AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:幸福

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興味のないことについて「やらないことの言い訳」を探すことはない

 何かをやってみたいとき、私は、できないことの言い訳をすぐに探してしまう。できないことの言い訳を見つけることに関するかぎり、私は――そして、おそらく誰でも――天才的な能力を発揮する。

 「やりたい」「やってみたい」という意欲が心に一瞬だけ浮かび、しかし、次の瞬間にはもう、私は、できないことの言い訳を探している。いや、場合によっては、目指す言い訳に辿りついていることもある。だから、ある計画について、本当にやりたいことなのかどうか、見きわめることは容易ではない。

 確実なことがあるとするなら、それはただ一つ、興味のないことについては、やらないことの言い訳をあえて探さないということである。そもそも、興味のないことについては、心に浮かぶことすらないから、「やってみようか」と考える機会すら最初から訪れないのである。

「やらないことの言い訳」は、大抵の場合、合理的である

 もちろん、やらないことの言い訳を探すとき、対象となっている事柄のすべてが私にとってやりたいことであるわけではない。本当にやりたくないこと、あるいは、本当にできないことは誰にでもあるからである。たとえば、私は、酒が飲めない。だから、誰かから酒を飲むよう求められれば、相手によっては、飲まないことの言い訳を探すことになる。相手を説得するためである。

 しかし、言い訳というのはすべて、自分または他人を何らかの意味において説得することを目指すものであるから、当然、それなりに合理的であるのが普通である。そして、この合理的な外観は、言い訳の一つひとつが覆い隠している欲求や関心というものが自分にとってどのくらい価値あるものであるのかを分かりにくいものにしている。

「やらないこと」が手段にかかわる場合、言い訳によって否定された欲求や関心は「かけがえがある」

 言い訳によって覆い隠された欲求や関心が自分の本当の欲求や関心であるのか、本当にやりたくないことであるのか、あるいは、ただ実行の可能性が心に浮かんだにすぎないことであるのか、これを判別する簡単な方法がある。それは、「やらないことの言い訳」に対応する当の事柄が、私にとって何らかの「目的」であるのか、それとも、それ自体は目的ではなく、別の目的を実現するための「手段」にすぎないのかを確認することである。

 私が探しているのが、手段となる何ごとかを実行しない言い訳であるなら、その言い訳は、何らかの目的を実現するためにその手段を選びたくない理由であり、したがって、代案を見出すことができるかぎりにおいて、それは正当である。

 これに対し、私の言い訳が「目的」にかかわるものであるなら、つまり、「やらないことの言い訳」を探している当の事柄が何か別の目的を実現するための手段ではなく、それ自体として私の関心や欲求を惹くものであるなら、「やらないことの言い訳」が覆い隠すのは、私が本当にやりたいことである。この場合、「やらないことの言い訳」を探してはならないことになる。

 もちろん、目的と手段の関係は相対的なものであり、私の欲求や関心の対象となるのは、大抵の場合、目的でもあり手段でもあるような何ものかである。ただ、何らかの目的を実現するための手段にすぎぬものであるとしても、その目的が私にとって必ずしも明瞭ではない場合――つまり、手段としての性格が相対的に希薄である場合――私は、これを目的と見なすことが許される。反対に、何かの手段として、目的との関係が明瞭な仕方で意識に上る場合――つまり、目的としての性格が相対的に希薄である場合――には、「別の選択肢」を検討することが可能であるに違いない。

 「やらないことの言い訳」は、私の心の中から際限なく湧いてくる。そして、この言い訳は、私が新しい一歩を踏み出すことを妨げる。もちろん、言い訳のおかげで危険や破滅を免れることが可能になることがないわけではない。しかし、それだけに、一つひとつの言い訳が斥けようとしているものが何であるのか、これを丹念に吟味することは、私が本当にやりたいこと、本当の欲求、本当の幸福を見出し、幸福な人生を送るために不可欠の作業であるように思われる。

