AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:家族

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家族はリスクヘッジのためにある

 家族というものが何らかの意味を持つとするなら、それは、本来は、リスクヘッジのためであるに違いない。病気のとき、職を失ったとき、あるいは、その他の困難な状況に陥って途方に暮れたとき、家族がいることによって、援助や励ましや助言を期待することができる。少なくとも、心細い思いをしなくて済むのである。

 同じように、家族の誰かが危機に陥ったとき、私もまた、大切な誰かのために援助を惜しまないであろう。

 親や子を選ぶことは、誰にも原則としてできないけれども、配偶者や姻戚を選ぶことは許されている。家族がリスクヘッジのためのものであるなら、選ぶことが許される家族に関し、危機においてどの程度まで助け合えるかという観点からこれを評価することは、決して不適切ではないように思われる。(もちろん、私は、「結婚相手は金持ちに限る」と言いたいわけではない。)

 兼好法師は、『徒然草』において、「家のつくりやうは、夏をもって旨とすべし」と語っているが、これに倣うなら、「家族のつくりやうは、危機をもって旨とすべし」ということになる。家族の姿というのは、本質的に非常時への対処に最適化されていなければならないはずなのである。

リスクを前にして解体する家族

 ところが、現実には、危機というものは、家族の結びつきを強固にするのではなく、反対に、これを解体してしまうことが少なくないようである。しばらく前、次のような記事を読んだ。

「がん離婚」なぜ妻ががんになったら夫は別れたがるか | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online

 家族がガンに罹るというのは、家族の危機の典型の一つであるに違いない。そして、家族は、このような状況のもとで団結して助け合うためにあらかじめ形作られてきたはずである。しかし、実際には、配偶者の病気はストレスとして把握され、家族の解消の正当な理由になってしまうようである。

「金の切れ目が縁の切れ目」であってもよいのか

 しばらく前、次の記事を投稿した。


「この世はすべてカネで動く」わけではないが、大抵の問題は「カネさえあれば何とかなる」ものではある : AD HOC MORALIST

Nik MacMillanカネの有無が勝負を決することがある 外交交渉では、武力において劣る国は、相手から足元を見られるのが普通である。(だから、憲法を改正しないかぎり、わが国は外交で負け続ける運命から逃れられない。)同じように、他人とのあいだの交渉では、いざというと


 カネの有無が生活の質を決するというのは、ある程度まで普遍的な法則であるのかもしれない。しかし、それとともに、家族の存在は、この法則に対する異議申し立てであり、カネの有無に関係なく生活に最低限の品質を保証するためにあると考えることが可能である。(カネを無尽蔵に持っている者には、家族を持つ必要がないのかもしれない。)家族の誰かが困難な状況に陥ったとき、これをストレスと見なして忌避するとするなら、それは、「金の切れ目が縁の切れ目」という残念な法則が、この法則に対する異議申し立てとしての家族を圧しつぶしたことを意味する。

 たしかに、家族の看病や介護は、途方もなく大きなストレスになる。体力や家計に与えるダメージもまた、決して小さくはない。だから、家族がリスクヘッジのために作られる集団であるかぎり、新しい家族を作るときには、このリスクを負う覚悟をみずからに必ず問わなければならないであろう。

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集団の利益を代弁する役割は苦手

 給料をもらって働いていると、自分が所属する小さな集団を代表して他の組織の誰かと交渉し、交渉の場面において、自分が所属する集団の利益を代弁して何かを主張しなければならないことがある。これは、私がもっとも苦手とするところであり、これまで、ながいあいだ、集団の利益を代弁しなければならないような仕事からは逃げ回ってきた。今でも逃げ回っている。

 私は、自分のことにしか関心がないのであろう、あるいは、集団への帰属意識に乏しいのであろう、自分の利害にはそれなりに敏感であるけれども、集団の利益という抽象的なものに関心を向けるのには、特別な努力を必要とする。だから、集団の利益を代弁する席に着くと、交渉を最短で終わらせることを目標に、万事において簡単に妥協してしまうことになる。これは、集団にとっては大きな損害となるに違いない。

家族の利益を代弁することができるかどうか自信がない

 このような私であるから、職場の利益を代弁することが苦手であるばかりではなく、家族の利益を代弁するような立場に身を置くこともまた、できることなら避けたいと思っている。というのも、家族の利害にかかわることに関し、簡単に妥協してしまうのではないかという懸念を自分自身について抱いているからである。家族の利益を守ることが面倒になったら、家族を捨ててしまう虞があるわけである。

