AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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Légion

 2016年は、あと1週間で終わる。世界的にはテロや戦争があった1年ではあったけれども、私自身の生活には、特に大きな波乱はなく、それなりに穏やかに過ごすことができたと思う。

 ところで、私は、数年前から、正月には何も特別なことをしないと決めている。つまり、

    • NHK紅白歌合戦を見ず、
    • 初日の出を見るために遠出せず、
    • 初詣に行かず、
    • 雑煮を食わず、
    • おせち料理を食わず、
    • 門松を飾ることもなく、
    • 年始の挨拶に誰かを訪問することもない

ということである。私は、毎年大晦日に墓参することにしており、これが年末年始のもっとも大きな行事となる。これ以外は、他から何かが飛び込んでこないかぎり、普段の休日と同じように過ごす。何が面白いのか私にはよくわからない年末の準備や正月のルーチンをすべて取りやめることにより、毎年年末に感じていた追いつめられるような息苦しさがいくらか軽減されたように思う。特に、私は、赤、白、金、緑などの組み合わせからなる派手な「正月カラー」が大の苦手で、あれを見ずに済むだけでも、気分はかなり落ち着く。

 ただ、12月29日から1月3日まで繁華街で発生する狂乱状態の人ごみを避けるため、この1週間のあいだの食料は12月28日までにすべて買い込み、年末年始には可能なかぎりどこにも出かけないようにする。これが、普段の休日との最大の違いである。

 年末も年始もなく、暮れも正月もない生活を送っている――と書くと、ずいぶん忙しそうに聞こえるけれども、実際にはそれほどでもない――と、年末年始の恒例の行事というのは、単なる雑用にすぎないものとなる。特に年賀状の作成は、私にとってもっとも煩わしい作業である。何とか理由を見つけてやめたいと思っているし、また、以前に書いたことであるが、ハガキの形式による年賀状は、やがて姿を消すことになるのではないかとも予想している。


年賀状 続けるべきか、やめるべきか : アド・ホックな倫理学

今日、下のような記事を見つけた。1月2日の年賀状配達、17年から中止 日本郵便 1月2日の年賀状の年賀状の配達が来年からなくなるようである。 よく知られているように、年賀状というのは、年始の挨拶の代用品であり、年賀状に非常にながい歴史があるわけではない。ま



 いや、年賀状がなくなるばかりではない。年末年始の行事もまた、少しずつ廃れて行くに違いない。何世代も同居して暮らす家族の場合、年中行事を廃止することは困難であろうが、独り暮らしなら、自分の決意だけで正月に何もしないことを選択し――付き合いで顔を出さなければならない新年会のようなものを除き――年末年始を1週間連続した休みとすることができるからである。

 たしかに、来し方行く末を落ち着いて考える時間は、誰にとっても必要である。しかし、少なくとも現在は、平均的な日本人にとり、正月はただ慌ただしいばかりであり、人生について思いをめぐらせる時期ではなくなりつつあるに違いない。

 むしろ、1年の区切りが必要であるなら、それは、自分で好きなように決めればよい。そして、自分で決めた区切りを迎えるとき、ひとりで静かに反省すればよい。私たちには、好きなように年末年始を過ごす権利があり、それぞれの生活の中で、好きなように1年を区切る権利がある。12月には、28日の仕事納めに向かって慌ただしく仕事を片づけ、年末年始には家族サービスに忙殺され、そして、疲労困憊した状態で1月4日の仕事始めを迎える……、このような正月の過ごし方が正常であるはずはないように思われるのである。


Kobe delivery time!

 今日、下のような記事を見つけた。

1月2日の年賀状配達、17年から中止 日本郵便

 1月2日の年賀状の年賀状の配達が来年からなくなるようである。

 よく知られているように、年賀状というのは、年始の挨拶の代用品であり、年賀状に非常にながい歴史があるわけではない。また、「年賀状」という言葉を耳にして誰もが連想する「お年玉付き年賀はがき」は、1949(昭和24)年に最初に販売されたものであり、発売から70年も経っていないごく新しいものである。「年賀状の販売枚数が減った」「年賀状を出す人が減った」などの事実が否定的に報道されることが少なくないけれども、これが本当に悲しむべきことであるのか、私には判断することができない。

 そもそも、普通の会社員なら、元日に確実に配達されるよう年賀状を調達し作成し投函するなど、物理的にほぼ不可能であるし、冷静に考えてみれば、ブツとしての年賀状をわざわざ届けるに値する相手がそれほどたくさんいるわけではないかも知れない。しかも、現在では、正月休みはわずか数日しかなく、雑用に忙殺されて疲労困憊するだけのつらい期間に成り下がっている。(私が独身でよかったと思うのは、年末まで長時間労働を強いられた男性が正月に「家族サービス」の追い打ちをかけられているのを街で見かけるときである。)正月にどうしても誰かに挨拶したいのなら、メールに代表される電子的な手段でメッセージを送れば済む場合がほとんどであるに違いない。

 私自身、毎年一応年賀状を購入し、作成し、投函しているが、その数は年とともに減っている。年賀状の宛先は、ほぼすべて目上(≒高齢者)であり、この数年は、宛先のリストに新しい名前は加えられていないからである。

 昔は、仕事の関係で新しく知り合いになった相手には年賀状を出すことにしていた。年賀状を出すのが礼儀だと信じていたからである。しかし、最近は、この「年賀状を出すのが礼儀」という感覚が妥当なのかどうか、疑わしく感じられるようになり、基本的には年賀状の枚数を増やさないことにしている。また、私が年賀状を出しても、返事が戻ってこないことも少なくない。

 年賀状は、郵便局がどれほど宣伝しようとも、いずれ廃れて行き、高齢者のあいだで細々と維持される習慣になることを避けられないはずである。しかし、年賀状というのは、「去年お世話になったから今年は書く」というものではなく、継続して毎年届けることに意義があるものである。したがって、今年まで続けて出していた相手には来年も原則として出し続けるのが無難であると私は考えている。もちろん、「来年からは出さない」と宣言し、年賀状と縁を切ることは不可能ではないが、それもまた、それなりに手間のかかる作業であるようにも思われるのである。


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