Best Friends

 私たちは誰でも、幸福になりたいと思っている。少なくとも、不幸になりたいと思う人はいない。

(1) もし「不幸になりたい」と言っている人がいるとするなら、その人が「不幸」という言葉で指し示している事態に身を置くことが、その人にとっての幸福なのであるから、「不幸になりたい」と言っている人も、本当は、幸福を求めているのであると考えなければならない。

(2) また、「今の状態で十分幸福である」と語り、現状に満足しているように見える人も、現状を維持することを選んでいるわけであるから、やはり、この人にとっても、幸福が好ましいことに変わりはないのである。

 幸福というのは、どのような状況のもとでも必ず選ばれるものであり、「必ず選ばれるもの」というのが幸福の定義でもある。

 とはいえ、私たちは、つねに何かを選び取っているのに――というよりも、何かを選び取らなければ、一瞬たりとも生きることができないのに――つねに幸福であるわけではない。むしろ、社会生活の中では、何とはなしの「不幸感」が常態であって、「あなたは今幸福ですか」という問いに対して「幸福です」と答えることのできる人の方が少ないようにも見える。

 私たちは、この「不幸感」を放置しているわけではない。これを解消するために、さまざまな試みが提案され、実行されている。もちろん、人間のふるまいを全体として見るなら、これは、上に述べたような意味における幸福の追求でしかありえない。しかし、私たちが具体的に時間とエネルギーを費やしているものの多くは、幸福の実現を目標とするものであるというよりも、むしろ、「不幸感」の解消を具体的な目標としている。手帳に記された予定を消化するのも、酒を飲むのも、旅行するのも、友人とゴルフに行くのも、すべて、現状に対する不満足を解消したり、これから目をそむけたりするためのものであるに違いない。

 それでは、何をすれば、あるいは、どのような状態に身を置くことにより、「不幸感」が解消されるのであろうか。この問いには、しかし、人類の歴史とともに古い答えが用意されている。すなわち、「今、ここ」にとどまることである。換言すれば、過去や未来について思い煩うことなく、現在のこの瞬間に注意を集中させることである。

 もちろん、これは、「何もかも忘れて享楽的に時間を過ごす」ことではない。その都度の「今」の自分のあり方がつねに人生の目的――つまり主体的に選び取られたもの――となるようにふるまうことである。たしかに、形式的に考えても、また、実質的に考えても、幸福感を作り出すただ一つの道であるに違いない。ホラティウスの有名な言葉「日を掴め」(carpe diem) は、この道の簡潔な表現である(『歌集』第1巻第11歌)。

…… Sapias, vina liques et spatio brevi
spem longam reseces. dum loquimur, fugerit invida
aetas: carpe diem, quam minimum credula postero.

……あなたのワインから澱を取り除きなさい、そして、賢さを明らかにしなさい。
短い人生にあわせ、遠い将来の希望を切り詰めなさい。時間は妬み深く、私たちがしゃべっているあいだにも、流れ去っている。
明日のことはできるだけ信用しないようにして、それぞれの1日を真剣に掴みとりなさい

 「過去の私」や「未来の私」のために「現在の私」があるのではない。反対に、その都度の「現在の私」のかけがえのなさを味わうことができるような生き方こそ、幸福な生き方である。今の私のあり方をつねに主体的に選び取り、どのような困難な状況に身を置いても、「この状況は俺が選び取ったものだ」と確信すること、あるいは、これを運命として主体的に引き受ける――いや「引き寄せる」「抱き寄せる」と表現すべきかも知れない――ことが幸福の秘訣なのである。


