Sunday afternoon reading

 日本の多くの新聞、そして、多くの雑誌には、「書評」が掲載されている。さらに、「週刊読書人」や「図書新聞」のような週刊の書評専門誌も刊行されている。だから、日常生活において書評を目にする機会は少なくないに違いない。

 書評というものは、本来は、1冊あるいは複数の本を取り上げ、これが読むに値するものであるかどうか、読者が事前に判断する材料を提供するためのものである。しかし、わが国の場合、新聞や雑誌で実際に私たちの目に触れる書評をこの観点から眺めるなら、これらが本来の役割を果たしていないことがわかる。というのも、新聞や雑誌の書評は、大抵の場合、本が読むに値するものであるかどうかを明らかにするものではなく、本を褒めることを目的とする提灯記事であり、このかぎりでは、広告と同じだからである。(ある新聞記者が「書評とは、新聞社の負担で掲載される本の広告のこと」「書評とは、どの本が読むに値するかを教えるためにあるのではなく、すべての本が読むに値するかのように新聞の購読者に錯覚させるためにある」と語っていたという話を耳にしたことがあるが、たしかに、現実はそのとおりであろう。)これは、映画評についてもまったく同じである。

 書評専門誌の状況は、さらに嘆かわしいものとなっている。大抵の場合、書評を執筆する者、つまり評者は、取り上げられた本の著者の知り合いである。当然、書評の内容は、「お友だち」のあいだでの褒め合いになる。だから、著者のことも評者のことも知らず、(学術書や文学作品では、)当該の分野に詳しいわけでもない人間が書評を読んでも、本の内容も価値もわからないことになる。

 昔から、研究者たちは、小さなサークルを作り、部外者にはよく理解できないネタを取り上げ、内輪で「盛り上がっている」ことが多い。人文科学や社会科学のごく新しい分野、しかも、地域や出身校や年代によって研究者の分布が偏っている分野の場合、同じ属性の者たちが集団を作るこの傾向は特に明瞭である。このようなサークルを作る研究者たちは、自分たちの研究の意義を外部に向かって積極的に説明しないから、研究業績の生産と消費がサークルの内部で完結する状態、いわば「自給自足」の状態に陥ることが多く、この場合、外部の人間には、彼ら/彼女らの研究に何の意義があるのかますますわからなくなる。書評というのは、内輪のまなざしを共有しない門外漢がこのような「タコツボ」から生れた業績を判定し評価する機会であるはずであった。しかし、現実の書評は、研究者の狭いサークルのあいだの「つながり」や「絆」を強めるのに役に立つばかりであり、知的公衆の刺戟となることもなく、文化の発展を促すこともないように見える。

 もちろん、欧米、特に英語圏では、事情が異なる。New York Timesを始めとして、多くの一般の新聞が週に1度は掲載する書評は、取り上げる本が読むに値するものであるかどうか、立ち入って吟味するのが普通である。

Book Review

 したがって、ある本を「読むに値しない」と判定する否定的な書評が掲載されることもある。(映画評についても同じである。)

 さらに、イギリスの高級紙Timesの別冊として刊行が始まった週刊の書評誌Times Literary Supplement (TLS) や、

Home Page - The TLS

アメリカでもっとも影響力のある週刊の書評誌The New York Review of Books (NYRB) (政治や社会問題に関する記事が多いことでも有名である)

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などの場合、書評1篇あたりの長さは、もっとも短いものでも、日本の書評誌に掲載されるもっとも長いものの2倍以上である。(1冊の本のレビューにタブロイド判で最低1ページ全面が当てられる。多い場合には、タブロイド判の見開き2面分になることもある。)そこでは、取り上げる本の著者のこれまでの活動、本が取り上げるテーマの解説、同じテーマを扱った他の本との比較などにより、評者なりの作品の解釈が試みられているのが普通である。

 書評は、単なる表面的な紹介ではなく、仲間うちの褒め合いでもない。一般的な関心を持つ知的公衆――これがフィクションにすぎないとしても――のまなざしを代理し、このままざしのもとで本の内容を吟味することに書評の意義はあるように思われるのだが……。