AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:安全保障

ティンダハナタ

 しばらく前、NHKで次のような番組を見た。

「南西諸島防衛 自衛隊配備に揺れる国境の島」(時論公論) | 時論公論 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス

 南西諸島の防衛を目的とした自衛隊の部隊の配備計画によって地元の住民のあいだに対立が生れていることが取り上げられ、(国政を担う)政治家は、安全保障とともに、地域の安定にも目を向けるべきであるという意味のことが語られていた。

 しかし、私は、外部の人間が、地元の住民のあいだの対立や分断の解消のために努力することにはあまり意味がないと考えている。つまり、対立や分断は、さしあたり放置する他はないように思われるのである。

 いわゆる「ネット右翼」は、プロ市民、外部から来た活動家、外国政府のせいで分断が起っていると主張するかも知れないが、意見の対立が解消されないのは、プロ市民や活動家や外国政府が暗躍しているからではない。(もちろん、何者かが暗躍している可能性はつねにあるけれども、たとえ誰も暗躍していないとしても、)そもそも、何か新しいことが発生すれば、この新しいことをめぐり意見が分かれるのは当然だからであり、安全保障の問題に関するかぎり、「自衛隊を配備するか、それとも配備しないか」の二者択一しかなく、万人が同意するような「落としどころ」など見出すことができようはずはないからである。沖縄の歴史を辿るなら、安全保障をめぐり、このような意見の対立や分断が500年以上にわたり飽きるほど繰り返されてきたことがわかる。だから、私は、上のような番組を見たとき、デジャヴュの感覚に襲われた。このようなことを報道するのは、もう終わりにした方がよいような気もする。

 残念ながら、これまでの歴史の範囲では、沖縄が主体性を発揮して安全保障上の問題を自力で解決したことは一度もない。沖縄には、主体性を発揮するための力の前提となるような人口も面積も産業もない。沖縄が外部の勢力と交渉しようにも、取引材料が何もなく、対等な相手と見なされないのだから、自力では何も解決できないのは――沖縄が無能だからではなく――離島の寄せ集めという沖縄の性格上、また、中国という覇権主義的で帝国主義的な独裁国家がすぐ隣にある以上、仕方のないことである。(この意味において、今の政府は、沖縄県の声によく耳を傾けていると私は考えている。)

 だから、与那国町、宮古市、石垣市などにおいて市民のあいだに意見の深刻な対立があるとしても、これは必然であり、放置するしかない。やがて、時間の経過とともに、自衛隊が地元にいることが事実として承認されるようになれば、分断は自然に解消されて行くはずである。安全保障の問題は、市町村や都道府県の問題ではなく、政府の問題であり、基礎自治体には、大きな枠組みを自分で変更する力がない。地元の住民にとって考える意味があるのは、「受け容れるか/受け容れないか」ではなく、受け容れた場合、その損害――があるとしてーーをどのようにしたら最小限に抑えることができるのかという技術的な問題だけであろう。

 上の番組では、次のようなことが語られていた。

元防衛官僚で官房副長官補を務めた柳沢協二氏は、先月、石垣市で講演し、「最前線に地対艦ミサイルのようなパワーがあれば、相手を拒否する力にはなる。ただ、相手側に本当に戦争をする意思があれば、最初にここが攻撃されるだろう。その覚悟があるのか」と語っていました。

 「その覚悟があるのか」などという脅迫するような表現が使われていることから、この人物がミサイルの配備に反対なのだということはよくわかる。(そもそも、「覚悟がない」としても、だからと言って、何もしないで済ませることが許されるとでもいうのであろうか。)けれども、現実には、覚悟の有無というのは、どうでもよい話である。なぜなら、万人にとって何よりも必要なのは、次のような事実を認識することだからである。

 すなわち、地元の住民に覚悟があってもなくても、また、自衛隊の部隊がいるかどうかにも関係なく、さらに、自衛隊の配備が中国を「刺激」するかどうかにすら関係なく、石垣市、宮古市、与那国町などは、最初から中国に狙われているという事実、その上で、自衛隊なりミサイルなりの配備が、中国が侵略を実際の行動に移す確率を抑えるのに間違いなく効果があるという事実を認識することであるように思われるのである。


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Henoko Residents and U.S. Marines Play Softball

沖縄の保守系政治団体にはそれなりの存在意義がある。


 「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」という政治団体がある。これは、その長い名前からわかるように、沖縄で活動している団体である。また、少しでも沖縄のことを知っている人なら、これが「右寄り」の団体であることを推測するのも、難しくはないであろう。

琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会│ホーム

 沖縄には小規模な保守系の政治団体がいくつかあるようであるが、「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」は、私でも知っているくらいであるから、その中ではもっとも活発な団体であると言ってよい。また、この他に、「沖縄対策本部」という団体もある。(なお、これらの団体は、「まぐまぐ」を利用して無料のメールマガジンを発行し、安全保障に関連する沖縄ローカルの情報を発信しているが……。)

沖縄対策本部 - 沖縄対策本部

 沖縄の保守系の政治活動は、たとえば、

  • 沖縄の二つの地方紙の偏向報道を批判したり
  • 普天間飛行場の辺野古への移設に賛成したり
  • 本土から沖縄に渡ってくる「プロ市民」を牽制したり
  • 尖閣諸島近海への中国船の侵入に関する啓発活動に従事したり
  • 「琉球独立」論を中国の陰謀として非難したり
するものであった。
 日本とアメリカの安全保障面における協力関係は、今のところ、日本と東アジアの安定にとって不可欠であり、この協力関係を実のあるものにするためには、沖縄にはどうしても基地が必要であり、日本政府と協調することのできる政治勢力の形成が必須であると彼らが考えているからである。

 ただ、誰かにわざわざ教えてもらうまでもなく、国際政治についての最低限のリテラシーがあれば、これとは異なる結論に辿りつくはずはないような気がする。これは一種の常識であり、また、この常識を前提として大衆運動に従事するかぎり、その内容が上に挙げたようなものとなるのも、当然のことであろう。このかぎりにおいて、沖縄の保守の活動には、疑問の余地のない大義があると私は考えている。

彼らは真面目だが「沖縄のことにしか興味のない人たち」と見なされている。


 それにもかかわらず、沖縄の保守系の政治団体について、残念に思う点がある。(可能なかぎり好意的な表現を使うなら、)彼らが誰に対して自分たちの主張を伝えようとしているのか、どのような成果を期待しているのか、明らかではないのである。言い換えるなら、彼らの活動には、次のような根本的な問題が認められるのである。

 沖縄県内の言論空間において彼らが少数派であることは、私にもわかる。また、県内の主なマスメディアが彼らの動向を伝えない以上、県民に声を届けるためには、主張を簡潔にまとめ、デモや講演会でこれを連呼しなければならないという事情があることも理解できないわけではない。彼らのターゲットが沖縄のサイレント・マジョリティ(と彼らが信じるもの)だけであるなら、そして、彼らが県外の反応を考慮しないのであるなら、戦略に大きな誤りはないのかも知れない(が、この点は、私には判断する資格がない)。

 しかし、このような活動は、沖縄に地縁も血縁もない私のような者には訴求しないはずである。むしろ、多くの日本人に退屈で粗雑という印象を与えるばかりであろう。
 そして、その理由は、誰の目にも明らかであるように思われる。すなわち、彼らには、日本のあるべき姿に関する固有の見識ないし見解が欠けているのである。

 たしかに、彼らは、沖縄の問題、沖縄に関係のある問題については積極的に発言する。しかし、わが国にとって重要であるけれども沖縄とは直接に関係のない諸問題について、彼らが何らかの意見を公にすることはない。少なくとも私は聞いたことがない。たとえば消費税、たとえば待機児童問題、たとえば原発再稼働……。

 このような重要問題について沈黙しているかぎり、国民の多くが彼らに声に耳を傾けることはないであろうし、彼らに信頼を寄せることもないであろう。なぜなら、国民は彼らを「沖縄のことにしか興味がない人たち」と見なすはずだからであり、「沖縄のことにしか興味のない人たち」の主張が国政に影響を与えることには、当然、誰もが慎重になる似違いないからである。(もっとも、立場の左右に関係なく、沖縄から発せられるすべての言論は、同じ性格を共有している。)

 国民の多くが関心を示すテーマについて固有の視点から発言しつつ、独自の文脈の内部において沖縄を語ることができなければ、世論に影響を与えることなど到底不可能であるように思われるのである。

彼らのすることは雑な印象を与える。


 残念なことに、刺戟を欠いた主張を聴いていると、アラばかりが目につくようになる。私は、去年の春、下の書物を手に入れた。これは、上記の「沖縄対策本部」の関係者が中心となって製作、公刊されたもののようである。




 これは、非常に残念な書物である。残念なのは内容ではない。本の作り方があまりにも粗雑なのである。モノとしての体裁がこれほどなおざりにされた書物に21世紀の日本で出会うとは、私は予想していなかった。

 全国の読者に届けることを望むのなら、造本やレイアウトについて気を遣うことは必須だったであろうが、少し慎重な読者にとっては、表紙に視線を落とすだけで、書物の内容に対する信頼が損なわれるには十分であったに違いない。というのも、表紙には次のように大きく印刷されているからである。