Lean Product Management

「時間管理が私たちの人生をダメにしている理由」

 今日、イギリスのガーディアン紙のウェブサイトで次の記事を見つけた。

Why time management is ruining our lives | Oliver Burkeman

 「時間管理が私たちの人生をダメにしている理由」という表題を持つこの記事は大変に長いのだが、その内容をごく簡単にまとめると、次のようにななる。

 産業革命以降、生産性の向上を目標として「時間管理」(time management) が試みられてきた。最初は、時間管理の対象は、製品を産み出すプロセスであったけれども、やがて、時間管理の範囲は、労働者一人ひとりの労働へと広がる。特に、19世紀末、フレデリック・テイラーがベスレヘム・スティール・ワークス社での実践にもとづいて労働者管理のシステムを開発してから、時間管理は、生産性向上の必要不可欠の手段と見なされるようになる。大雑把に言い換えるなら、労働から無駄を排除し、有限な時間の中に作業を効率よく詰め込むことが生産性向上の近道と考えられるようになったのである。20世紀後半以後に登場したいくつもの生産性向上のスキームーーGTDはそのもっとも有名なものである――はすべて、時間管理が生産性を向上させることを当然のように前提とするものである点において、テイラーの労働者管理法と何ら違いはない。しかし、20世紀末以降、「生産性」(productivity) や「効率」(efficiency) は、労働を評価する尺度であるばかりではなく、人生全体においてつねに考慮することが望ましい理想となり、この意味において「個人的」なものとなった。食事、余暇、デート、しつけなど、あらゆる点に関し「生産的」(productive) であることが追求されるようになり、生産性と効率が一種の強迫観念のようになったのである。しかし、人生から無駄を取り除き、Inbox Zeroの状態を実現しても、なすべきことから完全に解放されるわけではなく、むしろ、さらなるタスクと忙しさ、そして、一種の落ち着きのなさを生活に呼び込んだだけである。(Inbox Zeroとは、メールを受信箱に残さず、メッセージを受け取ったら即座に次の行動を起こすか削除するかのいずれかを選ぶことで生産性を向上させる方法である。この記事では、冒頭に、Inbox Zeroを提唱したマーリン・マン(Merlin Mann) のグーグルでの講演の様子が紹介され、後半では、同じマンが時間管理をテーマとする著作の執筆を宣言し、しかし、結局、執筆を断念した事情が記されている。)

ライフハックは人生を「楽しむ」ことを妨げる

 英語には「ライフハック」(lifehack) という言葉がある。これは、個人的な日常生活における生産性の向上を目指す試み全体を指し示すために使われているものである。ライフハックを形作るのは、作業を効率化し、作業に必要な時間を短縮し、そして、処理すべき他の新たな作業のために時間を確保するさまざまな工夫である。もちろん、ライフハックには、私たちの一人ひとりの生活の改善と人生の幸福が遠い目標として暗黙のうちに設定されているに違いない。

 日本やアメリカには、このライフハックについて著述を行う専従のブロガーやライターまでいる。生産性向上のティップスを考案し提案することを生業とするこのような特殊な人間が考えつくことは、同じような関心を持ち、同じような生活を送っている人間たちの役には立つのであろう。また、たがいのアイディアを褒め合ったり共有したりすることにもそれなりの意味があるのかも知れない。(「タスク」に対するフェティシズムを基礎とする疑似宗教のように見えないこともない。)しかし、このようにして産み出されたティップスは、平均的な生活を送る「普通の」人間の生活の質を改善することがないばかりではなく、仕事の効率化にすら大して役には立たないであろう。

 そもそも、上の記事が強調しているように、時間を効率的に使うことは、人生を幸福にするとはかぎらない。朝起きてから夜寝るまでの何もかもが「処理」の対象となり、さらに、睡眠すら効率的に生産的に処理されるべきものとなってしまったら、私たちが人生の中で通過するすべての時間は、未来のいずれかに時間が使われるべき何かのための準備として使われることになり、決して、人生を「楽しむ」ことができなくなってしまう。「楽しむ」ということは、何よりもまず、みずからの心を現在へと集中させ、1つのことをそれ自体のために行うことによって初めて可能となるものだからであり、「処理する」ことの対極に位置を占めるものだからである。


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