AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:家庭料理

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家庭料理がプロを模範とするようになったのは高度経済成長期

 今から10年以上前、次の本を読んだ。

"現代家族"の誕生―幻想系家族論の死

 日本の家庭料理は、世界の他の国と比較して多様であると一般に考えられている。たしかに、事実としてはそのとおりであろう。

 しかし、上の本の著者は、日本の家庭料理のメニューが多様化し、主婦が家庭で作る料理のバラエティが急激に増えたのは、戦後の高度経済成長期であることを明らかにしている。つまり、(著者によれば、)1960年代に生まれた日本人の親の世代が現代の家庭の必須の小道具である「家庭料理」のイメージを作り上げた第一世代に当たることになる。高度経済成長以前のながいあいだ、日本人の食卓は必ずしもバラエティに富んだものではなく、また、主婦が炊事にかけていた時間やエネルギーもまた、決して多くはなかったのである。

自律性を失った家庭料理

 しかしながら、時間と手間のかかる家庭料理を作り上げた世代に当たる主婦たち自身が育った家庭には、料理に関し模範となるような者はいなかったに違いない。したがって、彼女たちには、書籍、雑誌、テレビなどを利用してプロの料理人や料理研究家が作ったレシピを手に入れ、これを模範として家庭料理を作り上げる以外に道はなかったはずである。手の込んだ中華料理、洋食、和食、洋菓子などは、このようにして家庭に入り込んできたのである。

 本来、家庭料理とプロの料理は、同じ食事を構成するものであるとはいえ、性格をまったく異にするものである。プロの料理は、たとえ大衆食堂のメニューであっても、本質的に商品である。しかし、家庭料理は、対価を要求する性質のものではなく、当事者たちが満足するかぎり、その内容は特に問題にならない。高度経済成長以前には、主婦が仰ぐべき家庭料理の模範は、主に自分の家庭(または嫁ぎ先)で受け継がれてきたレシピか、ごく簡単な料理本に掲載されたレシピの範囲を超えることはなかったに違いない。


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 ところが、戦後のいわゆる「家庭料理」は、それぞれの家庭において完結するものではなくなる。つまり、料理が成功しているかどうかを決めるのは、両親、子ども、舅姑など、家庭を構成するメンバーではなく、料理店のメニューや料理本になってしまったのである。料理に関するかぎり、家庭は、自律性を奪われ、外部に設定された基準に隷属するようになってしまったことになる。

家庭の主婦は、料理人や料理研究家の「劣化コピー」を目指すのをやめるべき

 もちろん、いくら道具を買い揃えても、いくら下準備に時間をかけても、家庭の主婦がプロにかなうはずはない。だから、家庭料理が外部の基準に隷属するかぎり、その目標は、「時間と手間と技量が許す範囲で、いかにして家族の健康を維持するか」ではなく、むしろ、「プロが作ったような外見と味を、時間と手間をかけずにいかに実現するか」となる。これは、必然の成り行きである。

 冷静考えるなら、主婦というのは、料理のプロではない。というよりも、主婦はいかなるもののプロでもない。以前、次のような記事を投稿した。


紫外線対策のための手袋なるものへの違和感 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

日焼けしたくないという気持ちはわからないわけではないが 5月の中ごろ、休みの日に近所を散歩していたら、1人の高齢の女性が通りを向こうから歩いてくるのが目にとまった。この女性もまた、散歩の途中だったのであろう、両手には何も持たずに歩いていた。 この女性が私の


 主婦は、美容のプロではなく、服飾のプロでもなく、掃除のプロでもなく、裁縫のプロでもなく、洗濯のプロでもない。当然、料理のプロでもないし、炊事のプロであることが誰かから求められているわけでもない。主婦は自分の炊事の出来ばえを評価する基準を外部に求めるのをただちにやめ、自分の家族にとり本当に必要な食事とは何であるのか、自分が炊事に使うことができる時間や体力を考慮しながら吟味すべきである。

 家事の出来ばえの基準を見失うと、主婦は、家事をまったく放棄してしまうか、あるいは、反対に「丁寧な暮らし」という名の暇人の道楽に際限なく時間と体力とカネを注ぎ込むかのいずれかになり、家族を不幸に陥れることになるように思われるのである。

