AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:待機児童

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これが問題になったきっかけは、授賞式に現れた国会議員

 昨日、次のような記事を見つけた。

「日本を愛しています」と語った俵万智さんに集まる「反日」批判 愛国とは何なのか

 これは、「保育園落ちた日本死ね」が新語・流行語大賞に選ばれたという出来事に関連する記事である。(なお、正確には、「保育園落ちた日本死ね」ではなく「保育園落ちた日本死ね!!!」と表記しなければいけない。)

 たしかに、「保育園落ちた日本死ね」は、きわめて格調の低い発言であり、これが選ばれることにある違和感を覚えるのは当然である。実際、新語・流行語大賞のウェブサイトには、この文字列について、次のように記されている。

「死ね」というのは美しい表現ではないが、一つの言葉がここまで待機児童問題を世の中に周知させたという事実を評価し、受賞語として選出した。

 しかし、多くの人々が漠然と抱いていた違和感を増幅させ、この違和感が単なる格調をめぐる趣味の問題を超えて「政治的」なレベルに拡大したのは、受賞者とされた野党の国会議員が「満面の笑顔」で授賞式に現われ、登壇したからであり、この「満面の笑顔」が日本を貶めることに対する満足の笑顔として解釈されたからであるに違いない。

 もちろん、形式的に考えるなら、(本人の心中はわからないが、)問題の国会議員の笑顔を日本を貶めたことの満足の表現、あるいは、政権を攻撃するプロパガンダが成功したことの満足の表現と受け取ることは不自然であり、やはり、上に引用した言葉のとおり、世論を喚起し、問題の解決に貢献したことへの満足と受け止められるべきであろう。(もちろん、世論を実際に生産的な方向へと喚起したかどうかについては、議論の余地がある。)

 また、たとえ彼女が反日のプロパガンダの成功に満足しているとしても、この程度の成功で「満面の笑顔」を隠すことができないのなら、この笑顔は、野党のあまりにも低い「志」を反映するものとして、驚きとともに受け取られるべきであろう。また、新語・流行語に選ばれたくらいで「してやったり」と考え、みずからを肯定的に評価してしまう野党など、現在の政権にとっては脅威でもライバルでもないことが公衆の前で露呈したにすぎないと考え、右翼は大いに安心すべきであろう。

 冒頭の記事では、選考委員の一人である俵万智氏が攻撃されていることが紹介されていた。俵氏は、次のように語っている。




 私は、少なくとも新語・流行語大賞に関するかぎり、彼女の発言が特別に偏向しているとも反日的であるとも思わない。問題があるとするなら、彼女を始めとする選考委員が待機児童の解消のための政府や自治体の努力について正確な知識を欠いたまま、この文字列を選んでしまった点である。(右翼によれば、これは、無知によるものではなく、故意のすり替えであるということになる。もちろん、右翼の見方は、単なる憶測によるものにすぎないけれども、選考委員の顔ぶれが全体として「左」方向に大きく傾斜していること、また、実質的な主催者であり「現代用語の基礎知識」の発行元である自由国民社が――もともとは右寄りのメディアだったにもかかわらず――この何年かのあいだに急激な「左旋回」を遂げたことを考慮するなら、さらに、去年は「アベ政治を許さない」が受賞していることを考慮するなら、このような憶測が「右」の人々のあいだで生まれるのは仕方がないような気もする。)

新語・流行語大賞はながく使われるような言葉に与えられてきたわけではない

 とはいえ、根本的な問題は、俵万智氏を批判したり、「保育園落ちた日本死ね」が選ばれたことに憤りをあらわにしている人々がいずれも、次のような誤解に不知不識に囚われている点である。すなわち、新語・流行語大賞が何か権威のある賞であり、これまで受賞してきたのがいずれも、積極的に使うのが望ましい言葉、ながく使われ、人々の記憶に遺るのにふさわしい言葉であるという誤解が批判や憤りの前提になっているのである。

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 少し冷静になって過去の「受賞語」を振り返るなら、私たちは、次のことに気づく。新語・流行語大賞とは、あくまでも、それなりに広い範囲において新たに使われるようになった言葉を対象とするものであり、きれいな言葉が選ばれてきたわけではないし、受賞した言葉がその後も使い続けられたわけでもない。それどころか、新語・流行語大賞に選ばれて初めてそれが新語あるいは流行語であることを知ることも珍しくない。2016年に受賞した11の言葉のうち、私は、「神ってる」「聖地巡礼」「(僕の)アモーレ」「復興城主」の4つを見たことがなかった。また、去年までに選ばれたものについても、全体として少なくとも半分は知らない。さらに、10年以上前に受賞した言葉については、詳しく説明されなければその意味がわからない場合もある。(2006年の「たらこ・たらこ・たらこ」、2007年の「鈍感力」など。)

 新語・流行語大賞は、言葉を選ぶことにより、日本語の使用の規範を定めようとしているのではないし、表現の格調、言葉の背後にある事実認識の妥当性などを基準としているわけでもない。だから、過去の「受賞語」は、意味不明な文字列の見本市であり、文字通りの「阿呆の画廊」であるけれども、日本語としての品質や格調が最初から無視されている以上、これは当然のことなのである。「保育園落ちた日本死ね」もまた、それほど時間を経ることなく、人々の記憶から姿を消し、意味不明な文字列の見本市を飾る作品の一つに数えられるようになるであろう。


保育園

 周辺の住民の生活環境を好ましくない方向へと変化させる可能性がある施設や建物を市街地に建設すると、反対運動が起きる可能性がある。特に、人口がある程度以上密集した大都市では、このような計画は、大抵の場合、何らかの反対運動を惹き起こすことになる。マンション、火葬場、刑務所、そして、保育園などは、反対運動にきっかけを与える施設や建物の典型である。

