AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:外食

 私の職場は、自宅からやや近い。普段は、電車で通勤しているけれども、電車に乗っている時間は、正味10分程度にすぎない。当然、外食する機会は滅多にない。ただ、時間に余裕があるときには、徒歩で帰宅することが可能であるし、実際、歩いて帰ることもある。このようなときには、外で食事することがないわけではない。

 それでも、私は、ラーメン屋とカレー屋には近寄らない。つまり、外で食事するとき、ラーメンとカレーは選択肢から除外している。

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 ラーメン屋とカレー屋を避けるのに特別な理由があるわけではない。汗をかくのが嫌なのである。

 私は相当な汗かきである。季節にもよるけれども、ある程度以上辛いものを食べると、全身から汗が噴き出す。顔が真っ赤になり、戻るまでに少し時間がかかることもある。だから、外でカレーやラーメンを食べたら、着替えが絶対に必要となる。

 昔は、カレーやラーメンを食べると、誰でも全身が汗でびっしょりになると思っていたけれども、ある時期に、カレーやラーメンで誰でも汗をかくわけではないということを知り、愕然とした。たしかに、涼しい顔でカレーやラーメンを食べている人々をよく見かける。あれは、私にとっては謎であるけれども、体質の違いなのであろう。

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 ラーメンについては、もともと好きな料理ではないから、食べられなくても苦痛ではないが、カレーの方は好物であり、外食の選択肢からカレーが失われるのは、私にはかなりつらいことである。しかし、背に腹は代えられないため、外食のメニューは、大量のスパイスが使われておらず、かつ、熱くないものの範囲で探すことになる。

 辛いカレーを食べても汗が出ないようにする方法のようなものがあれば、ぜひ知りたいものだと思っている。

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人間の舌は保守的

 人間は、年齢を重ねるとともに、味の許容範囲が広がり、おいしいと思える食べもののバラエティが増えて行くものだと私は信じていた。実際、子どものときにはとても食べられなかったような紫蘇やタラの芽を、大人になってからはそれなりにおいしく食べられるようになったし、酸味のあるものも口にできるようになった。ワサビやサンショウなどの香辛料の役割もわかってきた。

 しかし、それとともに、残念ながら、年齢を重ねるとともに、人間の舌は保守的にもなって行くようである。外出先で少しばかり洒落たカフェやレストランに入ると、そのことを強く実感する。素材はよく知っているものなのに、また、調理法も特に変わったものではないのに、味つけに使われている調味料になじみがないせいで、料理があまりおいしく感じられないことがあるからである。

 最近、ある飲食店で、ハンバーグを注文した。運ばれてきたハンバーグを1口食べたところ、ソースに相当な量のチリパウダーが使われていることに気づいた。チリパウダー味のハンバーグは、私がこれまで知らなかったものであり、いくらか驚き、かつ、がっかりした。ハンバーグを口にしてチリパウダーの味がするなど、私にとっては、ありうべからざることなのである。

 新しい味に出会い、これをおいしいと感じる経験がどのくらい普通のことなのか、私にはわからないが、少なくとも私の舌は、かなり度量が狭い。外食しても、3回のうち2回は「失敗した」という感じとともに飲食店を出ることになる。私の舌が保守的だからなのかも知れない。

食事の「お子様ランチ」化

 しばらく前、「料理本は男性の著者のものに限る」という意味のことを書いた。


料理本は男性の著者のものに限る  : アド・ホックな倫理学

料理本で料理を覚える 私は、料理本を20冊くらい所蔵している。処分してしまったものも含めると、あわせて50冊近く購入しているはずである。これが多いのが少ないのか、私にはよくわからないが、男性としては多い方なのではないかと勝手に考えている。私が料理を自分で作る



 私が男性の著者による料理本を好むのは、ことによると、味の冒険が少ないからであるのかも知れない。たしかに、男性の料理人のレシピとくらべると、女性の料理研究家のレシピは、全体として、味について冒険主義的である。奇想天外な味であり、おいしいのかまずいのか評価に苦しむ味であるがゆえに、結論としてはまずいと評価せざるをえないような味に出会うことが少なくないように思われるのである。

