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人生に対する積極的な態度と消極的な態度

 私は、これまでの人生の中で何度か、人生を諦めそうになったことがある。

 人生を諦めるというのは、自分が置かれた環境を見限り、新しい環境――それがどのようなものであるとしても――へと逃れて行くことではない。下の記事に書いたように、私は、このような意味における脱出には肯定的な意味があると信じている。


脱出万歳 : AD HOC MORALIST

追い詰められないかぎりみずからは決して動かないこと、つまり、ある状況を脱出するためにしか行動しないことは、好ましくないように見えるが......。


 人生を諦めるというのは、人生に対するやや消極的な態度である。

 何かの折に、ふと「まあ、俺の人生、こんなもんかな」という感慨が短いあいだ心を占領することがある。それは、明らかに「人生の危機」に当たるときではない。自分が身を置いているのが危機的な状況であることがわかっているのなら、この状況から全力で逃れることを誰でも試みるはずだからである。

これを選んでしまったら、後戻りできないのに……

 むしろ、このような感慨が訪れるのは、人生をある意味における安定へと誘うような選択肢が私の前に姿を現すときである。

 もちろん、この選択肢が十分に満足すべきものであるなら、これを選び取るのに何ら問題はない。問題は、心に浮かぶ可能性について心の底では満足していないのに、そして、この可能性を選び取ってしまったら、もう2度ともとには戻ることができず、選び取ったことによって形作られる状況からは永遠に脱出することができないとわかっているのに、それでも、何となくこれを選び取ぶことを自分に許してしまうな気分に囚われることである。私自身は、40歳を過ぎてから、この生ぬるい気分にときどき襲われるようになった。

 幸いなこと――であるかどうかはよくわからないのだが――に、私の場合、「まあ、俺の人生、こんなもんかな」と言って何かを選び取りたくなるような気分に陥るたびに、「ふざけるな、それで好いわけがないだろうが」「そんな人生は絶対に嫌だ」という反抗的な声が自分の内部から聞こえてきて、私を生ぬるい諦念から引きずり出してくれる。この叱咤激励の声が聞こえなくなったら、私は、冬の朝の布団の中のような生暖かい奈落へと引きずり込まれて行くのではないかと思う。

残りの人生をやり過ごしてしまってよいのか

 「まあ、俺の人生、こんなもんかな」という感慨が心に生れるのは、すでにそれなりの期間にわたり人生を生きてきたからであり、人生の残りがある程度まで掌握可能なサイズになってきたからであるに違いない。つまり、「この程度の期間なら、やり過ごしてしまってもかまわない」と感じられるようになったからであるように思われる。

 たしかに、小学生や中学生にとり、自分があとにしてきた人生と比較し、残りの人生は途方もなく長く、これを「やり過ごす」決意が心に生まれることはないであろう。しかし、年齢を重ねるたびに、残りの人生は少しずつ見通しの利くものになり、それとともに、これを「やり過ごす」可能性が心に浮かぶようになる。

 ただ、これからの人生を「やり過ごす」ことは、生きることを諦めるのと同じことであると私は考えている。もちろん、今の社会の中で私自身が置かれている状況は、それなりに安定したものであり、私が「まあ、俺の人生、こんなもんかな」とつぶやいたとしても、世間からは「大いに結構じゃないか」という反応が戻ってくるに違いない。

 誰の人生にも、1分、1時間、1日、1週間など、ある程度の幅の非生産的な退屈な時間をやり過ごすことはある。しかし、このようにしてやり過ごされた時間のあとには、それ自体として価値ある時間が必ず続いて行く。これに対し、「まあ、俺の人生、こんなもんかな」という生ぬるい妥協と諦念に浸って自分をごまかし、そして、残りの人生をやり過ごすことを自分に許すとき、このやり過ごされた時間の最後に来るのは死であり、死のあとには何もない。

 あとどのくらいの人生が私に残されているのか、これはわからない。しかし、5年であれ、10年であれ、50年であれ、残りの人生をやり過ごすことに決め、前進と成長を自発的に諦めてしまったら、私は、他の人々の前進と成長を恨めしく眺めることになるであろうし、死ぬときに必ず後悔するはずである。今後、「まあ、俺の人生、こんなもんかな」などと自分の人生を総括し、自分を生ぬるく欺きつつ人生をやり過ごすことへの誘惑は、強くなって行くことを避けられないかも知れないが、「まあ、俺の人生、こんなもんかな」という声に導かれて行きつくのは、偽りの幸福にすぎない。この誘惑に抵抗し続け、人生を決してやり過ごさないことは、幸福な人生のための最低限の前提であるように思われるのである。