AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:孤独

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ゆるやかに悪化する環境にとどまると「茹で上がる」

 「茹でガエル」とは、生きたままゆっくりと茹でられるカエルを用いた「たとえ話」である。

 カエルは、最初から高温の湯に入れられると、すぐに跳び出すが、低温の水の中にいるカエルは、少しずつ加熱されても、逃げ出すことなくこれに適応しようと努力し、そのせいで、最終的には茹で上がって死んでしまう。同じように、最初から劣悪な環境に放り込まれると、誰でもそこから逃れようとするのに反し、周囲の環境が少しずつ悪化して行くと、私たちは、ここから逃げ出すのではなく、むしろ、その場にとどまって環境に適応することを目指し、そのせいで、最終的に逃げ遅れて命を落とす。これが「茹でガエル」のたとえ話である。

 実際には、カエルは、低温からゆっくり加熱されても、水温が限度を超えて上昇すると逃げ出してしまうようであるけれども、人間の場合、環境がゆるやかに悪化して行くときには、ここに止まることを選択することが多いのであろう、このたとえ話に不思議な説得力が認められることは確かである。

逃げ足が速さが大切

 自分が属している組織の居心地が悪くなったり、組織の環境が悪化したりするとき、居心地や環境を改善するというのは、私たちが最初に試みることである。問題は、この努力に関し、限度を見きわめるのが難しいことである。「茹でガエル」から学ぶことができるのは、このような事実である。

 以前、次の記事を投稿した。


脱出万歳 : AD HOC MORALIST

追い詰められないかぎりみずからは決して動かないこと、つまり、ある状況を脱出するためにしか行動しないことは、好ましくないように見えるが......。


 私たちが「茹でガエル」にならないために重要なことは、困難を解決するアイディアを産み出すことなどではなく、環境の悪化を素早く察知し、身をひるがえしてすみやかに逃げ出す能力であることになる。

逃げ出す者は孤独である

 とはいえ、環境の悪化に気づきながら、ここにとどまって環境を改善する努力を放棄し、身をひるがえして逃げ出す者は、つねに孤独である。というのも、少なくとも日本では、「みなと一緒に苦労を分かち合う」ことが好まれるからである。周囲の人々が悪化しつつある状況を改善しようとするとき、ひとりだけこれを見捨てて新たな場所へと逃れる者は、残る者たちから冷たいまなざしを投げられるかもしれない。また、冷たいまなざしを浴びることがないとしても、少なくとも、逃げ出す自由を行使する者が、自分の責任において、ただひとりで行動しなければならないことは確かである。

 だから、危機を察知し、そして、何らかの意味において好ましくない環境から逃れる能力というのは、孤独に耐える能力と一体であると言うことができる。少なくとも、孤独に耐えられず、「みなと一緒」に固執する者にとり、「好機」(カイロス)を捉えて逃げ出す可能性は、永遠に閉ざされたままであるに違いない。

Donald Trump supporter

孤独は「さびしさ」を感じさせるから嫌われる

 以前、ある知人と話していたとき、「天涯孤独」という言葉を耳にすることがあった。彼は、ながく同居していた病気の母親を看護し、そして亡くしたのだが、兄弟もなく、また、親しく往来していた親類もおらず、本人にも家族はいなかった。そこで、母親が亡くなったとき、「天涯孤独」であることを実感したというのである。

 たしかに、母親の病が篤くなってからは、自宅では在宅医療の関係者、病院では医師や看護師がつねに身近におり、また、母親が亡くなって葬儀が行われたときには、遠い親戚や知り合いがそれなりにたくさん参列してくれた。しかし、葬儀が終わった途端、それまで周囲にいた人々は一斉に姿を消し、ただひとり取り残された。そして、火葬場から骨壺を抱えて一人で自宅に戻ったとき、「ああ、これからはずっとひとりなんだな」と感じたというのである。もちろん、それまでも、誰もいない自宅に戻ることは珍しくはなかったけれども、これからは、「ずっとひとり」であることを強く感じ、「さびしさ」を覚えたそうである。

 人生には、孤独を感じる機会が少なくない。田山花袋は、次のように語っている。

人間元来一人で生まれて一人で死んでいくのである。大勢の中に混じっていたからって孤独になるのは、わかりきったことだ。

 しかし、この有名な言葉を俟つまでもなく、友人や家族と一緒にいても孤独を感じることは避けられない。もちろん、「孤独」という言葉が使われるときに物理的に孤立した状態が想定されているなら、この意味における孤独は、決して悪いことではない。というのも、この場合の孤独は――独房に入れられているというような特殊な場合を除けば――何らかの自由を含むものだからである。いや、ただひとりで狭い空間に押し込められているときですら、私たちの心は、自由でありうる。(自由で「ありうる」と言ったのは、現実には、孤立した状況に打ちひしがれて自由を失うこともありうるからである。)

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 しかしながら、私たちの多くが抜け出したいと思う孤独とは、単なる物理的な孤立ではなく、むしろ、「さびしさ」を覚えるような状況のことである。孤独が問題であるのは、それが「さびしさ」を感じさせるかぎりにおいてであることになる。自分のことを周囲から理解してもらえないとき、連絡をとることのできる相手が周囲にいないとき、私たちはさびしさに襲われる。私など、秋の休日の夕方、日が暮れる少し前、ひとりで近所を散歩しているとき、来し方と行く末を考え、心細さで心が一杯になることがある。

あえて孤独を選ぶ

 問題は、孤独な状態を脱することではなく、「さびしさ」から解放されることである。そして、「さびしさ」から解放されるためには、自足すること、つまり、自分自身を全面的に信頼しうるようになること以外に道はない。(他人との「つながり」を求めれば、かえって「さびしさ」は増幅する。)そして、自分自身を全面的に信頼するためには、自分の「使命」を自分で見出すことが必要である。「自分で」と言ったのは、次のような事情があるからである。

 「さびしさ」を感じるとき、私たちは、他人にすがりたくなる。そして、他人の強い要求や勧めを実行することが自分の存在理由を明らかにしてくれるという幻想を抱きがちである。ナチズムが強固な支持者を獲得したのも、また、現在アメリカで進行中の大統領選挙においてドナルド・トランプが狂信的な支持者を産み出したのも――遠くから眺めている私たちには理解しがたいことであるけれども――おそらく、ヒトラーやトランプの言動が、大衆の一人ひとりの自信の根本的な欠如と共鳴したからであるに違いない。

 トランプが現在のアメリカにおいて異常な支持を集めているのは、白人の地位低下、格差の広がり、産業の空洞化などが原因であると普通には言われている。しかし、現実には、このような表面的な事柄に目を向け、これらを問題として受け止め、そして、ある特定の態度をとるよう求める声に大衆が耳を傾けたのは、この声に従い大衆運動に身を投じることが自分の存在を正当化してくれるかのような錯覚を心に産み出す素地、つまり、自信の欠如と「さびしさ」が各人のうちにあらかじめ用意されていたからであると考えるのが自然である。(決して逆ではない。)サッカーの熱狂的なサポーター(フーリガン)の行動についても、事情は同じである。

 自分自身を全面的に信頼することができるようになるためには、群れから身を引き、最低限の孤独を確保することが絶対に必要である。人は孤独だからさびしいのではない。孤独になりえないからさびしさを覚えるのである。


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