琉球処分、沖縄戦、祖国復帰、辺野古移設、尖閣諸島、琉球独立、ペリー、沖縄県知事選挙、沖縄戦、全ての問題を新たな視点で解説。
 

 誰が見てもすぐにわかるように、ここには「沖縄戦」の3文字が2回使われている。これは、表紙が一度でも校閲されていれば、確実に避けることのできたはずの単純きわまるミスである。このミスは、内容への信頼を損ねるばかりではなく、全般的な「やる気のなさ」の証拠として受け取られかねない。というのも、読者というのは、未知の書物の内容の信頼性を、著者の知名度、あるいは、書物の外観を整えるためにかけられた手間にもとづいて判断するものだからである。上記のミスに気づいていながらこの書物への信頼を失わないのは、著者を直接に知る読者か、あるいは、知的水準がよほど低い読者のいずれかだけではないかと思う。

 このレベルのミスは、沖縄県内の出版界では許容されているのかも知れないが、日本全国に流通する可能性のある書物にとっては致命的であろう。「琉球新報」や「沖縄タイムス」を批判するのなら、せめて両紙と同じくらいには丹念な校閲を心がけるべきであるように思われるのである。

 いや、それ以前に、そもそも表題が表紙に正しく印刷されていないような気がするのだが……。
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Japan Air-Self Defense Force Air Show



北ミサイル 日本のEEZにまた着弾 北海道西方沖 防衛省が残骸を捜査中:イザ!


 北朝鮮がまたミサイルを発射した。「憲法9条を改正すればこんなことは起きない」などと言うつもりはないが、前回のミサイルが排他的経済水域に落ちたことを考えると、今回のミサイルにまったく対応できなかった――もちろん、事後にはいろいろとやっているが――ことは、やはり憲法のせいなのかも知れないと思わずにはいられない。

 ところで、国家というのは、外からの脅威に対して国民の安全を守ることが最低限の役割であり、これが果たせない場合、国家とは言えない。これは政治学の常識であるばかりではなく、世界の常識でもある。

 もちろん、海外で日本人が事件や事故に巻き込まれたり、テロの標的になったりすることがあり、これを完全に防ぐことは不可能であろう。しかし、今回のミサイルへの対応を見ていると、政府は、国内にいる日本人の安全すら本気で守るつもりがないのではないかという疑念を抱かざるをえない。これは、一つの国家が他国に対してとる態度ではないと私は思う。(もっとも、日本は、北朝鮮を国家として承認していないから、日本から見ると、北朝鮮は「国」ではないことになる。)

 いずれ、北朝鮮は、ミサイルを飛ばすであろう。ことによると、ミサイルは、領海、いや、領土のどこかに着弾するかも知れない。そのとき、わが国は、これに対して反撃するのであろうか。それとも、相変わらず抗議したり非難したりするだけなのであろうか。そして、どこまでひどく国民の安全が脅かされれば、わが国は、まともな仕方で反撃することができるようになるのであろうか。

 今回の件は、法的にはともかく、素朴な常識に従うなら、「有事」と呼ぶのに十分な事態であったと私は思う。それなのに何もしなかった政府が、次の機会に何かをすることは、ことによると対して期待できないのかも知れない。


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『折り鶴』


「千羽鶴、何とか生かせないか」名刺や封筒にリサイクル、コスト大が課題に 長崎原爆資料館(西日本新聞) - Yahoo!ニュース


 上のような記事を見つけて少し驚いた。というのも、長崎と同じように折り鶴が大量に集まる広島市では、はるか以前から焼却したり、無償で配布したり、リサイクルしたりする形で折り鶴が処分されていたはずからである。

 ところで、私は、平和を非常に大切であると考えているが、折り鶴を折ることと平和との関係は、直観的にはよくわからない。平和は実現のために努力するものであり、願うものではないような気がするからだ。

 しかし、平和への願いを何かに込めると平和が実現するなら、あるいは、折り鶴の数に比例して平和に近づくなら、私は、毎日、睡眠時間を削ってでも鶴を折り続ける。

 もちろん、折り鶴の数と平和のあいだには、何の関係もない。そもそも、「願い」で平和が実現するなら、それほど簡単なことはない。鶴を折る手間と時間があるなら、尖閣諸島周辺に毎日のように現れる中国の艦船の動きに注意を払ったり、憲法の改正を働きかけたり、竹島がわが国の領土であることをアピールするためふるさと納税の形で島根県を支援したりする方がよほど合理的であるように思われるのだが。

 なお、折り鶴と平和のあいだに関係があることが合理的に証明されたら、おそらく、政府は、大量の労働者を雇用して鶴を折らせるか、あるいは、「折り鶴自動製造機」の開発に膨大な予算を投じるであろう。平和を実現する合理的な手段がわかっているのに、この手段を使わないまま放置すると、不作為で政府が告発される可能性があるからである。


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