Business Man

会社員の不思議な生態

 私は、これまでの人生において、普通の民間企業で働いたことがない。つまり――正規であれ、非正規であれ――企業に従業員として雇用され、給与を受け取ったことが一度もない。大雑把に言うなら、会社員であったことがないのである。これは、現在の日本人の中では少数派に属するはずである。

 また、職業柄、私自身が「会社員」であったことがないばかりではなく、普段から付き合っている知り合いにも、普通の企業に勤め、朝9時前から夕方遅くまで毎日オフィスで仕事するようなタイプの会社員は必ずしも多くはない。そして、このような生活環境にながいあいだ身を置いていると、会社員の生態に不可解なものを感じることが少なくない。それは、私の目には、ときには滑稽に、ときには腹立たしく映ることになる。

 もちろん、会社員というのは、社会における圧倒的多数派であるから、自分たちの普通が必ずしも普通ではないかも知れない、などと疑う機会は滅多にないであろう。当然、みずからが強烈な「会社員臭」を放っているとしても、周囲がやはり同じような「会社員臭」を放っているかぎり、これを気にする必要はない。エレベーターに乗り合わせた全員が酒臭ければ、誰も自分の酒臭さに気づかないのと同じである。会社員との関係で言うなら、私は、酔っ払いばかりが乗る酒のにおいが充満したエレベーターに乗り込んだシラフの人間のようなものであり――実際、私は酒が飲めない――会社員臭を強く感じることが少なくない。

 会社に勤めたことがない人間が会社員について抱く違和感は単純なものではないけれども、もっとも不思議に感じられるものをあえて1つ取り出すなら、それは、自分の本来の仕事と思われるもので生活の糧を得ているという点であろう。会社員は、労働の対価として給与を受け取り、この労働を自分の仕事だと思っているらしい。つまり、自分がなすべき仕事で給与を得ているようなのである。「何を当たり前のことを」と思うかも知れないが、私のような仕事の場合は、2つの点においてこれに該当しない。

給与は仕事の対価か雑用の対価か

 私の給与は、基本的には、私が自分の身体を職場に運び、職場で遂行する労働の対価である。少なくとも、職場に行き、ある種の労働に従事しなければ、給与を受け取ることができないのは確かである。

 けれども、私の同業者がすべてそうであるように、物理的な意味における職場で私が行っていることは、私の本来の仕事であるというよりも、本質的には、本来の仕事に不可避的に付随する広い意味での「雑用」にすぎない。(実験やデータ処理の装置を必要とする自然科学系の分野の研究者はこのかぎりではない。)「雑用」であるとは、ある作業の成果の質について、最低の基準だけが決まっており、この基準を満たしていれば、それ以上の質は要求されないか、あるいは、評価が事実上不可能であることを意味する。

本来の仕事が報酬を産むか

 また、私および同業者には、本来の仕事というものがあり、この本来の仕事に関しある程度以上の成果を挙げていることが雇用の条件になっているけれども、給与は、職場での雑用に対して支払われているのであり、本来の仕事の成果に対し報酬が支払われることはない。たしかに、私は、本来の仕事に多くの時間を使っており、この仕事の成果が私の評価を決めているけれども、仕事は、それ自体としては基本的に無報酬で遂行されていることになる。このかぎりにおいて、私のような職業の場合、本来の仕事というのは一種の「道楽」であると言えないこともない。


趣味とは何のためにあるものなのか : アド・ホックな倫理学

「趣味」(hobby) というのは、私を始めとして、趣味を持たない人間には一種の謎である。そこで、趣味というものが成立するための形式的な条件について少し考えてみたい。 「何を趣味にしているのか」という問いに対し「趣味は仕事」などと答えて得意になっている人がいる


 ところが、会社員の生活には、このような分裂が認められない。会社の業務を遂行することが本来の仕事であり、この仕事に対して給与が支払われているのである。だから、会社員と話していると、私が職場で遂行している雑用が私の本来の仕事であるという勘違いによく出会う。会社員には、「本来の仕事の成果がそれ自体としては報酬を産まない」ことを理解するのが難しいようである。