 年齢をさらに重ねると、私の舌はさらに保守的になり、私は、外食をまったくしなくなるか、あるいは、すでに知っている味の料理しか食べなくなり、最終的は、「お子様ランチ」のような料理しか舌が受けつけなくなるかも知れない。たとえばマクドナルドのハンバーガーやケンタッキー・フライド・チキンのように、おいしいかどうかはともかく、少なくとも繰り返し食べることによって慣れ親しんだ味なら、まずいものを口にする危険はかぎりなくゼロに近いはずだからである。

 自分の舌が成長するのか、それとも、先祖返りしてしまうのか、これは予想することができないけれども、30年後の自分の食生活を想像すると、決してにぎやかとは言えない食卓の光景が心に浮かぶことは確かである。


The Ladies at Ruth's

男性の「おひとりさま」は困難か

 しばらく前、次のような記事を見つけた。調査の結果、男性の4割がひとりで外食することができないことが明らかになったというニュースである。

「1人で外食」は「恥ずかしい」? 「できない」派、こんなにいた

 たしかに、私も、ひとりで外食する機会は必ずしも多くはない。私自身は、外食するのが「恥ずかしい」とは思わないが、冷静に考えてみると、出先で外食することを思い立ったとき、その時点で視界に入った飲食店の10軒に4軒は最初から「パス」する。入りにくいからである。

 男性が入りにくいと感じる店にはいくつもの特徴があり、それは、決して1つではないであろう。ただ、これらの特徴が全体として「入りにくい雰囲気」を作り出していること、そして、最近では、相当な数の飲食店がこれらの特徴を共有していることは確かである。

飲食店の大半は、男性を客だと思っていない

 私は飲食業界で働いたことがあるわけではなく、したがって、これは、あくまでも客としての狭い経験の範囲内での感想になるけれども、居酒屋や(蕎麦屋やラーメン屋を含む)一部のファストフード店を除くと、飲食店の店作りは、基本的に女性客を標的としていると言うことができる。そして、これもまた私の個人的な印象になるが、この点は、高級な――つまり「客単価」が高い――飲食店ほど顕著であるように思われる。つまり、客にたくさんのカネを使わせるタイプの店は、男性のあいだに得意客を見つけるつもりなど最初からないように見えるのである。実際、しばらく前、新宿のある飲食店が「男性のみの入店お断り」を掲げたことがニュースになった。

「『男性のみ』お断り」のイタ飯店 「差別」指摘受け、取った対応

 飲食店が女性客を標的とする店作りにいそしむ理由は明らかである。女性の方が男性よりも可処分所得が多いのである。

 男女の所得の格差がこれほど問題になっているにもかかわらず、不思議なことに、消費の場面では、女性の方がはるかに多くのカネを使ってきた。つまり、戦後日本の女性の消費生活というのは、本質的に「返済不要の借金による豪遊」(?)のようなものであり、以前に書いたとおり、私は、これが戦後の日本の文化と消費生活の堕落の最大の原因であると考えている。

専業主婦は文化の貧困の原因 〈私的極論〉 : アド・ホックな倫理学

女性の社会進出、正確に言うなら、女性が自活することができるだけのカネを稼ぐことは、日本文化の将来にとり、きわめて重要である。実現可能性をあえて完全に無視して言うなら、自分で自分の生活費を稼ぐことなく、いわば「専業主婦」として暮らしている女性をすべて家庭



 客単価の高い飲食店で食事する女性の大半が支払うのは、自分の所得をはるかに超える金額である。これでは、目の前に並ぶ料理の質を価格との関係で厳しく吟味し批評する「眼」など養われはずはない。しかし、事情がこのようなものであるなら、飲食店が「価格に見合う味の追求」ではなく「味音痴が散財したくなる雰囲気の追求」を優先させるようになること、また、財布の中味と相談しながら食事するような男性客が歓迎されないこと、したがって、男性がひとりで飲食店に入りにくくなるのは、当然なのである。(だから、私は、飲食店の評価に関する女性の口コミは基本的に信用しないし、女性が執筆したレストランやカフェのガイドブックの類もあまり信用しない。)

