しかし、荷物を床に無造作に置く客に違和感を覚えるのは、その姿が私の物理的な衛生感覚を逆撫でするからであるというよりも、むしろ、本質的には、彼ら/彼女らのふるまいに「清潔感にもとづく位置の区別」がまったく認められないように見えるからである。地べたに鞄やショッピングバッグを置くことは、私の清潔感に従うなら、ただ不潔であるばかりではない。それは、本質的に「すべきではない」ことに属する。なぜなら、雑菌や有害物質の有無には関係なく、日本人の常識は、上方は清潔なものであり、下方は不潔なものと見なされるべきであると私たちに教えてきたはずだからである。

 靴を履いたまま屋内に上がらないこと、椅子に坐り、目の前にあるテーブルに足を乗せないこと、床に落ちた食べものはそのまま口に入れないこと、雑巾と衣類を一緒に洗濯しないこと……、これらがルールまたはマナーとして認められてきたのは、上/下が清潔/不潔に対応すると考えられているからであり、清潔/不潔――あるいは清浄/不浄――を空間的な上下と対応させて理解することは、日本人の行動を統制する伝統的な美意識の核心をなすフレームワークの1つである。地べたにものを無造作に置く者たちの姿を目にするたびに、動物的なものを感じるとするなら、それは、このようなふるまいによって傷つけられているのが、物理的な衛生感覚ではなく、むしろ、美意識だからであるに違いない。


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