 しかし、このような施設や建物は、すべてが同じような「迷惑施設」なのではない。すなわち、これらは、(1)建設にただ反対することが許される施設や建物と、(2)建設に反対を表明する者に一定の(もちろん倫理的な)義務が課せられる施設や建物の2種類に区分されるはずである。

マンション、刑務所、火葬場への建設反対は、言いっぱなしでかまわない

 しばらく前、近所を散歩していたら、「建設反対」と印刷された「のぼり」を見かけた。この「のぼり」は、ある通りに面した10メートルか20メートルくらいの範囲の住宅の前に1メートルおきくらいに何十本か立てられていた。通りの反対側を見ると、そこには空き地があり、10階建てのマンションの建設が計画されていることを示す「建築計画のお知らせ」が掲げられていた。「のぼり」に印刷された「建設反対」とは、マンションの建設計画への意思表示であることがわかる。

 高層のマンションは日照を遮ったり、新たな騒音を産み出したりする可能性がある。したがって、周辺の住民が、「法律や条例にもとづいて建設が容認されているということはマンションの建設を許す十分な理由とはならない」と判断したとしても、それは、何ら不自然なことではない。そして、このような場合、住民には、建設計画にただ反対することが許されると考えることができる。それは、建設されるのがマンションだからである。

 2016年現在、少なくとも東京23区の西の方では、住宅の需要が極端に逼迫しているわけではない。すなわち、住宅の逼迫した需要に対し、集合住宅を新たに建設することで応える義務が公共の福祉という観点からデベロッパーに課されているわけではない。さらに言い換えるなら、予定された土地に建設されるマンションで誰かが暮らしたいと思っているとしても、この誰かには、他にいくつもの現実的な選択肢があり、問題のマンションに住めなくなったとしても、ただちに路頭に迷うわけではないのである。マンションの建設反対の意思表示のすべてが常識的であり妥当であるとは思わないが、それでも、周辺の住民には、自分たちが利害関係者であることを表明する権利がつねに与えられていると考えるべきである。

 刑務所や火葬場に関しても事情はほぼ同じである。たしかに、公共の福祉の観点から、刑務所や火葬場は、迷惑であるかどうかには関係なく――どうしても必要な施設である。しかも、特に火葬場に対する需要は逼迫していると言ってよい。ただ、刑務所や火葬場が必要であるとしても、これらを人口が密集した市街地にあえて建設しなければならないわけではない。このような施設の場合、「日常的なアクセスのよさ」を考慮する必要がないからである。

保育園(保育所)の建設に反対するなら対案を出せ

 しかし、世の中には、建設にただ反対するだけでは済まされない施設がある。すなわち、公共性が高く、需要が逼迫し、しかも、立地に制限がある――人口の密集するところでこそ必要とされる――ような施設である。2016年現在、そのような施設を代表するのが保育園(保育所)である。

 もちろん、私は、保育園の建設に反対してはならないと言っているのではない。保育園が隣地にできることを迷惑と感じるのは、それ自体としては、ごく自然な反応だからである。ただ、日本人なら誰も、保育園に対する需要が逼迫していることを知っている。また、需要と供給のバランスが「可及的速やかに」解消されないと、日本の将来の産業競争力が損なわれたり、保険制度や年金制度が破綻したりする危険があるということもまた、周知の事実である。つまり、保育園の問題――つまり、待機児童の問題――というのは、社会が全体として解決すべき問題なのである。

 待機児童の問題が社会全体で解決されるべき問題であるという共通了解を否定する者は、保育園が近所に建設されることにただ反対してもかまわない。しかし、待機児童の解消が社会全体の利益を増大させるという認識を大多数の日本人とともに共有するなら、「保育園の建設に反対を表明する権利」は、「現実的で具体的な対案を出す義務」と一体のものでなければならない。つまり、隣地に保育園を建設してほしくないのなら、候補となる代替地を具体的に提案し、また、その代替地の周辺の住民の了解を得る努力をすることが義務となるはずである。なぜなら、待機児童の解消は、自分に子どもがいるかどうかには関係なく、社会全体の課題であり、したがって、自分自身の課題として引き受けるべきものだからである。具体的で現実的な対案を示す義務を負う覚悟がない者には、保育園の建設に反対する権利はないと考えるべきなのである。

 昨日、次のような記事を見つけた。

近所に保育園、迷惑ですか 高齢者ほど反対って本当?:朝日新聞デジタル

 この記事で暗示されているように、みずからを利害関係者に含めるなら、「ただ反対する」ことで済ませることは誰にも許されない。利害が対立するように見える者たちの声に積極的に耳を傾け、当事者のあいだでの合意形成を目指すこと、そして、それぞれの地域にふさわしい保育園(=保育所)の処遇の姿を描くことは、すべての者に課せられた義務なのである。

保育士の給与は公務員並みにすべき

 ところで、待機児童の解消が進まない原因の1つに、保育士の不足があると考えられている。そして、保育士の不足の原因の1つに、劣悪な待遇条件があるとも言われている。私は、保育士の業務の公共性を考慮し、私立の認可保育園(保育所)で働く保育士であっても、保育士に補助金を直に支給することで実質的な賃金を公務員並みに引き上げるべきであると考えている。途方もなく重要な仕事を担う人々が平均の水準をはるかに下回る賃金しか得ていないというのは、「やりがい搾取」以外の何ものでもないように思われるのである。


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