自分で稼いだカネで食事する者が主役となる外食文化へ

 数年前、所用で京都に行ったとき、昼どきにある飲食店に入った。それは、それなりに「お洒落」な雰囲気の店であったから、当然、私を除き、客は全員女性であった。私は、若い女性の集団に囲まれたような席でひとりで昼食をとったのだが、そのあいだ、周囲の冷ややかな視線をずっと感じた。すぐ近くの席にいた(おそらく20代前半の)女性数人が私のことをジロジロと眺めていたのを今でもよく憶えている。

 私は、店から入店を断られないかぎり、周囲の客が私についてどう思おうと、それは彼女たちの問題であって私の問題ではないと割り切り、一切気にしないことにしているが、あまり気持がよくないことは事実である。

 しかし、女性――ということは、自分の所得を超えるカネで豪遊する客――を得意客とする飲食店を野放しにすると、日本の外食文化は、とどまることなく堕落するとともに、男性は、文化としての外食から締め出されてしまう。したがって、男性は、この状況にあえて逆らい、「お洒落」なカフェやレストランにあえて入ることが必要である。店に入ったとき、そこにいる客が全員女性であっても、怯えてはならない。場数を踏むうちに、客の性別など気にならなくなる。これは、飲食店に対する「宣戦布告」であるとともに、外食全般の嘆かわしい状況に対する「宣戦布告」でもある。「自分で稼いだカネで食う者が飲食店の評価を決める」のが正常な姿であり、この正常な姿を取り戻すためには、男性、特に必ずしも若くはない男性は――配偶者が何と言おうと――あえて困難な道を歩まなければならないように思われるのである。


Drunken man

 私は、酒が飲めない。アルコールが少しでも体内に入るとすぐに変調をきたすほどではないが、ビール1杯ですでに気持ちが何となく悪くなる程度には弱い。自宅には日本酒とブドウ酒をつねに用意しているが、これは、料理に使うためのものであって、飲むためのものではない。

 これはおそらく日本に固有の事情なのであろうが、アルコールを受けつけない人間には、夜の居場所というものがない。というのも、「夜の席」は、基本的に「酒の席」であり、酒が飲めることは、当然のこととして前提とされているからである。酒が飲めない人間など、最初からお呼びではないのである。

 何人かでテーブルを囲んでいるとき、私ひとりが酒を飲まないと、その場の雰囲気に水を差しているように感じられて肩身が狭い。だから、酒の席に呼ばれても、必要に迫られなければ行かないし、そもそも、呼ばれること自体がほとんどない。日が暮れてから、仕事以外で誰かと会って食事するなど、もう10年くらいないことである。齢のせいか、夜の席で酒を強いられることもなくなった。

 また、私が酒を飲めないと知ると、「あいつと会うのは、夜はやめておこう」という配慮が先方に働くのか、最近は、仕事上の付き合いでも、会食はほぼすべて昼間または夕方になり、私の夜の予定は、さらにスカスカになっている。(たしかに、深夜まで外出していると、翌日の仕事に差し支える危険があり、この意味では、夜の時間が完全に自由になるのはありがたい。)

 しかし、これもまた日本の特殊事情であることを願うが、「アルコールが媒介する人間関係」というものがこの世にはあり、これが無視することのできない役割を社会において担っているらしい。飲める人々は、この点を特に自覚していないのかも知れないが、飲めない人間の目には、これは、どれほど努力しても入り込むことのできない不可視のネットワークと映る。

 機会があるたびに口実を作って酒を飲みたがる人間は非常にさもしいと思うし、酔っ払いも嫌いであるが、このアルコールが媒介する不可視のネットワークだけはうらやましいとひそかに思っている。

 ※こういうことを考えていたら、次のような記事を見つけた。

西荻窪「ワンデルング」。そこは飲めない人と、飲まない夜のためのお店【夜喫茶】 - メシ通

 これは、JR中央線の西荻窪駅からすぐのところにある新しい店である。飲めない人間にとっては、このような空間は貴重である。

WANDERUNG | 喫茶ワンデルング


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