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 親族が亡くなって遺品を整理していると、日記が見つかることがある。これは、処理の難しいタイプの遺品である。故人と親しくなければ、親しくないなりに、しかし、親しければ親しいなりに、扱いに困るのではないかと思う。

 日記に記された情報には、大きく2種類を区別することができる。1つは「今日は……をした」「今日は……に会った」というような単純な事実の報告、もう1つは、意見や感想や決意表明などである。ほぼすべての場合において、両者は1人の日記に混在しているけれども、混合の比率により、おのずから日記の性格が決まってくる。

 日記がブログと異なるのは、基本的に公開を前提とするものではなく、したがって、日記をつけている本人に理解可能であることしか記されていない点である。だから、記されているのが事実の報告であるとしても、見ず知らずの読者の目に触れることは想定されていないし、意見や感想や決意表明などについては、もちろん、その背景が説明されているわけでもない。それどころか、他人に読まれる可能性があるなら決して記されなかったようなことが日記には書きとめられていることすらある。

 また、故人がパソコンやスマートフォンで日記をつけていたのでなければ、日記は、ノートというブツの形で遺されることになる。故人が手で書きつけていたものというのは、しかし、どこか生々しく、手に取ることをためらわせる。これもまた、ブログとは異なる点である。

 それでも、事実だけが淡々と書きとめられている日記――いわば「外面の日記」――は、まだよい。問題は、自分の心情が切々と綴られた日記である。日記を書いた本人をあらかじめ知っている場合、単純な事実ではなく、感想、印象、決意表明などによって埋め尽くされた日記――いわば「内面の日記」――を見つけると、どのように反応すればよいのか、途方に暮れてしまうことがある。日記の主と親しく、かつ、本人の印象が日記の文面を連想させるようなものではなかったとき、故人の思い出が決定的に、かつ不可逆的に変質してしまう可能性がある。


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 私自身、もう何年も前、比較的近い親類が亡くなったとき、つけていた日記を見る機会があった。残念ながら、これは、客観的な事実の報告をほとんどまったく含まない「内面の日記」であり、2ページか3ページ読んだところで、私は、軽い吐き気に襲われた。その日記は、今では私の手もとにあるけれども、それ以来、一度も手に取ってはいない。吐き気に襲われたのは、他人には決して覗かれたくない部分、しかも、決して美しいとは言えない部分を覗いてしまったからであり、覗かなければよかったという後悔の念で心が満たされたからであり、さらに、故人との関係がそれによって変質してしまったからであるに違いない。

 日記の主が故人であり、日記が自分の手もとにあるなら、これを読むことは誰によっても禁止されてはいない。しかし、故人の日記を読むことは、故人と自分との距離によっては、自分の人生の大切な思い出を変質させる危険な試みであり、故人の日記は、何らかの仕方で公刊するというようなことでもないかぎり、読まない方が無難であるように私には思われる。