 職場の利益を守るのが面倒になったら、仕事をやめればよいけれども、家族の利益を守るのが面倒になったからと言って、家族を捨てて逃げてしまうわけには行かない。家族のために泣いたり怒鳴ったりすることができるというのは、私にとっては、決して当たり前のことではなく、「どんなことがあっても君(たち)を守る」などと家族のメンバーに約束するなど、恐ろしくて私にはとてもできない。家族というのは、職場とは異なり、自由に加入したり脱退したりすることができる集団ではない。だから、家族に関しては、利益を代弁せずに済ませるなど、いかなる場合にも許されないことになる。だから、いずれかの家族に属することは、すでにそれ自体として、私の目には大きなリスクと映る。

自分の利害すらどうでもよくなるのではないかという懸念

 しかし、さらに反省を進めて行くと、本当は、自分の利益すら、私にとってはどうでもよいことであり、最終的には、私にとって是が非でも守らなければならないものなど何もないことが明らかになってしまうような、嫌な予感がしてならない。「本当に大切なものとは何か」「何が何でも守らなければならないものは何か」……、自分に対しこのように問いかけても、明瞭な答えが得られないからである。これは、非常に恐ろしいことである。守るべきものが何もない、大切にすべきものを何も持たないことは、人生において寄る辺がないことを意味するばかりではなく、それ自体が悲惨なことでもある。それは、信仰を失ったキリスト教徒の悲惨と重ね合わせることができるような性質の何ものかであり、ニヒリズムないし絶望へと差しかけられた者の悲惨であるように思われるのである。このように考えるたびに、私は、さらに自分自身の空虚さを自覚し、そして、愕然とする。

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 「あなたは今までに何人の最期を看取りましたか。」

 あなたがこの問いに「ゼロ」と答え、しかも、あなたの年齢が40歳以上であり、かつ、介護の経験がないのなら、あなたは、ある意味では幸せであると言える。(この場合の「最期を看取る」とは、臨終にいたるまで病人に付き添って看病することを言う。)

 もちろん、大家族の場合、一緒に暮らしていた者の最期を看取ることは、珍しいことではなく、むしろ、日常を構成する要素であるかも知れない。しかし、現在では、核家族化が進んでいるから、40歳以上でも、誰の最期も看取ったことがない人、つまり、(大抵の場合は高齢の)親族が病気にかかり、そして、亡くなるまでに何らかの仕方で立ち会った経験を持たない人は少なくないであろう。

 現在、私は40代後半であるが、これまでに3人の最期を看取ってきた。この世代としては多い方だと思う。(なお、私よりも年長で、私が生まれたときのことを知る親族は、今はもうひとりも残っていない。)たしかに、これは、貴重な経験であると言えないことはないが、それでも、私のごく個人的な感想としては、親族の最期を看取る行為は、現代では、精神衛生上必ずしも好ましいことではなく、可能であるなら、回避する方がよいものである。

 細部にわたることは一々書かないが、少なくとも、次のようなことは確かであると思う。

 つまり、病を抱えた親族の面倒を、何ヶ月か、あるいは何年か、ある程度以上の期間にわたって最後まで見続けるなら、あなたは、看病される者が病に負け、彼/彼女の「人間性」が試練にさらされ、やがてこれが剥落して行く場面にかなりの確率で否応なく立ち会うはずである。親しい者のそのような姿など目にしたくないと思っても、大抵の場合――あなたが看病しているのは、他に代わる者がいないからであることが多い――あなたは、その場から逃れる自由を奪われており、病院の病室において、あるいは、自宅において、彼/彼女の最後の姿を見守り続けるをえない。これは、大きなトラウマとなる。

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それほど病が篤くない段階で「お見舞い」に行ったり、臨終の場に立ち会ったりするだけであるなら、誰でも、故人の思い出を美しく心に抱くこともできるであろう。しかし、あなたが「最期を看取る」者であり、特に、逃げ場がない状態で看病を続けた者であるなら、あなたの記憶に鮮明なのは、病に苦しみながら人間性を少しずつ剥落させて行く者の姿であり、病室、手術、点滴、効果のない治療や処置、医者や看護師の(無)表情、検査結果を記した書類、X線フィルム、故人との言い争い、消毒薬のにおいなどであるに違いない。故人との暮らしが何十年にもわたるものであるとしても、また、その何十年かがかけがえのない時間であったとしても、あなたがさしあたり繰り返し思い出すのは、その年月であるというよりも、むしろ、時間的にもっとも近い過去の「看取り」とならざるをえない。かけがえのないはずの何十年かは、これによって封印されてしまう。最期を看取ることは、親しい者ほど避けるのがよいかも知れないと私が考える理由である。

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