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「肉じゃが」は家庭料理の代表ということになっているが

 「肉じゃが」は、日本人、特に男性が好む家庭料理であると普通には信じられている。残念ながら、「肉じゃが」の好き嫌いを周囲の男性に自分で確認したわけではないから、実施に「肉じゃが」がどのくらい好まれているのか、私は知らない。

 ただ、私自身は――日本人の男性であるが――「肉じゃが」をあまり好まない。もちろん、目の前に出てくれば、食べないわけではない――つまり、積極的に忌避するほど嫌いではない――けれども、特に食べたいと思ったことはない。いや、正確に言うなら、他の選択肢があるなら、「肉じゃが」を選ぶことはまずないという程度には嫌いである。「肉じゃが」が男性を「落とす」「勝負料理」であるなどという文章に出会うとき、私は強い違和感を覚える。

肉じゃが? 餃子? 「男を落とす勝負料理」のすごすぎる中身とは|【マイナビ賃貸】住まいと暮らしのコラム

「肉じゃが」のしまりのなさが苦手

 私の見るところ、「肉じゃが」というのは、「しまりのない」料理である。(少なくとも私は、「しまりのない」「肉じゃが」しか見たことがない。)

 「肉じゃが」が「肉じゃが」であるためには、肉(牛肉あるいは豚肉)とジャガイモが入っていなければならない。その他に、ニンジンと玉ねぎ、さらに、場合によってはシラタキや絹サヤが入っていることもある。これは、「カレーからスパイスを取り除いたもの」と「すき焼きを水で薄めたもの」を足して2で割った料理である。

 しかし、カレーは、スパイスがあってこそ美味しいものであり、すき焼きは、煮詰められることで生まれる濃い味に価値があるのに、「肉じゃが」は、これら2つをともに欠く煮物であることになる。「肉じゃが」が与える気が抜けた「しまりのない」印象は、この点に由来するように思われる。

「肉じゃが」の「おざなり」なところ

 さらに、「肉じゃが」とは、基本的にジャガイモを味わう料理なのであろうが、少なくとも私の知る範囲では、ジャガイモが煮崩れるのを防ぐためなのか、味が内部にしみこむまで加熱されず、食べるとき、ジャガイモの青臭さが鼻につくことが少なくない。(ジャガイモの青臭さを好む人は、決して多くないと思う。)

 青臭さは、カレーに代表される強力なスパイスで消す、あるいは、コロッケやポテトサラダのように原形をとどめない程度まで加熱することによって消すことができるが、一般的な和風の煮物の味つけでは――味を薄くしても濃くしても――青臭さが消えることはない。(子どものころ、食卓に「肉じゃが」が出てきたことがあった。そのとき、私が「ジャガイモが青臭い」と文句を言ったら、「『肉じゃが』とはそういうもんだ」という返事が戻ってきた。この返事には、今でも釈然としないものを感じる。)

 けれども、青臭さを完全に消すことを目指して何らかの工夫が試みられたという話は、寡聞にして知らない。「肉じゃが」が、しまりのない料理であるばかりではなく、細部に関し「おざなりな」料理であるという印象を与える原因の一つはここにある。同じ煮物と言っても、「肉じゃが」は「筑前煮」に遠く及ばないと私は考えている。

「肉じゃが」で「落とす」ことができるのは、「肉じゃが」が好まれているからではない

 どのような根拠があるのかは知らないが、「肉じゃが」が男性を「落とす」のに効果的であると普通には信じられているようである。しかし、実際には、「料理が何であっても、落ちるときは落ちる」と考えるべきである。「落ちる」かどうかは、本質的にコミュニケーションの問題であり、相手への思いやりの問題だからである。

 「『肉じゃが』さえ出せば落ちる」など、ありうべからざることであることは、少し冷静に考えれば、誰にでもわかることである。(たとえば、私のように「肉じゃが」を好まない者には、「肉じゃが」は逆効果でしかない。)

 味の好みは人によりまちまちである。。何らかの手料理を手段として男性を「落とす」ことを望むのなら、標的となる男性の好みを徹底的に調べるべきであろう。

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