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 以前、次のような記事を投稿した。


「さあて、今日は何をしようかな?」 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

無為の理想と無償の行為について哲学的に考える。


 この記事において、私は、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやきながら、鳥のさえずりとともに目を覚まし、朝食を摂りながらその日の予定を考えるような生活が理想であるという意味のことを書いた。

 それでは、これが私の理想の一日の始まりの光景であるとするなら、その一日は、どのようにして終わるのであろうか。つまり、一日の理想的な始まりに対応する理想的な終わりとは、どのようなものなのであろうか。しかし、この点についてもまた、私には、明確な姿があり、理想の一日がこのようにして終わればよいと考える光景がある。

 この理想的な光景に登場する私は、テレビの前に置かれたソファーに腰を下ろし、テレビをつけたままうたた寝している。テレビを見ながら、居眠りしているようである。理想の一日は、テレビの前でのうたた寝で終わるわけである。

 テレビを見ながらのうたた寝は、もう20年以上前から、私の理想とする老後の一日の終わらせ方であった。原稿の締め切りに追われることもなく、職場での雑用に頭を悩ませることもなく、穏やかにテレビを見ながら眠りにつく……、たしかに、これは、いくらか自堕落な生活ではあるけれども、それでも、かぎりなく心穏やかな生活でもあるように思われる。

 「老後」の生活は、現在の私の心を占領しているいくつもの関心や気がかりからは無縁であるかも知れないが、その代わり、「老後」なりの気がかりや苦労がそこには見出されるには違いない。それでも、(どのような番組かはわからないが)一日をテレビの前で穏やかに終わらせることができる生活を手に入れることができるなら、私としては十分に満足であろうと思う。

 ところで、アメリカのテレビドラマや映画を見ていると、テレビの前に置かれた二人掛けのソファーにカップルが腰を下ろし、男性が女性の肩に腕を回して二人でテレビを見ながらうたた寝する場面にときどき出会う。これもまた、私の理想とするところではあるが……。